第37話
寛太の住む長屋は下谷山崎町、貞市の家の店は稲荷にほど近い浅草田原町一丁目。真逆の方向である。
袋物屋をしている貞市の家は、それなりに流行っている。主も内儀も誠実な人柄で、奉公人たちも伸び伸びとして見えた。
ただ、親信の長身が暖簾を潜って現れた時、そこに座していた内儀は卒倒しそうになった。
「あ、おかみさんっ」
手代らしき男が心配そうに声をかけたが、内儀はなんとかして気を取り直す。
「急に来てすまぬな。いや、貞市のことで参ったのではない」
養い子の貞市がまた何か悪さをしたのではないかと思わせてしまったようだ。
幸之進はにっこりと微笑むと礼儀正しく語りかける。
「貞市はよい子にしておるぞ。ただ、友達の寛太の帰りが遅いので、ここに来ておらぬかと思うてな」
そうしていると、誰もが好意的に見てくれる。やはり顔がいいというのは得なことだ。
内儀は少し照れつつも軽く首を振った。
「い、いえ。貞市が友達を連れてきたことはありません。でも、寛太ちゃんのお名前は何度か聞いたことがあります。貞市を呼んできましょう」
内儀が下がり、次に現れた時は貞市を連れていた。貞市は幸之進を見つけるなり、パッと嬉しそうな顔をした。親信のことは背後に生えている木くらいにしか見えていないかもしれない。これでも師匠は親信の方である。
「あっ、幸之進さん――と、先生」
よかった。一応認識していてくれた。
親信はこほん、とひとつ咳ばらいをしてから貞市に言う。
「いや、寛太がまだ家に戻らぬそうでな。行きそうなところに心当たりはないか?」
「え? 寛太が?」
その驚き方から、貞市は何も知らぬのだということが伝わった。手がかりはここにはない。
収穫はなかったが、地道に探すしかなさそうだ。
しかし、その時幸之進が口を挟む。
「寛太について、最近気になったことはないか?」
貞市はうぅん、と唸る。そんな様子を養母の内儀が心配そうに見ていた。
「寛太もおれもそろそろ奉公に出る年なんだって言ってた。お梅もだ。でも、おれは跡取りだから奉公には行かないんだよなって」
寛太の口から奉公という言葉が出ていた。これは自分が奉公に行くはずだったと考えてのことだろう。今回が流れたとしても、しばらくすれば次があって、やはり働きには出るのだろうから。
貞市は腕を組み、難しい顔になる。
「奉公ってどんなだって訊くんだ。うちの奉公人たちはどんなだって。藪入りが明けても店に帰りたがらずに戻ってこないこともあるのかって」
隣で聞いていた内儀が、まぁ、と小さく声を上げた。客もいない頃合いであったため、手代も一緒になって話を聞いている。
貞市は眉をひくひくと動かしながら言った。
「戻ってこなかった奉公人はいないって答えた。なんでいきなりこんなこと訊くんだろうって思ったから覚えてたけど」
それを聞き、内儀と手代は顔を見合わせた。そうして、手代はおずおずと口を開く。
「ここは旦那さんもおかみさんもお優しくて、働きやすいお店です。でも、ひどいところだと飯もろくに食べさせてもらえずに働きづめで体を悪くして去るなんてこともあるとか」
貞市は目を瞬かせた。
「は? 飯を食わなかったら死ぬじゃないか。そんなの、働けるわけないし」
「それでも、奉公人に食わせる飯が惜しいという業突く張りもおるのだ。貞市はそんな主にならぬようにな」
親信がそっと言うと、貞市は二度、三度とうなずいた。
「飯を食べて、食べた分だけ働いてもらえばいいんだろ? わかってる」
「貞市、偉いぞ」
幸之進が褒めると、貞市はえへへ、と照れた。
さて、貞市が何も知らないとすると、今度はどこへ行こうか。梅のところか、小吉のところか。
礼を言って店を出ると、親信は幸之進につぶやく。
「手掛かりはなしだな」
すると、幸之進は首をかしげた。
「そうか?」
「そうか、とは――」
