第2話
そうして、夜。
いつもはふたつの夜具で三人が寝る。しかし、今日ばかりはひとつの夜具で親子三人が寝なくてはならない。
「父はまだやることがある。お前たちは先に寝なさい」
やることとは洗濯である。
心配そうに親信を見つめる幼子たちであったが、聡い加乃は余計なことは言わず、親信に向かって三つ指を突いた。
「はい、父上。おやすみなさいませ」
「おやすみなさぁませ」
親太郎も加乃を真似る。親信はうなずいて子供たちが眠るのを見守った。
寝息がすぅすぅと聞こえるのを確かめる。物騒なことがあったから、眠れないかと思えば、案外あっさりと眠ってくれた。若侍も起きない。それを確かめ、親信は部屋を出て井戸端で着物を洗った。
血を落とすことだけを考えた雑な洗濯である。縫い目を解くような丁寧な洗い方はしない。汚れたところをつまみ洗いした程度だ。
自分たちが着ているようなくたびれた木綿とはまるで違う。乱暴な扱いをしては痛むかもしれない。
もし、親信が長屋暮らしの浪人ではなく、どこかに仕官して屋敷に住めるような身分であれば、亡き妻や子供たちにこうした着物を着せてやれたのだろうかと思うと切ない。
――そのようなことは望んでおりませぬ。
沙綾は、何度もそんなふうに言った。子供たちと平穏な暮らしができる今は、決して苦しくはないのだと。
しかし、
親信の方がこだわったのだ。妻や子にいい暮らしをさせてやりたいのだと。
つい余計なことばかりを考えてしまうのは、夜のせいだろうか。
夜は魔物が憑りつく。親信は湿った着物を手に部屋へ戻った。
すると、程なくしてぱらぱらと降り出した雨が、急に激しさを増した。あまり降ってくれるな、雨漏りがする、と親信は心配したものの、この雨は道端に滴った若侍の血をすっかり洗い流してくれるだろう。
若侍にとっては、この雨は天からの贈り物であったかもしれない。
❖
朝は雀の鳴き声と共に目覚める。親信は若侍と子供たちに夜具を譲り、自身は壁にもたれて眠ったのだった。
九尺二間の棟割長屋。二畳分の土間、その奥に四畳半。夜具二枚を広げたらおしまいで、さらに大柄な親信が横になるには狭すぎる。あちこちが固まって痛いけれど、この際仕方がなかった。
首を軽く回し、肩を揉む。雨は夜半にやみ、長屋に差し込む朝陽が部屋をほのかに明るくした。
若侍はまだ眠っているようだ。血が流れ過ぎてそのまま永眠したのではあるまいかと、親信は急に不安になった。そろりと若侍を踏まないようにして膝で歩きながら近づき、若侍の顔に手の平を
――息は、している。
それならば、眠っているのだ。ただ、いい加減に起きてもよさそうなものである。
眠る若侍を親信は改めてしげしげと見た。若く張りのある肌に整った目鼻立ち。目を閉じて眠っているだけでもそれがわかる。これが目を開けて話し微笑でも浮かべた日には、若い娘なら虜になるだろう。
そんな若侍が何故斬られるような目に遭ったのやら。
人となりがとんでもなく悪いのか、女癖が悪いのか。もしくは傲慢で、恨みを買ってばかりいたのかもしれない。助けた親信に対しても浪人風情がと小馬鹿にしたような言葉を投げつけてきたりはしないだろうか。
それでも、命は命だ。助けたことに後悔などないけれど。
ふと、子供たちに目をやる。すやすやとよく眠っていた。そう思ったのも束の間、加乃がひどく難しい顔つきになる。まだ夢うつつのはずだが、眉根をぎゅっと寄せた。
嫌な夢でも見ているのかと心配になり、ぐるりと回って子供たちのそばに行った。すると、加乃の難しい顔の理由がわかった。夜具をめくってみると、親太郎を中心に布団の上にじんわりと水気が滲んでいる。
「ああ――」
昨日はあんなことがあった。寝る前に厠へ連れていってやるのを忘れた。迂闊だった。
しかし、幸いというべきか、今日は
よって、布団を干し、洗濯をする手間がある。寝しょんべんの染み込んだ布団をこのままにしておいたら、悪臭がひどい。それに、黴が生える。夜具を買い替えるようなゆとりのない暮らしだから、大切に使わねばならないのだ。
「ほら、朝だ。起きなさい」
親信は子供たちを揺らして起こした。寝言か、むにゃむにゃと何かをつぶやいていた親太郎は、自分のしでかしたことに気づいた途端、目にいっぱいの涙を溜めてしまった。親信はその涙が零れ落ちる前に苦笑しながら言った。
「泣くな。客人が起きるではないか。昨晩は無理もなかった。お前のせいではないから、泣かずともよい」
声を上げて泣けば、まだ眠っている若侍を起こしてしまうと、三つの幼子でもわかるのだ。ぐっと嗚咽を呑み込んだ。
子供にも矜持があり、羞恥がある。寝しょんべんをした己にがっかりする気持ちも持ち合わせている。だから、ここは叱るところではない。
