第38話 金庫を開けて中身を見たの?

 今朝もイェリナの眼鏡を基準とした記憶のポンコツ加減は絶好調だった。

 もう何度も顔を合わせ、嫌味を言われているというのに、イェリナたちを呼び止めた女子学生の名前が出てこない。


 いくら昨日、眼鏡ありきで他人を判断するのは馬鹿らしい、と思い至っていても、今まで覚えてこなかった他人の顔と名前を急に一致させることなんてできやしなかった。

 ましてやイェリナを目の敵して悪意を剥き出しにしてくるような他人の名前は、なおさらだ。



 ——あっ。わたし……眼鏡がないからと諦めて……覚えられなかったのではなくて、覚えてこなかったのだわ。



 イェリナが、白金色の女子学生に蔑むような視線を向けられている中で、少しも気にせず過去を振り返っていると、険しい表情を浮かべたサラティアが、スッと一歩、前へ出た。



「イザベラ様……」



 サラティアがまるでイェリナを隠すか庇うかのように前へ出る。凛と張る背の後ろで、セドリックに腕を絡めている女子学生が、イザベラ・マルタン侯爵令嬢であることをイェリナはようやく理解した。


 イザベラは、嫌悪感を隠しきれていないサラティアに淑女らしい完璧な微笑みを浮かべている。隙のない笑顔のイザベラがサラティアにたおやかな手をそっと差し伸べた。



「サラティア、おはよう。……ねぇ、サラティア。今からでも遅くはないわ。あたくしの元に戻ってこない? ほら、セドリック様もいらっしゃるのよ!」

「結構ですわ、イザベラ様。わたくし、自分の友人は自分で選べますのよ」

「……ふぅん、そう。あたくしよりも、そんなにその田舎娘がいいの。……ねえ、セドリック様。あんな小娘のどこがよろしいんですの?」



 それがイザベラの挑発であることは、わかり切っていた。誘いに乗ってはいけない、と思う一方で、イェリナは信じたいと思うひとの、取り戻したいと思うひとの名を呼ぶ。



「…………セドリック……」

「……………………」



 セドリックは、イェリナの呼びかけになにも反応を示さなかった。無言無表情で視線を合わそうともしない。



 ——セドリック……マルタン令嬢となにがあったの……。



 俯き加減の表情はイェリナの位置からではよく見えない。

 けれど、そこにあるべきものがない、という強烈な違和感とともに、セドリックの美しいかんばせの白さが際立ち血の気が失せているように思えた。


 だから、無視されたことで湧き起こったセドリックへの不信はいくらか柔らぎ、不安ばかりがつのってゆく。



 ——どうしてしまったの、セドリック……。



 そんなイェリナの心情を知るよしもないイザベラは、上品な微笑みの上に嫌味を乗せた口を開いた。



「ふふ、セドリック様は田舎娘になど応えたくはないのですって!」

「…………そうですか」


「あら、取り乱したりしないのね。貴女の想いは所詮、その程度だったというわけなのかしら。なぁんだ、残念。せっかく貴女の大事な大事な宝物をいただいたのに張り合いがないわ。こんなに簡単に諦めてくれるなら、はじめからそうしていればよかったわね」



 ニタリと勝ち誇ったかのようにわらうイザベラに、イェリナは奥歯をギリリと噛んでしのぐ。



「……金庫を開けたんですか」



 本当は今すぐ、眼鏡が無事なのか叫んで確認したかった。イェリナが無様に泣き喚かなかったのは、イザベラを支えるセドリックが美しい黄緑色イエローグリーンライトの目を細め、苦虫を噛み潰したような顔をしていたからだ。



「金庫を開けて中身を見たんですか」

「見たわ。セドリック様に解錠してもらって開けたわよ。魔法を使うまでもなかったわ」

「嘘。開けたんですか、セドリック!」



 イェリナはセドリックに金庫の存在を話してはいない。話していたとしても、わざわざ解錠用の数字を教えるわけもない。だからセドリックが解錠キーを知るはずがない。知るはずがない、のに。



 ——たった七桁だけど……わかったの? わたしの割り切れない想いをわかってくれたの?



 そう思ったら、身体が震えた。心臓の裏側が燃えるように熱い。けれど手足の先は冷たくて、頭の奥もグラグラする。


 金庫が解錠されたなら、中に入っていた眼鏡はイザベラの手の内に確実にある。


 酷い扱いを受けていないか、無体を強いられていないかどうか。不安と心配が渦巻く一方で、金庫を解錠できるほどイェリナの思いを理解してくれたセドリックの存在に歓喜する。

 相反する感情がぶつかり合って、イェリナの心はぐちゃぐちゃだ。



「イェリナ・バーゼル男爵令嬢、あとで使いを送るわ。金庫の中身を返して欲しかったら、賢く立ち回ることね」



 イザベラは愉悦で染まった淑女の笑みを披露して、結局ひと言も喋らずイェリナやサラティアと一度も視線を合わせることのなかったセドリックを伴い学舎へと向かう。

 その背中を静かに見送るイェリナの目尻から、ひと筋の涙がこぼれ落ちた。


 その涙がなにを意味するものなのかイェリナ自身にもわからない。


 けれど心は妙に晴れやかで軽く、頬を伝う小さな涙は朝露のように輝き、けれどすぐに地に落ちて泥と混じって消えてしまった。








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