第8話 名前を呼んでと言われても

「え、アドレー様って、女性だったのですか!?」


「面白いことを言うね、イェリナ。アドレーはれっきとした男だよ。アドレーが僕のパートナーなのは、昨年もそうだし、今年もそう。……僕のパートナーを巡ってちょっとしたトラブルが発生してね、ヴァンショー教授が僕のパートナーにアドレーを指名したんだ」


「そんな事情が……」


「だからアドレーは、ダンスに誘いたかった女性に声をかけることができなかった。昨年に続き、今年もね。……だからそのことで僕を恨んでるんだろう。アドレーがイェリナにおかしなことを言ったのは、それが理由だと思う」


「カーライル様、多分、そうではないと思います。……きっと、アドレー様にも理由があるのでしょう」



 アドレーの気安く接しやすい態度を思い返す。

 友人セドリック思いで常識人なところもあって、下位貴族の田舎娘に対してとはいえ、貴族なのに苛烈な思いをさらけ出してみせる不思議なひと。イザベラとの関係も気になるところだけれど。



 ——もしかしてマルタン侯爵令嬢様の婚約者って、アドレー様なのかな? でも、それにしては雰囲気が甘くはないし、自分の婚約者がカーライル様に懸想しているのを後押しするとか、ある? ないよね、そんなこと。たとえ、高位貴族の政略結婚でも。



 この異世界の婚約事情は、異世界ものにありがちな政略結婚が主流だ。婚姻によって家や領地の力を強め、繁栄してゆく。

 けれど、契約結婚の側面がありながらも伴侶となる相手との関係は良好であることが望ましい。婚約が先か、愛が生まれるのが先か、という暖かい家庭や絆を育んでいる貴族がほとんどだ。



 ——バーゼルのお父さんもお母さんも、お爺さまもお婆さまも、愛し愛されていたもの。でも、高位貴族ともなれば、やっぱり、違ってくるのかな……。



 イェリナが難しい顔で他人の心配をしていると、その隣ではセドリックがなにやら深刻な顔でイェリナの横顔を見つめていた。



「……アドレー様、ね。ふぅん、そっか。アドレーのことは名前で呼んでいるんだ」

「あの、カーライル様?」

「ねえ、イェリナ。僕のことはセドリックかセオって呼んで」


「え? ええと……では、セドリック様。……あの、なんなんですか?」

「違うよ、イェリナ。セドリックかセオ。はい、もう一度」

「あー……、……セドリック?」


「あ、そっちを選ぶんだ。セオでもいいのに」

「それって家族の方や婚約者、最も親しい方に呼ばれるような愛称ですよね。恐れ多すぎます。きっと、ビフロス様にも叱られてしまうわ」

「ビフロス令嬢? アドレーではなくて? ……ふふ、そっか」



 セドリックは上機嫌にそう言って、イェリナとの距離をさらに詰めた。ギシ、とソファの発条スプリングが軋む音が鳴る。

 くっつきそうだった膝や腿はもうくっついていて、セドリックの体温を感じてしまっているし、この客間サロンに別の誰かがいれば、イェリナに覆いかぶさっているようにも見えただろう。



 ——待って待って待って。至近距離ドアップの眼鏡顔(幻覚)はわたしに効くからっ!



 イェリナの背中がじっとりと汗を掻く。内心の歓喜を悟らせないようにお腹に力を入れて表情筋を笑顔の形に固定する。



「大丈夫だよ、イェリナ。ビフロス令嬢には僕が言っておくから」



 イェリナに迫るセドリックが、するりとイェリナの頬を撫でた。



「だから、ね?」



 神秘的な黄緑色の瞳がキラリと光る。思わずイェリナは目を逸らし、セドリックの胸をそっと押し返した。これ以上の眼鏡顔のアップは、いくら幻覚であっても体力が持たない。



「そうだとしても、まだ……ちょっと」

「まだ? まだ呼べないって言った? ちょっと、ってなに?」

「だってわたし、セドリックのことをよく知らないから……」



 言葉を濁して本音を誤魔化そうとするイェリナに、なおもセドリックは食い下がる。



「じゃあ、僕のこと、よく知ってくれたらセオって呼んでくれる?」

「あー……そうですね、はい」



 セドリックのしつこさと素晴らしき眼鏡顔の圧に負けたイェリナが、渋々頷き、承知した。すると、だ。セドリックは思い切り破顔して、イェリナの手を取った。



「じゃあ、約束。イェリナ、いつか僕をセオって呼んで」



 セドリックが物語の中の騎士か王子のようにイェリナの指にちゅ、とくちづけを落とす。柔らかで湿った感触よりも、イェリナの心を乱したのはセドリックの上目遣いだった。



 ——あっ、あーっ、ダメーっ! 眼鏡(幻)の隙間からの上目遣いは、ダメーっ! 眼鏡の素晴らしさとセドリックの目の美しさが相乗効果でああああああああ……!?



 イェリナの頭の中は大いに荒れた。嵐の海のような激しさに、時が経つのも忘れるほど。

 学院アカデミーの授業は第四講義まで。午前に二つ、午後にも二つ。時計のないこの客間サロンでは、どれくらい時間が過ぎたのかはわからない。

 イェリナはセドリックの他愛無い会話に笑顔で付き合い、途中、昼食ランチらしき盛り皿ディッシュまでペロリといただいた。


 けれど、時間経過とともに正気を取り戻したイェリナの頭の中でぐるぐる回っているのは別のこと。



 ——今日の授業内容……どうしよう、助けてくれる人なんて、いないのに。



 胸の内でもやもやとけぶる焦燥を顔にも態度にも出さないように気をつける。貴族令嬢たるもの、いつでもどこでもどんな状況でも笑顔でいるべきだ、と今世の母に教えられたから。



 ——大丈夫、大丈夫。まだ慌てるような時間じゃないし、眼鏡があればなんでも耐えられる。たとえそれが、幻であっても。



 そうはいっても、眼鏡普及に役立ちそうな授業を選んで取っている身としては、欠けてしまった授業がどうしても惜しくなる。

 ため息も自由に吐くことのできない窮屈さを時間が経てば経つほど全身で感じながら、イェリナは美味しそうに——実際、美味しいのだけれど——お菓子を口に運び、お茶を飲む。


 そうしてイェリナが解放されたのは、その日の授業がすべて終わったころだった。






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