第42話
また来てもいいとは答えたが、まさか翌日に来ると思わなかったのだろう。藤庵は少々戸惑っている様子だった。
寛太は母親と手習師匠たちまで連れての大所帯で来たのだ。何事かと思うのも無理はない。
「藤庵先生、度々お邪魔します」
幸之進がへら、と笑いながら言った。
邪魔だと思うなら来るなと思っただろうが、藤庵は口に出さずにいてくれた。
「すみません、今日はお願いがあって参りました」
親信がそれを言うと、藤庵はぴくりと口元を動かした。貸しにつけたつもりはないのだが、藤庵は親信に借りがあると思っているのだろうか。
「ふむ、中へ入って話すか」
と、奥の座敷へ上げてくれた。そこは、よねを看取った部屋であった。
部屋の中で座すと、寛太は親信に言った。
「先生、おれから話してもいいですか?」
「ああ、寛太自身のことだからな」
そうした方がいいと思う。寛太は大きくうなずいてから腕を組む藤庵に膝を向けた。
「藤庵先生」
「うん、どうした?」
「おれを弟子にしてくださいっ」
子供の甲高い声で弟子にしてくれと言われても、藤庵の方が面食らったようだった。
「で、弟子?」
しかし、寛太はめげない。
「はいっ。おれ、藤庵先生のようなお医者様になりたいんです。だから、弟子にしてください」
そう言って、畳に額を擦りつけるようにして頭を下げた。邦はそんな寛太の様子をはらはらと見守っていたけれど、手を突いて、そうして言った。
「あの、うちの子がこんなことを言い出してご迷惑かもしれませんが、この子は本気のようで、どうしたらお弟子にしてもらえるのか教えて頂きたいんです」
藤庵は困った顔をして親信と幸之進を見た。かなり戸惑っている。
幸之進は相変わらずへらへらとしていた。
「藤庵先生のところには弟子がおりませんし、丁度よかったですねぇ」
「丁度ではない。あのだな――」
藤庵もこんなことは初めてなのだろうか。口ごもった。
親信は寛太の師匠として何をしてやれるのかを考えながら口を開く。
「藤庵先生、寛太は真面目でしっかりとした子です。何より、人を大切にします。藤庵先生の下で学べたら、きっと世のため、人のためになる立派な人物になれると思うのです。無理を承知で私からもお願い致します」
教え子のために頭を下げるのなら、別に惜しくはない。親信も邦と一緒になって頭を下げた。
藤庵は戸惑い、そうしてため息交じりに言った。
「寛太、お前はいくつだ?」
「はい、十一です」
「そうか。それなら、少なくともあと少しはこの向井殿の手習所で学びなさい。儂のところに来るのはそれからでも遅くない」
寛太は、パッと顔を上げた。
「そ、それじゃあ、弟子にしてくださいますか?」
「その時になって、お前の気が変わっていなければな。好きにしなさい」
「ありがとうございますっ」
目に涙を溜めて礼を言う寛太を、親信もあたたかな気持ちで眺めた。あと少しは親信の教え子であるのだ。寛太に恥ずかしくない師匠でいなければと思う。
それから、あと少しというのなら、その間は今まで通りの暮らしがあるのだ。邦にしてもその間に家のことをどうするのか段取りをつけられるだろう。
「いや、よかったよかった。これで丸く収まったなぁ」
幸之進は何をしについてきたのかとも思ったが、幸之進なりに寛太のことを心配して来たのかもしれない。
藤庵自身は乗り気ではなく、押し切られる形であるように見えるが、藤庵も素直な性質ではない。困ったような顔をしてみせるのは、心を隠すせいではないのか。
よねを喪い、藤庵はこの家に一人になった。そこへ幼い押しかけ弟子が来る。沈んだ家が、また活気を取り戻すことだろう。
強面のわりに心優しい藤庵だから、孤独とは無縁なのかもしれない。それは、今は亡きよねが、世話になった藤庵に感謝を込めて寛太をここへ導いたのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
寛太がやりたいことを見つけたのと同じくらいに、藤庵が寂しくなくなることが親信は嬉しかった。
そうして、寛太は嬉々として母親と先に出ていった。親信と幸之進もそれに続いて外に出る。
「それでは藤庵先生、まだ先のことですが、寛太のことをよろしくお願い致します」
親信がそれをいうと、藤庵は目を
「よろしく、の前に手習師匠としてちゃんと送り出してもらわねばな」
それはそうなのだが。
幸之進がアハハ、と笑ったが、顔は笑っていない。声だけ立てて笑った。
「なぁに、寛太には大人の方が教えられるばかりだ。人の助けになりたいとは立派ではないか。うむ、爪の垢でも煎じてもらおうか」
「おぬしには効かぬような気がするがな」
皮肉を言ってやっても、幸之進はけらけら笑うだけである。
「違いない」
自分で言うなというところだが、自覚があるらしい。
そんな二人のやりとりを苦笑しながら聞いていた藤庵だったが、ふと真面目な顔つきになる。
「時に、おぬしたちの長屋に住む半治はどうしておる?」
「え? 半治ですか?」
何故、急に藤庵が半治の話をし出したのかがわからなかった。幸之進も首を傾げる。
「火消しですから、まあ火事があった時は危ないこともあるでしょうけど、特に怪我などはありません。火事のない時は人足仕事をして疲れて帰ってくることもざらですが、まあ若いですし、飲んで遊んでといったところです」
それがどうしたのだろうか。
藤庵は、そうか、とつぶやいただけでその先のことは何も言わない。それがかえって気になる。
「半治殿が何か?」
幸之進が訊ね返すが、藤庵は言葉を濁すだけだった。藤庵が言わないのは、確証がないからだろうか。それとも、言うべきことではないと思うからだろうか。
その引っかかりを覚えたまま、親信は幸之進と共に家に戻るのだった。
夕餉の支度をする気力はない。煮売屋で買った茄子の煮びたしを手土産にきなこ長屋へ。
藤庵の言葉が引っかかるのは、そう言われてみると、最近半治は留守がちであったかもしれない。
吉原の馴染みのところに入り浸っているのか、飲み屋を渡り歩いているのか。
何事もなければいいのだが。
あたたまったはずの心に、ひやりとした風が吹き抜けたような気分になった。
【 陸❖迷子の八月 ―了― 】
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