5.エピローグ
第56話 ドレスを贈られるということ
「イェリナ様、イェリナお嬢様。朝食のご用意ができました」
「……ふぁい!? えっ、もうそんな時間ですか!?」
翌日。幻覚眼鏡付与魔法を確実に身につけるため夜遅くまで魔法理論の研究と実践をして寝落ちしていたイェリナは、夜明けとともに優しく丁寧に起こされた。
たとえ、今日はゆっくり起きて星祭りの準備をしよう、と思っていたとしても、だ。
すぐさま起きて、自力で横になった覚えのないふかふかの
カーライル家の血の呪いはすでになく、昨日、地下遺跡から戻ってみたときにはジョシュやブレンダンの顔に幻覚眼鏡はもう視えなかった。
だからイェリナが視ている眼鏡は、カーライル家の血の呪いではなく、初代大公ダグラスから受け継いだ幻覚眼鏡付与魔法でもなく、正真正銘イェリナの妄想力のみで描き出した妄想眼鏡である。
——ああっ! 眼鏡美人……眼福……。やっぱりこのメイドさん、
ちょっと集中が欠けると途端に視えなくなってしまうのが難点ではあるけれど。
妄想眼鏡が消えてしまって意気消沈するイェリナに、メイドが優しく声をかける。
「イェリナお嬢様、本日は予定が詰まっております。まずは御朝食をお召し上がりになったあと、入浴していただき、その後、御昼食。午後はドレスの着付けと御化粧を施させていただきます。
「……な、長丁場なんですね。まるで成人後の
「お嬢様。
「……っ、わかりました。今のはちょっと、わたしの覚悟が足りませんでした。どうぞよろしくお願いします」
イェリナはメイドに真摯に頭を下げた。
そしてその数時間後、イェリナは貴族令嬢がドレスを纏って
星祭りはその名の通り、祭りの本番は日が沈んでからだ。
けれど、貴族令嬢が
未成人の田舎貴族の令嬢で
自分で何度も「星祭りのパートナーは婚約者のいる方は婚約者と。そうでない方でも、婚約者候補としてパートナーとなる」と言っていた通り、星祭りの
イェリナのダンスパートナーはセドリック・カーライル大公子息だ。
そのセドリックが、ドレスとアクセサリーを用意して贈る、と事前に宣言していたことも、イェリナを大公家に招いて専属メイドをつけてくれた意味も、決してカーライル大公家の家格を守るためだけじゃないことなんて、イェリナにだってわかる。
いや、専属メイドの言葉でようやく自覚した。
——えっ。……え? セオ……い、いつから……?
身体を動かすことなく上昇した体温で迎えた朝食は、軽めのサンドイッチ。朝食の席にはセドリックも姿をあらわし、ともに食事と今日の予定を話して別れた。
イェリナはその間、至って平然な態度を装っていたけれど、頭の中では宇宙が広がっていた。
その後、専属メイドに手伝われて入浴し、イェリナの肌を磨いて髪を
——は、恥ずかしいとか言ってる暇も余裕もなかった……。
念入りに香油を練り込み爪を磨かれて、それが終わる頃には
「えっ、これ? これだけですか?」
戸惑い驚いて本音を漏らしてしまうほどに少量で、イェリナの胃袋は少しも満たされない。
イェリナの呟きを拾ったメイドは優しくも悲しげな表情を浮かべて、こう返した。
「これからドレスを着るのですから」
と。その言葉でイェリナはハッと気がついた。ドレスを着るということは、コルセットを締めるのだ、ということに。
人生初のドレス正装ということは、人生初のコルセット。
どれほどの締め付けなのだろうかとワクワクしたのは最初だけ。
「ま、待って……無理……無理です……」
絞り開始三分後には、もうギブアップ宣言をしていた。けれど、
「もう少し頑張りましょうね」
という専属メイドの優しい優しい励ましによって、ギブアップは無かったことにされる。ぎゅうぎゅうに絞られているとき、イェリナは専属メイドの顔に
やはり眼鏡は大事だ。人生と苦難を乗り越えるために必要だ。イェリナは呻きながら、しみじみと思う。
「大丈夫ですよ、締め終わったら負荷軽減の魔法をかけます。楽になりますよ」
コルセットを締め終わるとメイドがニコリと笑って魔法式を展開してくれた。コルセットを中心にイェリナの胴体が淡い光に包まれる。光が消えると同時に苦しみが和らいだ。
「絞る前にこの魔法をかけてしまうと、限界を超えて絞ってしまいますので」
なるほど、それは道理だ。ドレスの世界は奥が深い。
コルセットの次はスカートを膨らませるための
そうしていよいよ、ドレスの出番だ。
デコルテの開いた夜会用の美しいドレスだった。肘の辺りで絞られて、その先はふわりと広がる袖が華やかさを演出している。
柔らかな黄色の生地には光沢があって、施された刺繍や飾りは星が散りばめられているかのよう。
貴族令嬢とはいえ、今までずっと眼鏡に夢中で、今はセドリックと眼鏡に夢中なイェリナは、ドレスや宝石のことなんてサッパリわからない。
ただ、手触りが滑らかで軽い生地だから、なんだか高そうだな、くらいにしか感心がなかった。
そんなイェリナがどうにかこうにか絞り出した感想は、こうだ。
「……このドレスの色、セドリックの髪の色みたい」
「みたい、ではありませんよ、お嬢様。セドリック様がイェリナお嬢様のためだけに用意されたドレスなのですから」
「…………っ!」
その言葉を聞いて、イェリナは鏡の前で黙りこくってしまった。首まで赤く染まった自分の顔を見ながら、ここにはいないセドリックを思う。
セドリックはイェリナがお願いをしたイザベラとの約束のために、朝早くから王宮に行っている。
王太子殿下を絶対にイザベラのもとへと連れてゆく、と朝食の席でサンドイッチ片手に静かに笑うセドリックの目には、鋭い光がギラリと輝いていた。
それは使命感などではなく、どちらかというと殺意と憎悪が混じったような目であった。
『今回のことは、
イェリナは胸の内で「その物言いは、不敬ギリギリなのでは?」と突っ込みを入れながら、セドリックを見送ったのだ。
——イザベラ様がどんな判断をするのかは、わからないけれど……気持ちを伝えられたらいいな……。
婚約を解消するにしても、続けるにしても、
相手が相手だけに言いづらいことはあるだろうけれど、少しでも気持ちが晴れればいいな、と思いを馳せる。
そうして鏡の向こうで磨かれ、飾りつけられてゆく自分を見つめながら、イェリナはセドリックの戻りを待つ。
イェリナのために用意したというセドリックの神秘的な
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