第41話

 夕暮れ時。

 そんな帰りの道すがら、幸之進は二人の間を歩く寛太に柔らかく問いかける。


「寛太は家の手伝いが嫌になったのか?」


 その途端、寛太はびっくりした様子でかぶりを振った。そこに嘘があるようには見えない。


「ち、違います。おれ、家の手伝いが嫌で嘘をついて出かけたんじゃないんですっ」


 寛太はこの時になって初めて、家の手伝いばかりさせられていた鬱憤が溜まって抜け出したのだと、周りからそう思われる行動を取ったことに気づいたようだった。


 親信も幸之進も、実際にはそんなふうに思っているわけではない。幸之進がそんな話の振り方をしたのはわざとだろう。わかっていてやっている。

 何か考えがあってのことだろうかと、親信はもう少しだけ見守ることにした。


「そうかそうか。では、鶴喜屋さんを見に行きたかったのかな?」


 寛太は大きく目を見開いた。幸之進の口から鶴喜屋の名が出ると思わなかったらしい。


「幸之進様はおっかさんから聞いたんですか?」

「うぅん、いろんな人から話を聞いて、それを繋ぎ合わせたというところかな」


 寛太はそれからまた項垂れた。かと思うと、今度は親信に顔を向けた。それは、いつもの濁りのない目だった。


 今日の出来事は、幼い寛太にとって特別であったはずなのだ。けれど、この目が語るように、今日のことは寛太にとって何も恥じ入るところはないのではないか。むしろ、何かを学んだ一日であったのではないだろうか。そんな気がした。


「先生、手習所へ行くって嘘をついて出かけてごめんなさい。おれ、奉公の話が出た時、本当は奉公に行った方がいいんじゃないかって思ったんです。だって、うちは兄弟が多くて貧乏だし、おれが奉公に出たらその分の金がもらえるから」


 年季奉公の給金より、邦たち夫婦は寛太が家の手伝いをしてくれる方を選んだ。しかし、寛太の考えはまた違ったようだ。


「鶴喜屋さんは呉服屋だから、おれがずっと勤め上げたらおっかさんに着物を買ってあげられるかもしれないし。そう考えたら見に行きたくなったんです。おれにもできそうなら、行きたいって。それで――」


 そこまで語ると、またしょんぼりと下を向いた。

 親信は思わず寛太の頭を撫でた。

 母親に着物を買ってやりたいと考えている優しい子だ。項垂れる必要などどこにもない。


「寛太なりに考えてのことだ。それはよくわかった。けれどな、急にいなくなって皆を心配させたのはよくない。私が言いたいのはそれだけだ」

「――はい、ごめんなさい」


 すると、幸之進がくすくすと声を立てて笑った。


「先生はな、寛太がなんの相談もしてくれなかったので落ち込んでおったのだ。頼りない師匠だと」

「な、何をっ」


 図星だが、口に出しては言っていないはずだ。

 狼狽えた親信の動揺が伝わってしまったのだろうか。寛太の方が困って見えた。


「先生、おれ、先生が頼りないなんて思ってないです。誰かに相談するっていうのも考えたことがなくて、自分のことだから自分で考えないとって――」

「ふぅむ。では今後、迷った時は誰かに相談するがよい。今日はよいことを学べたなぁ」


 ハハハ、と幸之進は軽く言った。言っていることは間違っていないが、幸之進が言うといちいち軽い。大事なことを言われた気になれないだろう。

 それでも寛太は素直だった。大きくうなずく。


「それじゃあ、今『相談』してもいいですか?」

「おお、先生と俺がいくらでも聴くぞ」


 親信もうなずく。本当なら落ち着いて話したいが、日も暮れてしまうし邦たちが探していることを思うと、足は動かさねばならない。歩きながら話を聞く。


 寛太は、どちらの方を向いて話したらいいのかわからなかったのかもしれない。正面を向いたまま、ぽつりぽつりと語り出した。


「鶴喜屋さんへ奉公へ行った方がいいのかなって思いながら見に行きました。でも、今のおれには着物の良し悪しなんてよくわからないんです。自分が綺麗な着物が好きとかじゃなくても、そこは金のためにって皆割りきって働くんですよね?」


