第44話

 その日、親信は夕刻になって半治の家を訪ねた。といっても隣なのだが。

 二日酔いの具合はどうかと、そう言って様子を見てみるつもりだった。幸之進までついてくる。

 一応、余計なことは言うなと釘を刺した。


「俺が余計なことを口にした時があったか?」


 真顔で返されたが、余計なことが大半である。

 親信は幸之進に構うのをやめ、半治の家の戸に呼びかけた。


「半治、おるか?」


 相手は男なので、返事を待たずに遠慮なく戸を開ける。

 隣とはいえ親信が訪ねてくることは稀で、薄暗い部屋の中で転がっていた半治は居住まいを正した。


「こりゃあ、向井様。幸之進様までお揃いでどうなさいやした?」


 半治の部屋は、男の一人暮らしであるのだから綺麗なはずもない。夜具も敷きっぱなしで、ほとんど家には寝に帰っているようなものだ。開けた途端、酒臭さが漂ってきた。下戸の親信には馴染めない臭いだ。


 土間に踏み入ると、幸之進も入って戸を閉めた。まだそこまで寒いこともない上、狭いのに、閉めた。

 日が暮れると薄暗いが、まだ辛うじて半治の顔が見える。


「ところで半治殿、姉御は息災かな?」


 幸之進が急に話を振った。

 半治にはかねという姉がおり、親信たちも少しだけ面識がある。以前、訪ねてきた時は半治が留守で、親信たちが兼が来ていたことを半治に伝えたのだ。半治はもう子供ではないから、身内にべったりということもないようで、姉のことを聞いても、ああ、とつぶやいたくらいで、素っ気なかったのだ。


 しかし今、姉の話題になった途端、半治はいつになく苦りきった表情に見える。その話をしたくないのが手に取るようにわかった。手元にあった徳利を引き寄せ、ぐい吞みに乱暴に酒を注ぐ。注ぎ損ねた酒が畳に染みるが、半治は拭うこともせずに手元の酒を飲み干した。


 その様子が妙に気がかりで、親信はどう声をかけてよいものかと迷った。すると、幸之進が笑顔で堂々と訊ねた。


「どうした? やけ酒か?」

「いや、そういうんじゃありやせんが――」


 ぼそぼそと、歯切れが悪い。詮索してくれるなと言いたいのだろう。

 しかし、それをはっきりと言わねばとぼける幸之進である。はっきりと伝えたところで駄目かもしれないが。


「うむ。ではなんだ?」


 単なる好奇心なら性質が悪い。誰しも触れられたくないことがあるのだ。そう思って幸之進の首根っこを捕まえようとした時、幸之進は急に上がり框に腰かけた。


「秘め事という顔ではないな。さあ、聴こう」


 にっこりと笑って、人の心に踏み入る。幸之進はいつも図々しい。

 ああ、わざとだ。わざと、半治の立ち入ってほしくないところに押し入っている。

 止めようか。


 ――けれど、貞市さだいち藤庵とうあんはこの図々しい男に感謝しているのかもしれない。時にはこうして踏み込んでくる相手を心の奥底で待っている場合がある。それは当の本人さえも気づかないうちに。


 親信のように恐る恐るでは、とても奥深くには踏み込めない。だからこそ、幸之進のような男が必要な時もある。


 しばらく様子を見ることにした。親信も無言でいると、半治は、ハハ、と小さく笑った。


「幸之進様には敵わねぇや。でも、こればっかりは誰の言うこともききやせん」


 そう前置きをすると、半治は空のぐい吞みを握り締めてそれを弄びながら語り出した。


「――姉貴が度々ここへ来たのは、親父に会いに行けってんです」

「ほう、父上に?」


 半治に姉がいたことも知らなかったのだ。父のことなど知るはずがない。

 どんな父なのかは半治の様子からほんの少し窺い知ることができた。


「ひでぇ親父でしたよ。俺は小せぇ頃から殴られて蹴られて、顔を腫らしてねぇ日はなかったくれぇで。この傷も親父にやられたもんです。身体中、あちこちにありやす」


 と、半治は眉の端の細く走った火傷に手をやる。火消しだから火事場でついた傷なのだと思っていたのだが、子供の頃の古傷だったらしい。


「そんな親父が老いぼれて死にかけてるからなんだってんだ。最期だから顔を見せてやれたぁ、姉貴も人がよすぎら。ったくよぅ」


 ――そんな事情があったのか。

 それは心中穏やかではないのも無理はない。

 しかし、相手は老人だ。それも死にかけの。

 悪行があったとしても、死の際にはもう何もできない。死に逝くだけだ。


 この確執がいつまでも残ったままでは、半治が生きづらくなる。だからこそ、親信は思わず口を開いていた。


「半治、私の母も仕官がままならぬ父と私を見限り家を捨てた。しかし、もし母が死の間際なら、私は会う。死に逝く者に罪は問えぬ」


 母が消えた時は悲しかったし、許せぬと思った。しかし、それでも母なのだ。会いたいと願う気持ちも残っていた。詫びてほしいのでもないが、実の母を憎むのでは親信自身が苦しいから、それをしなかっただけかもしれない。


