第51話 距離が近くてざわめく心

「今年は素敵なお嬢さんと参加か。楽しみたまえよ、カーライル君」



 白い髪と同じ色の豊かな口髭を蓄えた教授はそう言うと、イェリナとセドリックの参加申請書を快く受け取った。参加許可を意味する印章を押し、にこりと笑うのはヴァンショー教授である。

 参加申請書を無事提出したイェリナたちは、教授の部屋を後にしてから数歩離れると、込み上げてくる安堵と喜びで破顔していた。



「よかった、これでイェリナ様はカーライル様と星祭りに参加できますのね!」

「はい! ありがとうございます、サラティア様。推薦人になっていただいて……」



 手を取り合って喜ぶイェリナとサラティア。彼女たちを微笑ましく見守るのは、セドリックとアドレーだ。

 大急ぎで星祭りの参加申請書を書き上げ、イェリナの保証人兼推薦人はサラティアに。セドリックの保証人兼推薦人はアドレーに、それぞれ署名してもらっての提出だった。


 サラティアとアドレーも今年の星祭りはともに踊るようで、ふたりの保証人と推薦人はイェリナとセドリックが務めている。



「ふふ。イェリナ様、もう無効ですから言ってしまいますけれど、もし、イェリナ様がカーライル様を諦めていたとしたら、わたくしがイェリナ様のパートナーになるつもりでしたのよ」

「さ、サラティア!? なに言ってんの!?」


「だって昨年、カーライル様とアドレーがパートナーとして踊ったのでしょう? イェリナ様があらわれなければ今年だって……。それに今日の申請受付はヴァンショー教授でしたから、きっと通ると思いまして」



 普段の凜とした姿とはまた違い、アドレーに向かってふふふと笑って見せるサラティアはどこか小悪魔めいていて可愛らしい。

 イェリナがもし、普通の貴族令嬢だったなら、アドレーに見せるサラティアの意外な姿を微笑ましく思ったのかもしれない。けれどイェリナは普通の貴族令嬢ではなかった。



 ——あっ、降りてきた! サラティア様は透明感が美しいセルフレームの……長四角型スクエアフレームがお似合いなのでは!? 色……色は何色かしら……。 



 と。とうとうサラティアによく似合う眼鏡はなにか? を考えはじめてしまった。真剣な顔でサラティアの凛々しい顔に似合う眼鏡フレームを頭の中で思い描く。

 ジッと熱く見つめる視線の先では、アドレーが焦ったように、唾を飛ばす勢いでサラティアに詰め寄っていた。



「お、俺はなぁ! 今年こそお前と踊るために余計な策謀を巡らせて——……!」

「ええ、確かに余計でしたわね。本当に……はじめからわたくしと踊りたい、とおっしゃればよかったのよ」



 クスリと笑うサラティアの目元は暖かく緩んでいる。

 一方でアドレーは完全にサラティアの手の上で転がされているようで、赤い髪をぐしゃぐしゃと掻きむしり「そっ! れは、そう……」などと呟きながらなんとも言えない顔をしていた。

 その掻き乱されるアドレーの赤毛が、なんとイェリナの直感を刺激したようだった。



 ——ひらめいた! 色は赤! 赤しかないわ! ああ……やっぱり合成樹脂プラスチックが欲しい……!



 そんなイェリナを柔らかい目で見つめるのはセドリックだ。セドリックはイェリナを現実に引き戻すかのように手を取り引き寄せて、腰を抱く。

 一瞬にしてイェリナはセドリックの腕の中。今まで気にしたことがなかったのに、制服越しにジワリと染み込むセドリックの体温が熱い。

 だからイェリナは思わず、ゴクリと喉を鳴らした。こんな距離ならセドリックの耳に絶対に届いてしまうのに、自制できなかった。



 ——待って、待って。えっ、……え?



 セドリックはなにも変わっていない。イェリナとの近すぎる距離感も、触れ方も。変わったのはイェリナの意識だけ。幻覚眼鏡が視えなくなっただけでこの始末。



 ——めっ、眼鏡……ッ! 幻覚眼鏡はどこなの……っ!?



