第38話
そうして、ようやく蛇骨長屋に着いたのだが、思った以上におんぼろであった。屋根板はもとから歪んでいるのか、ずれているのか、妙な具合だ。あれでは確実に雨漏りがするだろうし、隙間風もひどいはずだ。
壁や屋根には腐ったような、苔むしたような色合いの箇所も見受けられる。
地揺れでも起こった日には倒壊する恐れはあっても、移り住むのは難しいといった人々が住むのだろう。
ぼろぼろではあるが、それこそ蛇のように連なった長屋だ。このどこに梅が住んでいるのかまでは知らない。誰かを捕まえて訊ねようとしたが、そこは運よく井戸端に梅がいたのである。
「お梅」
声をかけながら近づくと、他にもいた長屋の女たちが何事かと不躾な視線を向けてくる。
「せ、先生と幸之進様?」
先生と梅が呼んだことで、長屋の女たちの態度が緩和された。
「おや、お梅ちゃんの先生なのかい? こんな若いお武家様なんだねぇ」
「隣のお侍様もかい? 滅法いい男じゃないか」
女房たちがわいわいと騒がしいのはどこの長屋も同じらしい。親信が困っていると、手慣れた幸之進がやんわりと取りなし、そうして梅に訊ねる。
「お梅、寛太を探しているのだが、何か知らぬか?」
「え? 寛太さんですか?」
梅は水を汲んで注ぎ入れた鍋を抱えながら考え込む。
「探しているって、今日は手習所にも来てませんし、おうちじゃないんですか?」
「それが家におらぬのだ。貞市も知らぬそうだし、手がかりがなくてな。最近変わったことはなかったか?」
すると、梅はさらに考え込み、ひねり出すようにして言った。
「そういえばあたしに、お梅ちゃんは奉公に出ないのかい? って訊いてきました。おっかさんが働きづめで、あたしが家のことをしなくちゃいけないから、住み込みの奉公はできないし、繕い物とかの仕事を請け負うくらいが精々かしらって答えました。寛太さんがそんなことを言ってくるのは珍しいですから、どうしたのかなって」
梅も家のことに忙しいが、姉弟がいない分、寛太よりは自由が利く。似ているようで少し違うのかもしれない。
それにしても苦労の多い子供たちだが、だからこそしっかりしているとも言える。
ちなみに幸之進と梅が話している間、蛇骨長屋の女房が寄ってたかって親信の体を
どうしてこう、集団になった年増女たちは怖いもの知らずなのだろう。刀を差している浪人相手にこの扱いだ。
あ、いや、その、と親信の方がしどろもどろである。
そんな間にも幸之進と梅は話を続けている。
「そうか。寛太がどうして奉公の話をしたのか、理由は聞いたかな?」
「あ、はい。少ぅし。奉公に出ないかってお声がかかったんだって言ってました。でも、断ったって」
「まあ、そうなのだが、寛太は残念そうに見えたか?」
「そうですね、そうかもしれません。口に出しては言わないですけど、『
「ふぅむ」
幸之進は顎を摩る。何やら考えているようだが、何を考えているのかまではよくわからない。
それから親信の方に顔を向けると、群がっている女房たちににこりと爽やかな笑みを振り撒いた。
「お梅がお世話になっているそうですね。まだ子供の身ですから、頼りになる大人がいてこそ暮らしていけます。付き合いの浅いそれがしが僭越ではございますが、どうぞ今後もよろしくお願い致します」
貧乏長屋の住人にも丁寧に接する。それだけで女房たちは上機嫌である。やはり、顔がいいからか。
まあいい、ようやく親信は解放してもらえたのだから。
名残惜しそうな女房たちに別れを告げて離れる。すると、幸之進は前を見据えながら言った。
「鶴喜屋とやらはどの辺りにあるのだろう? 寛太はもしかするとその店を見に行ったのではないかな?」
そうかもしれない。奉公に上がることはもうないとしても、どんな店だったのかだけ見てみたかったとも考えられる。
「鶴喜屋か。呉服屋だな」
親信が呉服屋に用があるはずもなく、足を向けたことはない。皆、古着しか着ていないのだ。
それでも、場所くらいは知っている。
「田町の辺りだ。子供の足なら少しかかるな。寛太は忙しいから、そこまで行く間を割けなかったはずだ。だから手習所へ行くと言って出て田町へ向かったとも考えられるか――」
寛太は鶴喜屋までの道のりを正しく知っていただろうか。鶴喜屋は老舗だから、誰かに訊けば教えてもらえるとして出かけたのかもしれない。
「では、様子を見てくるとしよう」
このまま歩き回っているばかりではいけない。早く見つけたいところだ。
邦と和吉の方が見つけてくれていたらいいのだが。鶴喜屋を見に行って、それで空手ならば一度王泉寺まで行った方がいいだろうか。
歩き始めると、いきなり幸之進が立ち止まった。何を見つけたのかと思って親信も立ち止まるが、長い蛇骨長屋のひと部屋へ入っていったのは女だった。捜しているのは寛太であって女ではないというのに。
「急ぐぞ」
親信が急かすと、幸之進は女が入った部屋に目を向けつつ、ぼそりと言った。
「あの女人――」
「なんだ?」
中年増の落ち着いた女だった。すらりとして後ろ姿が美しくはあったけれど。
幸之進はああいう女が好みなのだろうか。加乃を嫁にもらうというのを冗談にしてもらえるのならそっちの方がいいのだが。
などと考えた親信に反し、幸之進はふざけた様子もなかった。
「あの女人、お
「は?」
兼とは誰であったか。
親信がすぐに思い出せずに考え込むと、幸之進はそれを待たずに言う。
「半治殿の姉御だ」
「ああ――」
そういえば、そうだった。あまりちゃんと見ていなかったが、言われてみるとそうだ。
「そうか。この辺りに住んでおるのだな」
半治が余計なことを語りたがらないので詳しくは知らない。それぞれに事情はあるのだろう。
この時世、事情がない者の方が少ないはずだ。
「まあよい。今は寛太だ」
と、幸之進は自分が言い出したくせにさっさと歩き始めた。
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