「よし、いい子だ。加乃、手ぬぐいを持ってきてくれ」
親太郎の頭を撫でつつ、親信は加乃に言った。しかし、手ぬぐいは昨日使ってしまった。汚れているものと、若侍の止血に使っているもの――。
加乃もすぐにそれを察したらしい。
「厠の紙をもらってきますっ」
そう言って家から出ていった。本当にできた娘である。
厠で尻を拭くための紙であるが、程よく寝しょんべんを吸い取ってくれた。親信が外に布団を屏風に引っかけて干す。昨晩の雨が長引かなくてよかった。
しかし、裏長屋は日当たりが悪く、それほど長くは日に当てられない。それでも、干さないよりはましだ。
その間に、加乃は手早く親太郎から濡れた着物をはぎ取っていた。
「父上、わたしが洗います」
「そうか、すまない。私は朝餉の飯を炊かねばな」
「皆さん、おはようございます」
丁寧に頭を下げて挨拶をする加乃に、長屋の女房達はいつも優しい。
「ああ、加乃ちゃん、おはよう。今日もおとっつぁんの手伝いかい。偉いねぇ」
「い、いえ」
照れたように首を振る加乃が微笑ましかった。
「ああ、おみち殿。頂いたはりはり漬けだが、美味かった。ありがたい」
みちがいたので、礼を述べた。みちはハハハ、と豪快に笑いながら鍋を抱えている。
「いいんだよぅ、あれくらい」
恩着せがましくない、長屋の皆の温情が身に染みる。
親信が水を汲み上げていると、みちは洗濯物がなんであるのかに気づいたようだ。
「おや、親坊のおねしょかい?」
「ええ、まあ」
「大丈夫、そのうち治るよ」
他愛のない会話をしながら米を研ぎ、親信は加乃を井戸端に残して家に戻った。釜を竈に置き、火を起こし始める。親太郎は裸のまましょんぼりとしていた。こうした時に替えの着物などはない着たきり雀である。
親信は寝ている若侍の方を見た。
「親太郎、しばらくそちらの夜具に潜っておきなさい。寒いだろう?」
「あい」
「ただし、腹には乗らぬようにな」
あの分だと若侍は当分起きないだろう。うちの息子の温石になってもらうくらいは勘弁してほしい。そもそも、あの夜具はうちのだ。
若侍の着物は土間に引っかけて吊るしてあるが、まだ乾いていない。飯を炊き始めると少しはあたたかくなるので、乾きやすくなるだろうか。
親信はようやく飯を炊く。ただし、飯を炊くのは苦手だ。ずっと竈の前に屈んでいるとつらい。この図体では特に向いていない。屈んだまま息を吹きつけたり、何かと大変である。
女たちはこの大変な作業を朝からこなしているのだから、男はもっとありがたがって飯を食わねばならないだろう。
しかし、親信がそのことに気づいたのは、妻を亡くして己で飯を炊き始めてからである。気づくのが少しばかり遅かったので、世の亭主たちを責めることもできないのだ。
狭いひと間がムッとするほどの熱気に包まれ、米の甘い匂いが漂い始めた頃、洗濯を終えた加乃が戻ってきた。
「あら? 親太郎は――」
「夜具に潜らせておる。風邪をひくのでな」
親太郎が見当たらないわけに、加乃は少し笑った。
ほこほこと飯が炊きあがる。初めて飯を炊いた時は水加減がわからず、硬い上に火加減も間違えて焦がして米を無駄にしてしまった。勿体ないので親信だけで食べるつもりをしていたが、数口で断念した。歯が欠けそうだったのだ。
飯もまともに炊けない己が幼子二人を育てきれるのかと、硬い飯を食みながら鬱々としてしまい、苦しくて吐き出した。
思い出したくもない味である。
炊きあがった米を櫃に移し、今度は味噌汁を仕上げる。具は何にしようかと思ったら、程よく
それぞれの茶碗によそい、さあ朝餉だという時になって、起きたのである。あの手負いの若侍が。
「う――」
小さな呻き声を上げ、目を開けた。見慣れぬ天井に呆然としているふうである。
ゆっくりと身を起こそうとして、痛みに呻いた。
「い、痛いっ」
それはそうだろう。刀傷を受けたばかりなのだ。
「まだ動かぬ方がよい。深手ではないが、下手に動くと傷が開くぞ」
親信がそっと声をかけると、若侍はハッとして親信を見た。長い睫毛が縁取る目は大きく見開かれている。それは磨き抜かれた石のような、とにかく美しいと感じる目であった。やはり、整った顔をしている。
若侍は黙った。手傷を負い、ここに至った
「そうか。では、もう少し寝させてもらおう」
は? と、声を上げたくなった。あんなに寝たのにかという思いと、その前に言うことはないのかという思いが口から飛び出しかけた。それなのに、すでに若侍の寝息が聞こえてくる。
「――――」
この状況はなんだろうか。今、自分は何を言うべきだろうか。
親信は無言のまま結論に達した。
「――まず、朝餉だな」
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