第40話
藤庵の住まいが、この日はどこか騒がしかった。木戸の辺りからそれを感じた。藤庵一人ではない。中に誰かがいる。それも複数だ。
親信と幸之進が顔を見合わせていると、中から人足が出てきた。それは少し前に幸之進が声をかけた男であった。
お互いに、あ、と声を上げる。
「さっきのお侍様で?」
「いや、藤庵先生には以前世話になってな、近くまで来たので挨拶に伺ったのだが、もしや先ほどの怪我人が運び込まれたのは藤庵先生のところか?」
すると、人足は首をすくめるようにしてうなずいた。
「へぇ、添え木をしてもらって、今は寝ておりやす。すぐに動かすとよくねぇってんで、今日はこのまま先生に任せて帰りやす」
「そうか。災難だったな」
人足は慌ただしく去っていく。
ここで怪我人を休ませているのなら、今日は遠慮した方がいいだろうか。
親信は幸之進に目配せをした。しかし、幸之進は戻ろうとしない。
「長居せねばよいのではないか? 日を改めようとすれば、また足が遠のく。今度来る日はいつになるやもわからぬではないか。それくらいならば、顔だけ出してすぐに帰ればよいのだ」
そう言われると何も返せない。
事実、今度にしようとしたら、その今度というのはいつのことなのか、自分でもわからない。つい、目先のことや忙しさに追われて後回しにしてしまうかもしれない。幸之進にはそれがわかるのだろう。
「では、少しだけ――」
騒がしくしなければよいだろうか。
親信はなんとなく、足音を立てぬように気をつけながら戸口に近づく。そして、そっと戸を開くと、控えめに声をかけた。
「もうし、藤庵先生、向井です。お忙しいところにすみませぬ」
しぃんと静まり返っていた。怪我人もいることだから、一人ではないはずだが。
すると、その静寂の後にドシドシと荒っぽい足音がして障子が開いた。藤庵その人である。
相変わらず達磨のようにぎょろりとした目をしている。よねの死に心を痛めてはいるのだろうが、藤庵は医者であるから、めそめそと閉じこもってはいられなかった。今日のように怪我や病気で苦しむ人を救うべく動いている。
けれど、その忙しさがかえって救いでもあるという気がした。
「うん? どうした? 珍しい時に来たな。もしや、子供たちの具合が悪いのか?」
「いえ、そういうわけではないのですが、近くまで参ったので立ち寄ったまでです。怪我人が運び込まれていると聞き及びましたので、ここで失礼させて頂きますが」
すると、藤庵は苦笑した。
「なんだ、あれから藤庵のじじいが泣き暮らして干からびているだろうと様子を見に来たのか?」
「い、いえ――」
親信は返答に困った。けれど、藤庵の口の悪さが懐かしくも感じられる。これは元気な証拠だろうか。
焦る親信の隣で幸之進は涼しい顔をしていた。
「藤庵先生、ご無沙汰しております。腹の傷は塞がりましたが、他にお見せするところもないのでお見せしましょうか?」
藤庵はクク、と笑った。
「いや、顔を見れば息災なのはわかる」
よねがいなくなり、藤庵はこの家に一人取り残された。それで寂しくないということはないだろうが、それでもこうして笑みも零れる。
そうした藤庵の様子を見られてよかった。
「その節は世話になったのでな、こちらの方こそ挨拶に出向けばよかったのだが、何かと忙しくしていてな、不精をしてすまん」
「そこはお互い様ですな」
と、幸之進も軽く笑っている。
その時、障子の向こうからちらりと顔を見せる子供がいた。見覚えがあるどころか、今日、必死になって探している顔である。
「か、寛太っ」
親信が思わず大声を出してしまったせいで、寛太は身をすくめた。手習所に行くと言って出てきた嘘を叱られると思ったのだろう。
幸之進はのほほんと、緊張感のない面持ちで言う。
「おお、寛太、丁度よかった。おぬしを捜しておったところなのだ」
「なんだ、二人とも寛太を知っていたのか?」
事情をよく知らない藤庵は大きな目を瞬かせる。そこは達磨大師とは違い、ちゃんとまぶたがある。
「はい。私のところの手習弟子です」
「そうか、世間は狭いな」
そう言ってうなずく藤庵に、今度は親信の方が訊ねる。
「藤庵先生と寛太が顔見知りとは、こちらも存じませんでした」
藤庵は医者だから、もしかすると家族が診てもらったことがあるのかもしれない。ただ、家が少し離れているから、ここまで診てもらいに来るのが意外ではあった。
「いや、今日会ったばかりだ。怪我人をここへ運び込む時についてきた」
「えっ」
「怪我をした人足が懐から守り袋を落としたんだそうだ。それを拾った寛太が守り袋を渡すためについてきたんだが、しばらくはその人足も痛みにもがいていてなかなか渡せず、戸惑っていたのだ。さっき無事に渡して、それで感謝されていた。日も暮れてしまうことだから、そろそろ帰れと言っていた矢先で、丁度良かった。――寛太、師匠と一緒に帰りなさい」
藤庵にそれを言われた時、寛太は戸惑っていた。親信に叱られると怯えているのだろうか。寛太がいい加減な子でないことは、師匠なのだからわかっているつもりだ。頭ごなしに叱るつもりはない。
ただ、本当のことを言わずに嘘をついて、家族を心配させたことはよくなかった。それだけはいけないことだと言わなければならない。
口下手な親信は、しょんぼりとしている寛太にどう声をかけようか迷った。その間に、幸之進がにこにこと言うべきか、へらへらと言うべきか、とにかく笑顔で寛太に語りかけた。
「寛太のおっかさんたちが心配しておるぞ。一緒に帰ろう」
家族思いの寛太はやはり、家族を出されると弱いのだ。グッと唇をへの字に曲げると、それから頭を下げる。
「――はい。ご迷惑をおかけしました」
三和土に下りると、藤庵を見上げ、それからまた頭を下げた。
「藤庵先生、また来てもいいですか?」
「うん? ああ、いつでも。ただし、病気や怪我で来るのではなく、遊びに来なさい」
寛太も目玉のぎょろりとした藤庵を怖がらないようだ。この顔を見て泣く子供も多いのだが、寛太はそこまで幼くないのだ。
藤庵が快く答えてくれたせいか、寛太はほっとしたように表情を緩めた。
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