 親信自身、子供たちを導きたいという熱意から手習所を始めたとは言い難い。暮らしてゆくため、子供を養うために働いている。


 ただ、始めてみてよかったと思うこともある。最初から、これがやりたかったのだと熱心な方がいいには違いないが、徐々に馴染んでいくこともある。どういうきっかけでもよいのだ。


 寛太は、ふと親信を見上げた。相談とは言うけれど、寛太の目には迷いがない。

 この子は、もう決めたのだ。その決意を聞いてほしいのではないかと、親信にはそう思えた。


「それが当たり前のことなんだって思いながら帰りました。そうしたら、その途中で大八車の縄が切れて荷物が転がって、怪我人が出たんです。おれ、近くを通っていて、もうちょっとで巻き込まれるところで、驚いて尻もちをついていました。樽が人の足の上に落ちて、その人は痛そうに叫んで、もがいていたんです。でも、おれには何もできなくって、怖くてまったく動けませんでした」


 それはそうだろう。十一歳の子供が何もできなくとも当然だ。

 血を流してもがき苦しむ大人を目の当たりにして、さぞ怖かったことだろう。

 しかし、寛太が言いたいことはそれではなかった。


「それで、近くにいた人が藤庵先生を呼んできたんです。藤庵先生は、すぐに特別何かをしたわけじゃなくて、ざっと怪我を診てその人に声をかけたんです。安心しろ、すぐに治るから落ち着けって。そうしたら、その人は叫ぶのをやめて、ほっとした顔になったんです。まだなんの治療もしていないのに」


 藤庵がぶっきらぼうにそれを言う様子が目に浮かぶようだ。

 口は悪いが腕はよいのだ。少し見ただけで治ると判じることができたようだ。


「藤庵先生が言葉だけで、その人の苦痛を和らげたのを見て驚きました。お医者様の言葉ってすごいんだなって。藤庵先生がその人を運ぶように言って、藤庵先生のお宅へ行きました。おれ、そこに落ちていたお守りを拾ったから、それを届けるためって言いながら追いかけました。そこで藤庵先生が治療するところも見ていて、それで――」


 寛太の頬が紅潮して見えるのは、何も夕日のせいばかりではない。目も、力を持って輝いている。

 その顔を見たら、親信の方が眩しいような気がしてきた。


「おれ、奉公に出た方がいいのかなって考えていたのは、その方がいいのかなって思ったからです。それが今日のことがあって、おれは奉公に出たいんじゃないって気づきました。おれは藤庵先生みたいに、人に安心を与えられる人になりたいって思いました。どんな人でも、一番困っているのは怪我や病気の時です。その一番困っている時に人を助けられる自分になりたいって」


 寛太はいつも、家の手伝いに追われていた。幼い弟妹の子守りばかりだ。

 しかし、それに対しての愚痴を聞いたことはない。この子は根っから、人の役に立つこと、人のために何かをすることが好きで、骨惜しみをしない性質たちなのだ。


 そんな寛太が、人を助けられる自分になりたいと言い出したことは、そう意外なことでもないのかもしれない。

 勢いで喋るだけ喋って、それから寛太は急に勢いをなくした。


「あ、でも、お医者様になるにはたくさんお金がいるんでしょうか? それとも、身分ですか? おれみたいな子供には無理なんですか?」

「いいや、そんなことはない。なりたいと思えばなれるぞ。うむ、よいこころざしだ」


 幸之進がにこにこと笑顔で答える。幸之進よりも寛太の方が大人かもしれない。


「そ、そうですか?」


 親信も、寛太が自らしたいことを語る様子を嬉しく思った。まだ子供には違いないが、行く道を定めた寛太は、これから驚くような速度で成長してゆくのだろう。


「それなら、藤庵先生の手伝いをさせてもらって学ぶとよいのではないか?」

「遊びに来いとは言ってくれましたけど――」


 藤庵がそう易々と弟子など取らないと思うのだろう。実際に、人の命を預かることだから、携わらせてくれるのは随分先の話になるかもしれない。それでも、真面目に学ぶ姿勢を見せれば教えてくれるのではないかとも思う。