 失われた幻覚眼鏡をこんなにも求めることになるなんて、イェリナは思ってもみなかった。幻覚眼鏡のない素面のセドリックが、その振る舞いが。こんなにも甘い行いだったなんて、聞いてない。

 イェリナの心臓は早鐘が鳴るように激しく動悸している。手のひらだって、しっとり汗ばんできた。

 あとは頭が混乱パニック状態になって、変な叫び声を上げるか上げないか——というギリギリの絶妙な瞬間タイミングで、セドリックがイェリナに囁いた。



「イェリナ、ほら。前に僕が言ったこと、合っていたでしょ? アドレーは捻くれているから」



 カラリとした声に、イェリナは救われるような思いだった。もし、セドリックの囁きが少しでも濡れていたなら、どうなっていたのかわからない。

 深呼吸を二回。バクバクとうるさく響く心臓を落ち着けてから、イェリナはなんでもなかったかのように言葉を返す。



「あっ、ほんとだ……セドリックはちゃんと、ひとを、見ているんですね」



 もつれることなく言葉を紡いでくれた舌に感謝しかない。

 けれど、ホッとしたのは束の間で、気が緩んだイェリナにセドリックが追撃染みた問いを投げた。



「ねぇ、イェリナ。セオって呼んでくれないの? あのとき、僕をセオって呼んでくれたでしょ?」



 セドリックが甘えるように、イェリナの肩に額を擦りつけて言う。イェリナは胸の内で蓋をして閉じ込めていた罪悪感が飛び出す音を聞いたような気がした。



「だ、だって、わたし……セドリックを利用しようとしていた女ですよ!? それに……それにセドリックに近づいた理由だって、不順で理解不能な動機なのに……!」


「イェリナ、それは今更。大丈夫、大丈夫だから、その話は明日しよう」

「セドリック……? あなた、知ってるの?」



 イェリナの懺悔を聞いてもなおセドリックは柔らかく微笑み手を握り、指まで絡めてくれる。

 指先から伝わるセドリックの熱が、イェリナの罪悪を焼き尽くしてくれるかのよう。汗ばんだ手を知られる恥ずかしさも灰になる。


 イェリナが握られた手をそっと握り返すと、セドリックの黄緑色の目イエローグリーンライトが一瞬見開いて、すぐに柔らかく緩んで笑った。



「明日だよ、イェリナ。きっと明日には、イェリナは僕をセオって呼ぶしかなくなっているから」



 自信に満ちたセドリックの笑みはイェリナの胸の奥まで突き刺さり、もしかしたら一生、抜けないのではないかと思うほど輝いていた。






 そうしてセドリックの心からの微笑みを浴びて放心状態となったイェリナは、導かれるままに大公家の馬車に乗り——王都郊外にあるカーライル大公邸の豪華客室に招かれたのである。


 カーライル家の面々は、イェリナが勝手にいえを出て行ったことも、しばらく戻ってこなかったことにも触れず、ただただ歓迎してくれた。セドリックの兄であるジョシュや、父であるブレンダンの顔には、変わらず幻覚眼鏡が浮かんで視えた。


 やはり、視えなくなってしまったのは、セドリックの幻覚眼鏡だけ。


 とにもかくにも大公邸に戻ってきたイェリナは、二日前にお世話になった専属メイドに、再び、頭の頂点テッペンから足の爪先まで綺麗に磨かれた。

 やっぱりただのお客ゲストに専属メイドがつくなんておかしい、と思う一方で、イェリナは冷静に思う。



 ——このメイドさん、几帳面で丁寧な仕事ぶりからして……白銀シルバーカラーの金属素材メタリックフレームが似合うと思うわ。錆びないように加工して……軽めのフレームにすれば、きっと……!



 と。残念ながらメイドさんの顔には幻覚眼鏡は見えない。アドレーのときのように頑張って頑張ってメイドさんに似合う眼鏡を妄想し、その顔に幻視しようとしたけれど、できなかった。



 ——えっ。まさか幻の眼鏡って、異性にしか効果を発揮しないの!? そんな……眼鏡が似合う顔立ちは男性だけじゃないのに……!



 という試みと軽い絶望を感じた。けれど、それでくじけるイェリナではない。



 ——心の眼で……心の眼で視る!



 邪念を払った澄んだ心の眼で専属メイドを視る。幻視眼鏡のようにはっきりと視えるわけではないけれど、心の眼を通したメイドさんは確かに眼鏡をかけていた。ように思えた。


 そうして妄想力をフル回転させて疲れたイェリナはその夜、布に包んだ折れて壊れた物理眼鏡を胸に抱き、ぐっすり朝まで快眠できたのである。







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