第49話 彼が一番、眼鏡は二番

 イザベラが去った客間サロン棟最上階の一室には今、イェリナとセドリックのふたりきり。


 イェリナがその事実に気づいてしまったときには、もう遅かった。

 ぐるん、と視界が半回転し、気づいたときには長椅子ソファの上。

 背中に感じる反発は長椅子ソファ発条スプリングか。ギシ、と軋む音が、イェリナの耳の奥で反響している。


 イェリナは自分に覆いかぶさるように長椅子ソファに閉じ込めてしまったセドリックの整った顔を、息を止めて見ていた。



「……イェリナ、どうして僕を取ったの」



 幻覚眼鏡というシールドが外れた今。セドリックがイェリナへ向ける甘く切ない想いが直接的ダイレクトに伝わって来てしまう。

 ほんのり赤い目元、影が落ちた麗しい輪郭。それなのに、神秘的な黄緑色イエローグリーンライトがゆらゆらと潤んでいるのがハッキリ見える。


 こんな至近距離じゃ、安易に唾液も飲み込めない。イェリナは平然を装ってにこりと微笑んだ。貴族令嬢はいつ、いかなるときでも微笑みを絶やしてはいけないから。



「セドリック、わたしが眼鏡を選ぶと思っていたんですか?」

「当然でしょ。イェリナはメガネを愛している、と……」

「それなのに、わたしの心の赴くままに任せてくれたんですね」



 セドリックの想いがイェリナの心臓に染み込んでゆく。

 こんなにも。こんなにも愛されていたなんて。今はただ、くすぐったくて仕方がない。



 ——わたし……わたし、セドリックの隣に立つ資格はあるかしら。錬金術応用を納めて、眼鏡店をオープンさせて……王国に新たな価値観を招くことができれば、女のわたしでも叙爵されるかしら。そうしたら……そうしたら、セドリックと共に歩んでも、認められるかしら。



 イェリナは、激しく胸打つ拍動に耐えながら、冷静に将来の算段をつけてゆく。

 ただの田舎男爵令嬢が、学院アカデミー卒業後は子爵位を承るとはいえ、王国にひとつしかない大公家の子息と結ばれるには、自力で男爵位くらいは手に入れる必要があるだろう。

 そうでなければ、カーライル家の優しくも素晴らしいひと達だって、セドリックを慕う御令嬢方にだって、認められないのではないか。


 そんなことを考えるイェリナは、けれど少しも不安などなかった。

 前世ではじめて眼鏡ショップに行き、その魅力に取り憑かれて大学の専攻を変えたときのように、未来への期待とやる気しかない。


 セドリックとの将来を思い描くイェリナの頬に熱が集まる。セドリックはその赤く染まったイェリナの頬に、そっと手を添えた。

 興奮して目を輝かせているイェリナとは逆に、セドリックの黄緑色の目には沈痛な色が滲んでいる。



「イェリナ。どうしてマルタン嬢を許したの」



 まるで、許さなかった方がよかった、と言い出しかねない物騒な物言いに、イェリナはそっとセドリックの頬を両手で包む。

 ゆらゆらと揺れる黄緑色と視線を合わせ、イェリナは年下の少年を諭すような口調で優しく言った。



「いいですか、セドリック。今日のノー眼鏡人は、明日の眼鏡人になるかもしれない可能性を秘めているんです」

「……、…………うん」


「それに、イザベラ様のご実家は、金融取引を担っておられますよね。このまま禍根を残して敵対したままだと、わたしが将来的に眼鏡店を出店した場合の障害になるでしょう? そうなると困るので」


「イェリナ待って、メガネ店……? 今度はお店? 君ってひとは……いつも僕の想像を超えてゆくね」

「あ、ありがとうございます? えっと……そういうわけなので、イザベラ様を懐柔する必要があったのです」



 大人の事情というやつですよ、と微笑むと、セドリックもようやく納得したらしい。

 はあ、と短く息を吐き、それから肩の力を抜いて紳士的な笑みを浮かべると、イェリナの上からそっと退いた。

 手のひらからセドリックの熱が逃げてゆくのが惜しい。そんなことを思いながら、イェリナも身体を起こして乱れた制服スカートの裾を直す。



「イェリナ……君は時々、僕よりも年上のような物言いをするね」



 困ったように眉を寄せ、前髪をかき上げながら斜め下から見上げてくる黄緑色の目イエローグリーンライト。ほんの一瞬、イェリナは呼吸を止めて魅入ってしまう。

 思えばイェリナは、はじめからセドリックのこの目に心を奪われていた。



 ——ああ、そっか。もしかして、セドリックの顔に幻覚眼鏡が視えなくなったのって……。



 思い当たる節に微笑んで、イェリナは澄ました顔でこう告げた。



「そうですか? 気のせいですよ」



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