漆❖すれ違いの九月
第43話
秋も深まり、狭い長屋のひと間に鮨詰めで暮らす
それでも、日が暮れてくると、涼やかな虫の声が耳を楽しませてくれるのはいい。蚊や蠅の羽音は苛立つだけなのに、同じ虫に生まれながらも随分と違うものだ。
このままで行くとすぐに冬になる。冬は夏以上につらい。子供たちと身を寄せ合って、それでも寒い。風邪にも用心せねば。特に子供たちに関しては、すぐに治ると軽んじてはいけない。
冬は嫌だと思いつつ、親信は眠った。耳元で
そして。
「――――」
久しぶりに
それに気づいたのは、居候の
が、寝ぼけているのでうにゃうにゃと何を言っているのかは聞き取れなかった。幸之進はそのまま親信の夜具の足元に潜り込もうとするが、加乃が寝ているので首根っこをつかんで阻止した。
「まったく、何を寝ぼけて――」
言いかけた時、親太郎が難しい顔をして眠る夜具がほんのりと臭う。
「ああ――」
昨日は寝る前に厠に連れていったはずだが、そういえば貰い物の柿を食べた。水菓子は体が冷える。あれがいけなかっただろうか。
親信は眠たいながらに親太郎を着替えさせ、加乃と幸之進の間に親太郎を転がし、湿って重たくなった夜具を手ぬぐいで拭き取る。それから表に干しに出た。もともと日当たりの悪い裏長屋だ。これからの季節はさらに乾きにくくなる。
だが、親太郎もしたくて寝小便をしているわけではないので、気をつけなさいとは叱れない。
親太郎の小さな着物を井戸で洗い、それも一緒に干した。前に幸之進に古着を一着買ってもらったので、こういう時には洗い替えがあって助かる。
ふぅ、とひと息ついてから部屋に戻ると、ちらほらと長屋の女房たちが起き出してきた。
「おや、チカさん早いね?」
みちが桶を手に外へ出てきた。今に豆腐売りが来る頃だから待ち構えているのかもしれない。
「ああ、まあ、色々とあってな」
その『色々』は家の前に干された夜具が物語っている。みちはそれを見て目元を綻ばせた。
「そうかい。まあ、今だけだよ」
するとその時、天秤棒を担いだ豆腐売りが威勢よくやってきた。
とうふぅ~、という第一声にみちの目の色が変わる。
何もすぐに売り切れるということはないはずが、妙なところで一番にこだわる江戸っ子たちである。
親信は豆腐売りに群がる女たちを眺めながら、朝餉の味噌汁は豆腐以外の何かにしようと思った。
そうして立っていると、
「半治、今帰りか?」
酒には強い半治だが、まだ酒が抜けきっていないことを思うと、相当遅くまで飲んでいたようだ。
「ああ、向井の旦那。おはようございやす」
無理やり笑ってみせるものの、多分頭が痛いのだろうと見て取れる。
「深酒も大概に致せ」
呆れて言うと、半治はへへっと苦笑した。
「こんなの、飲んだうちに入りやせんぜ」
そういう強がりを言えるのなら、まだ平気かもしれない。
親信がそう思った時、長屋の戸ががらりと音を立てて開いた。立っていたのは幸之進である。もう寝ぼけてはいないようだ。
むしろ、さっきまで寝ぼけていたとは思えないほど涼しげな顔をして立っている。相変わらず、容姿のよさだけは褒めてもいい。
「半治殿、早いな」
「幸之進様も、おはようございやす」
頭の痛さを隠して愛想笑いを浮かべている半治を、幸之進は急に無言でじぃっと見つめた。親信がどうした、と声をかけようかと思うほどには凝視していた。
その間、立たされたままの半治はやはり体がつらいのか、そのにらめっこに耐えきれなくなったのか、がっくりとうつむいた。
「ゆ、幸之進様、その――」
「うむ、なんだ?」
「その――」
じっと、ただじっと見ている。新手の嫌がらせだろう。よく、子供や犬猫がこうしてじっと見つめてくるが、幸之進はそんなに無邪気なものではない。
親信は半治が憐れになって割って入った。
「おぬしは朝っぱらから何がしたいのだ。半治が困っておるだろうが。半治、付き合わずともよいぞ」
すると半治は、半治にしては珍しく蚊の鳴くような声で、すいやせん、と零して家の中に籠った。
親信はぎろりと幸之進を睨む。
「まったく、半治は二日酔いだというのにあまり苛めるな」
小言を言っても、幸之進は真剣に取り合わない。澄まし顔で首を傾げた。
「いや、半治殿が何か抱えておるように見えてな」
抱えてと言うが、手ぶらであった。
その何かと言うのは、悩み事だろうか。半治のことだから、
しかし、半治は人に相談するということをしない男だ。
その悩みとやらを訊ねようにも、きっと答えない。そっと見守り、どうにもならないようなら手を差し伸べる用意だけはしていようと親信は考えた。
少なくとも、その『見守る』は、さっきの幸之進がしたようなことではない。あれは断じて違う。
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