 だから、半治にも己のために父に会った方がよいと親信は考えた。けれど、それを口にした途端、半治の目の色が変わった。すぅっと。

 何も映さない夜の水面のような暗い目だ。

 それが拒絶であることくらい、誰にだってわかる。


「向井様はご立派なお侍様でございやす。半ちくの俺は、そんな広い心を持ち合わせちゃおりやせん。――これを知ると、皆、向井様と同じことを仰るんで。それでも親なんだから会ってやれって。どんな親だったか知りもしねぇのに」


 ただの浪人を立派と言う辺りが皮肉である。半治を怒らせたのがよくわかった。

 そんなつもりではなかったのだが、半治には、実の親にさえ冷淡な男だと責めているように受け取られたのだろうか。


 口下手な親信はどう取り繕えばいいのかわからず、それでもむやみに口を開こうとした。

 そんな親信を遮るようにして、幸之進がずい、と膝で畳に乗った。


「いいや、会わずともよい。ああ、そんなひどい父親に会いになど行かずともよいのだ」

「へっ」


 親信は耳を疑った。

 しかし、幸之進はつらつらと言う。


「俺もな、ずっと父なし子として育ったのだ。父にはなんの情もない。むしろ、母を苦しめただけの男だ。実のだろうと、偽のだろうと、ろくでもない父のことなど放っておけばよい」


 ――そうだった。

 幸之進も父親との間に確執があるから家に帰らないのだった。

 しかし、そのことを半治は知らない。驚いたように目を瞬かせた。


「幸之進様――。そんなふうに言ってくだすったのは、幸之進様だけです」

「そうか。実の親だからと言うが、子が望んで親子になったのではないからなっ」

「その通りでっ」


 妙な結束が生まれてしまった。

 これでは半治の父にも、姉の兼に顔向けできない。親信は焦った。


「こ、こら、おぬしまで莫迦ばかなことを申すな。話がややこしくなるではないか。おぬしも半治も、もっと親を敬うことを覚えねば――」


 幸之進は親信の方をふくれっ面で振り返った。その様子は親太郎とそう変わりなく、お前はいくつだと言いたい。


「親信殿がそのようなわからず屋であったとはな。父でもろくでなしはろくでなしだ。死の間際だからと罪状を軽くすべきではないぞ。まったく、それがわからぬとは嘆かわしいことだ。俺はしばらく半治殿のところで厄介になる。わからず屋の家には戻らぬのでな、加乃殿と親太郎にそう伝えてくれ」


 隣なのだから、自分で伝えればいいのだ。大体、幸之進が家にいなかったら清々するだけで、なんの差し支えもない。それなのに、この偉そうな物言いはなんだろうか。

 わからず屋というが、道理を弁えていないのはどちらだ。

 段々腹が立ってきたが、口下手な親信はとっさに上手く言い返せないのであった。


「おお、いつまでもいておくんなさいっ」


 と、半治が笑い出す。酒が回ったのだろう。弱くはないはずだが、連日で悪酔いしている。

 親信は冷めた気分で二人を眺めた。


「好きにしたらいい」


 それだけ言って外へ出ると、ぴしゃん、と障子戸を閉めた。帰る先は隣だ。

 そして、長屋の薄い壁を通して話は丸聞こえである。


「幸之進様はしばらくお隣なのですね?」


 加乃がびっくりした様子で言った。

 多分、あの二人よりも加乃の方がよっぽど弁えている。


「ゆきし、来ないの?」


 親太郎は話を聞いていたものの、まだ難しかったのだろう。幸之進が隣から戻ってこないことだけしかわかっていない。不思議そうだ。


「放っておきなさい」


 親信はそれだけ言った。子供たちはしゅんとしょげてしまう。子供たちに厳しく言ったつもりはないのだが、顔が怖かったのかもしれない。



 幸之進は宣告通り半治のところに丸一日入り浸った。半治も普段、火事がない時は人足仕事を請け負っているのだが、この時は出かける様子もなく幸之進と狭い部屋で夜通し語り合っていた。その声がうるさい。


「実の親だから何しても許されるなんてこたぁありやせん。俺はあんなのとは縁を切ったんで」

「おお、そうだ。血の繋がりなんぞはどうでもよい。血が繋がらぬから親子ではないということがないように、血が繋がっておるから親子だ家族だというのは勝手だ。なぁ、半治殿っ」


 酔っぱらいが二人、本当にうるさい。

 ――血が繋がらぬから親子ではないということはない。


 それは、貞市たちの苦悩を知るからそういうのか、それとも、己自身が父の顔も知らずに母の実家で過ごしたからなのか、そこは知らない。

 幸之進や半治の考えにすべて賛同するわけではないが、血が繋がらぬから親子でないということだけは絶対にない。そんな家はたくさんあるのだから。それは親信も思うところだ。


 今日は幸之進がいないから、久々にふたつの夜具を親子三人で使えた。狭いながらに広く感じる。加乃も図体の大きな父と寝るより、可愛い親太郎と寝られた方が嬉しいだろう。


 隣の二人の酒盛りは、二日目の朝に藤庵が訪ねてきたことで終わった。

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