 すると、幸之進は楽しげに笑いながら寛太の背中をぱしん、と叩いた。


「そこは案ずるな。なぁに、この向井先生は藤庵先生にひとつ貸しがあるのだ。それを返してもらえばよいだけなのだ」


 ククッと笑っている。

 を貸しにつける気らしい。さすがにいい性格をしている。

 寛太が、そうなんですか? といった目を向けてくる。

 親信はこほん、と咳ばらいをした。


「まあ、私からも頼んでみよう」

「はいっ、ありがとうございますっ」

「まずはお邦殿に嘘をついたことを謝らねばな。藤庵先生への弟子入りの話は、その後だ」

「は、はい」


 そうして、親信たちは王泉寺へ辿り着いた。烏がかあかあ鳴いていて、そんな中、邦と和吉は王泉寺の堂で待っていた。しかし、遠くから歩いてくる寛太の姿を見た邦は履物を履く間も惜しんで砂利の上に飛び出してきた。


「寛太っ」

「あ、おっかさん――」


 寛太の方がその勢いに驚いていたけれど、邦は何かを言うでもなく、寛太を抱き締めてわあわあと声を上げて泣いた。寛太は母が何故これほどまでに泣くのかがわからないようで、ただ戸惑っている。

 邦は何度も、ごめんねぇごめんねぇ、と繰り返しながら大粒の涙を零している。


「何がごめんなの、おっかさん?」

「何って、あんたには子守りばっかりさせて、友達と遊ぶ暇もなかっただろ? つらい思いばっかりさせてごめんねって」


 すると、寛太はほっとしたように笑った。


「なぁんだ、そんなの気にしてたの? 家族なのに」


 邦は泣きながら寛太から体を離した。その時、泣いている邦の肩を優しく摩る寛太は大人びて見えた。


「おれ、おっかさんの役に立ちたかったんだ。だから、嫌じゃなかったよ。こっちこそ、いつもありがとう」


 その時、まったく関係のない幸之進が滂沱の涙を零して感じ入っていたので、親信はそちらに目を向けないようにした。幸之進に構っている場合ではない。

 寛太は、言いにくそうだが、それでも覚悟を決めて切り出した。


「でも、おっかさん、おれ、やりたいことができたんだ。これからは家の手伝いができる時は減るかもしれない」


 母親なのだ。邦はこれを切り出した寛太の覚悟をこの場の誰よりもよくわかっただろう。

 涙を拭いながら問いかける。


「寛太のやりたいことってぇのは?」

「うん。おれ、お医者様になりたい。人を助けられるお医者様になって、困っている人を助けたいんだ」


 これまで、寛太が医者になりたいなどと言い出したことはなかっただろう。邦も驚いた顔をしていた。


「お医者様に? あんたは人のためになることをするのが好きだから、向いているのかもしれない。でも、ごめんね。どうやったらお医者様になれるのか、おっかさんよくわからなくて」

「お医者様の藤庵先生に弟子入りしようと思うんだ」


 へっ、と声を上げた邦は、驚きすぎて涙も止まったようだ。

 親信はそっと声をかける。


「いや、まだはっきり決まった話ではないのだが、当人が望んでいるので私からも医者の藤庵先生にお願いしてみようかと」

「そ、そうなのですか?」


 邦は、じっと寛太の顔を見た。寛太は目を逸らさない。

 寛太がいないと家が回らない、まだまだ寛太の手を借りたいと考えていた邦だ。いくら寛太のやりたいことが見つかったからといって手放しで喜んではやれぬものだろうか。

 どうしたものかと考えていると、幸之進が割って入ってきた。


「お邦殿にも寛太にも藤庵先生にも口がついておるのだから、皆がよいと思えるところを探して話し合えばよかろうに。そう難しく考えずともよいのだ」


 いつものごとく、軽く言い放つ。

 そのくせ、言っていることは間違いでもなかった。

 話し合って、どうにもならない時は悩むしかないが、話し合わずに悩むのは時を無駄にするだけかもしれない。


「よし、明日にでも藤庵先生を訪ねよう。俺も力になるぞ」


 お前は来るなと言いたいが、言っても来るだろう。

 さて、藤庵はなんというのやら。

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