第39話

 鶴喜屋に着いた頃、まだ明るくはあったが、着実に日は傾き始めていた。早く寛太を見つけて戻らねば、暗くなっては余計に見つけられなくなる。

 この付近にいてくれるといいのだが――。


 鶴喜屋の店構えは、他と同じく紺暖簾なのだが、白く染め抜いた『喜』の文字を二羽の翼を広げた鶴が囲んでいて美しい。品格がそこに現れていた。

 表を清める丁稚がいて、呉服屋だけあって縞の仕着せもよいものを着ている。


 客が出ていくと奉公人たちが丁寧に見送り、なかなか頭を上げない。躾が行き届いている分、やはり厳しいのかもしれない。


 客が去ると、奉公人たちがようやく店の中へ戻る。先ほどと同じように丁稚だけが表に残った。

 幸之進はその丁稚にさりげなく近づき、にこやかな笑みを浮かべながら訊ねる。


「奉公とはいえ、精が出るな。丁稚のうちはずっとこうして表を掃いているのか?」


 丁稚は客でもなさそうな幸之進が急に話しかけてきたことできょとんとした。しかし、相手が二本差しの侍であることに気づき、姿勢を正す。


「はい、交代で。表はお店の顔だから、いつでも綺麗にしておかなくてはいけないのです」


 それこそ寛太と同じくらいの年頃だろう。そばかすが浮いた頬をほんのりと染めている様は初々しい。


「そうか、偉いなぁ。きっと立派な商人あきんどになることだろう。優れた商人は一度見た顔を忘れぬと聞くが、本当かな?」

「ああ、番頭さんは一度でも暖簾を潜られたお客様のお顔は覚えていらっしゃいますよ」

「なるほどな。では、そこもとも道を掃き清めながら人様の顔を覚える練習をしておるのか?」


 幸之進にそう水を向けられると、丁稚は困惑気味に竹箒の柄を握り締めた。


「あ、え、ええ、まあ――」

「実は知り合いの子供を探しておってな、十一歳になる男の子だ。紺の絣の着物を着ていて、くっきりとした二皮目で、背はこれくらいの――」


 と、幸之進は身振り手振りで寛太の特徴を丁稚に伝える。丁稚は始めこそ困っていたが、段々顔つきが変わってきた。離れて見ていた親信でさえ、何か思い当たる節があるのだと気づいた。


「ああ、その子なら見ましたよ。何度も通りかかるから、どうしたのかと思ったんですけど、呉服なんかは子供が買うものではないですし、親や妹にでもいつか買ってあげたいっていう憧れで見ていたのかもしれないと思ったら、お客様ではなくても追い払うのは気の毒で、あまり構わないようにしていました」


 やはり、寛太は鶴喜屋を見に来ていたようだ。

 家の手伝いばかりしているよりも奉公に出てみたかったのかもしれない。それを勝手に断ったことで未練が残ってしまったのか。


 それにしても、真面目な寛太が親に嘘をつき、手習所を休むほどだ。寛太なりの理由があったのだろう。それでも、その理由をしっかりと聞かないことにはいけない。

 こうして皆が心配し、探し回っているのだ。自分の思いだけで動いてはいけないということも学んでほしかった。


「それはありがたい。やはりそこもとは商人に向いておるな」


 幸之進に褒められ、丁稚は素直に照れていた。その丁稚に幸之進はまた、それとなく訊ねる。


「その子はどちらに行ったか覚えておるかな?」

「あ、はい。こちらの方です」


 丁稚が指さしたのは東である。このまま西へ進むと吉原だから、子供がそちらに行くはずもないのだが。つまり、親信たちが来た方向が西で、そちらへ寛太も帰っていったということだ。


「助かった。ありがたい」


 幸之進が笑顔で手を振ると、丁稚はぺこりと頭を下げて見送ってくれた。

 親信の横を歩きつつ、幸之進はふぅむ、と唸る。


「ここまで来て、そうして満足して帰ったか。それならば行き違いになったか? それとも、まだどこかで道草を食っているのか――」


 寛太の性格なら、一度だけ鶴喜屋を見て、そうしたら吹っ切ろうと思ってやってきたような気がする。その帰り道に何かがあったのだろうか。


「寛太はどこにいるのだろうな」


 親信は、自分の手習弟子であるはずの子供一人、理解できていないことに気落ちした。本来なら、師匠である親信が話を聞いて、相談に乗ってやるべきなのだ。


 親信が頼りないから、寛太も何も言わずに自ら動いてしまうのではないだろうか。

 そう考えたら切ない。

 その考えが読めたのか、幸之進は嘆息した。


「寛太は長男気質だから、相談するという考えがまずない。なんでも自分で決めてしまう。そうは思わぬか? それは親信殿も同じだ」

「そ、そんなことは――」


 すると、幸之進は急に意地悪くにやりと笑った。


「ちなみに俺もだ。己のやりたいことは己が決めればよいという考えでおる」

「おぬしに関してはそこでうなずいてやる気にもならぬが」

「何故だ?」


 何故と真顔で問える図々しさがこの男である。

 と、今は幸之進のことはいい。寛太だ。

 寛太ならば、この後どう動くだろか。


「――寛太は普段、手習所から帰るような時刻には家に帰るつもりをしていたはずだ。そうでなければ手習所に行くと言って家を出たりはしないからな」


 幸之進もうなずいた。


「そうだな。帰ったはずだ。その途中で何かがあった」


 本当にもう、無事でさえいてくれたらいい。

 あんなに家族思いで一生懸命に生きている寛太がひどい目に遭うのは許せない。理不尽な世の中だということを嫌というほど知っているくせに、幼い子供のことなら余計に、どんな時でも諦めたくはない。


 親信は胸のうちで沙綾に祈った。

 どうか寛太が無事に見つかるように助けてくれ、と。



     ❖



 侍が二人、落ち着きなく辺りをきょろきょろと見回しつつ歩いている様は滑稽かもしれない。それでも、親信は道行く人に寛太を見なかったか訊ねながら来た道を戻っていた。


 幸之進も同じようにしていた。そこで、先月皆でやってきた浅草寺の風神雷神門の前を通り過ぎて広小路を行く時にぼそりと言った。


「そういえば、藤庵先生のお宅が近いな。先生は徒歩医者だから町を練り歩いておられるし、少し寄っていって話を聞かぬか? あれからどうされておるのかも気がかりなことだし」


 共に暮らしていた遊女上がりのよねという女を亡くしてから、藤庵とはその後顔を合わせていなかった。気持ちの整理もあることだから、しばらくはそっとしておくのがよいかと思い、そのまま機を見計らっているつもりが会いに行けていなかった。


 親信自身も沙綾を亡くして気落ちしていた時は、周りの気遣いがかえって苦しかったのだ。ありがたいと思わねばならないと、己に言い聞かせるようにしていたが、やはり本音はそっとしておいてほしかった。


 煩わしいというのではなく、優しい言葉をかけられると、弱い自分をさらしてしまうから。子供たちのために強い父親でいようとしている親信には、そうした周囲の優しさが拙い虚勢をはぎ取ってしまいそうで、それが怖かった。


 藤庵は親信などよりは立派な人物だから、同じような考えを持ってはいないだろうけれど、それでも誰にも会わずにぼうっとしていたい時はあっただろう。

 あれから時も経ったことだから、少しくらいは顔を見せてもいいだろうか。


「そうだな、寄っていこう」


 親信も控えめに言った。


 あの時は山査子さんざしが咲いていた。この季節、藤庵の家の庭にはどんな花が咲いているのだろう。

 そんなことを考えながら歩いた。

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