第10話 大事な大事な宝物

「今日はなんだか凄い一日だったなあ……」



 寮の自室の固い寝台ベッドの上で仰向けに寝転がったイェリナが、疲れたように呟いた。お風呂上がりの濡れた髪のまま寝返りを打ち、しょぼくれた布団をさわさわと撫でる。


 学院アカデミーは全寮制ではないけれど、一部の学生たちのための寮がある。

 寮の部屋は完全個室制だけれど、いわゆる課金制で等級グレードが決まる。


 難問試験を合格し、学費と寮費が免除タダとなる特待生の地位を得て入学したイェリナは、当然無課金だ。等級グレードは一番下。質素で狭く、日当たりの悪い部屋が割り当てられた。


 容姿は地味で、なんの取り柄もない。イェリナが唯一誇ってもいいかな、と思えるのは勉強ができることくらい。

 その勉強だって、好きだからとか、理解ができるからとか、そういう理由で学年主席を維持しているわけじゃない。特待生枠から落ちたくないからだ。



 ——すべては眼鏡のために。それに、実家には負担をかけたくないもの。



 今朝方、アドレーが言っていたようにイェリナは所詮、田舎貴族の娘である。王都にタウンハウスを持てない財政事情の男爵家の令嬢だ。


 西方領区は田舎も田舎で、主な財源は農業だけ。のんびりとして穏やかで優しい性格の人間が多いバーゼル家は、領民のために農地改革や農機具開発などにすべて財産を注ぎ込んでしまっているから、赤字ではないけれど余剰貯蓄もない。


 一度でも落第すると二度と特待生には戻れず、学費も寮費も実費がかかる。バーゼル男爵家に、そんなの余裕は当然ない。


 だからイェリナに落第は許されず、落第したら田舎のバーゼル男爵領へ帰らなければならない。

 そういう約束で家族を説得して学院アカデミーに進学し、勉強以外のところでつまずきそうになっている。



「はぁ……わたし、このまま星祭りの単位、取れるのかな……。セドリックは優しいけど、どこかおかしなひとだし、アドレー様にははじめから嫌われているし……」



 イェリナは深いため息を吐いた。



「そもそも進学システムがおかしいのよ……舞踏会ダンスパーティーを必修にするなら、相手も学院アカデミー側が強制的に決めて欲しい……」



 けれど、社交界の予行演習の役目を果たす学院アカデミーが、第二学年次の必修単位としてこのような内容を指定する理由は理解できる。

 いわゆる、ふるいだ。

 貴族としての立ち居振る舞いや、社交界へ踏み出すためのパートナーを持てているか、あるいは持つことができるかどうかの。


 それでも、勉学や研究のために学院アカデミーへ進学した人間のことも考えて欲しいな、と思う。ないものねだりだ、ということはわかっているけれど。



「あー! やめやめ! 眼鏡見て、落ち着こ!」



 自分の両頬をパチンと叩いてイェリナは起き上がり、クローゼットへと向かう。


 一歩近づくたびに、どきどきと高鳴る鼓動。毎夜繰り返していることなのに、どうしても胸が高鳴る不思議。



「……この世界に眼鏡が存在しない、なんて割り切れないけど」



 ああ、早く早く。と、逸る気持ちを抑えつけ、イェリナはクローゼットに設けられている金庫の中から布の包みをひとつ取りだした。


 壊れものを扱うように丁寧に胸に抱き、窓際の学習用机デスクへ向かう。少し螺子ねじが緩んだ椅子がイェリナの重さを受け止めて、ギ……と軋んだ。


 そうして、貴族令嬢らしからぬ細かい傷だらけの指で丁寧に布を捲る。すると、一本の眼鏡が姿を現した。



 ——眼鏡様、ああ眼鏡様……!



 イェリナが愛してやまない眼鏡様。本物の実在する眼鏡である。


 歓喜に震える指先で金属製のテンプルを慎重に摘み、高くかざす。

 オレンジ色の照明が金属製フレームに反射して輝く様を。時折ガラスレンズの向こうで焦点があう瞬間を。夢のような煌めきを。

 記憶に焼きつけるようにジッと見つめて、ふ、と笑う。



「ふふ、いつ見ても不恰好」



 それは歪な形をした眼鏡だった。セドリックの顔に浮かぶ美しい幻覚眼鏡とは真逆な出来の悪い眼鏡だ。


 曲がり過ぎているモダン、円になれずに歪んでいるリム、分厚いガラス製のレンズ。指先で摘んだテンプルは波打っていて、お世辞にも美しいとは評せない。

 そんなお粗末な眼鏡を、イェリナはなによりも愛しいものを見る目で柔らかく見つめた。


 この眼鏡は、眼鏡をこよなく愛し、慈しみ、崇拝しているイェリナがまだバーゼル男爵領にいた頃に作りはじめ、昨年の今ごろに完成させた眼鏡だ。

 技術レベルは相当低く、本来の眼鏡としては機能しない。


 自作ガラスのレンズは歪みが酷くて焦点を合わせることができないし、ぐにゃりと曲がったモダンのせいで、耳にかけることが難しい。波打つテンプルも相まって、かろうじて眼鏡の形をしているなにかに過ぎない。

 まるで子供の落書きのような造形をした眼鏡。実用性もなく、観賞用だとしても酷く不恰好で、他人に見てもらえるようなものじゃない。


 それでも眼鏡は眼鏡。この眼鏡はだけは特別だ。


 イェリナが手ずから作った一品で、はじめて作った眼鏡だから。この世界初の眼鏡でもあった。



「はぁ……やっぱり眼鏡、最高。素敵。素晴らしい。わたしの宝物……」



 イェリナは傷だらけの手で美しさの欠片もない眼鏡をそっと胸に抱いた。


 この歪んだ眼鏡も、手指の傷も、全部イェリナにとっての勲章だ。


 フレームの歪みや傷を魔法でなおすこともできたのだけれど、そうはしなかった。はじめて自分で眼鏡を作った思い出と記念に、どうしても残しておきたかったから。



 ——まあ、遠目には気づかないし、手を握ってくれるような異性もいないしね!



 と。妙に甘い雰囲気を作ろうとしてくるセドリックの存在を忘れてカラカラと笑う。


 その夜、イェリナはぐっすり快眠して、すっかり気持ちをリセットしたのであった。







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