「少々はあったのではないか? 寛太は奉公というものに興味を示していたということだ」
しかし、それが直接の居場所には繋がらない。
幸之進はふぅむ、と唸って腕を組んだ。
「寛太は年の近いお梅ともよく話しているから、お梅も何か知っているやもしれぬな」
梅も寛太も真面目で面倒見がいい。だから二人が手習所をまとめてくれているとも言える。
「そうだな、お梅の住まいは
「きなこ長屋も大概だが、これまた妙な名だな」
「あそこは蛇の骨ほどにくねっているからな」
その歪みからもわかるように、それなりに貧乏長屋である。しかし、人様のことは言えない親信である。
梅の親は確か、片親だ。母一人、子一人。それ故に梅も親孝行なのだ。
蛇骨長屋は田原町三丁目にある。親信は土地勘のない幸之進を伴って向かった。
その途中、親信が無言で歩いていると、幸之進が隣から訳知り顔で言った。
「親信殿、家の手伝いばかりさせられていた寛太が家出をしてしまった。親信殿のことだから、考えるのは加乃殿のことだろう」
以前から、遊ぶ暇もなく、手習所を休みがちな寛太に加乃を重ねてしまうことがあった。しっかりした子だからとつい頼って、負担をかけてしまっている。親太郎がもう少し大きくなって、親信が手習所で教えている間、大人しく待っていられるようになるのを待っていたら、加乃の負担は減らない。
今回のことがあって尚更、このままではいけないと考えさせられる。
「――加乃は、次の初午の日には手習所へ通わせようと思う」
次の初午の日には加乃は七つだ。手習所へ通い出す子は七つの子が最も多い。
親太郎は寂しいかもしれないが、加乃のためだ。加乃には年の近い友達を作って、共に学んで楽しく過ごしてほしい。母がいない分、不憫な子なのだから。
幸之進は、加乃がいないとつまらないとかなんとか言ってぼやくかと思えば、ふと顔を綻ばせた。
「親信殿、それならば裁縫を教えてくれる女師匠のところがよいと思うぞ。加乃殿は裁縫が上手くなりたいそうだから」
親の期待に応えようと頑張りすぎてしまう加乃のことを、幸之進なりに本気で案じてくれているのかもしれない。ほんの少しだけ、そんな気もした。
そのまま歩いていると、騒がしいところがあった。尻っぱしょりの男たちがわあわあとうるさい。
「荷崩れを起こしたかな」
暑い最中でも涼しい顔をして幸之進が言う。大八車には木箱や樽が積まれており、道には木片が散乱している。どうやら固定してあった縄紐が切れて木箱が破損したようだ。男たちは片づけに追われているが、その木箱の欠片が散っている辺りに血の跡があった。落ちた木箱にぶつかって怪我をした者がいるようだ。
この時、親信は最悪のことを考えてしまった。あんな木箱がもし頭上から降ってきたら、子供など押しつぶされてしまう。
念のために訊こうと思うのだが、恐ろしくて訊けない。もし、この疑惑が事実なら――。
子を持つ親の身としては、それだけは何があっても起こってはならないことだと思う。
幸之進も同じことを考えたのだろうが、こちらはまっすぐに足を向け、人足に声をかける。
「もうし、大変な時にすまぬが、この辺りを十一歳くらいの男の子が通らなかっただろうか? 血の跡があるが、誰か怪我をしたのか?」
気の荒い忍足たちだが、幸之進が柔和な笑みを浮かべているせいか、毒気を抜かれたようにして答えてくれた。
「ああ、うちの若いのが足を挟まれてな。まあ、死ぬような怪我じゃねぇが、今、お医者の先生に診てもらってら。子供は――通りかかったかもしれねぇが、気にしちゃいられなかったんでな、覚えてねぇよ」
「それはそうだな。うむ、すまぬな。邪魔をした」
幸之進はするりとその場を抜け出し、少し離れていた親信のところへ戻ってくる。
「寛太は巻き込まれておらぬようだ。よかったよかった」
「ああ――」
親信も心底ほっとした。怪我人がいるのは事実なので、喜んではいけないところではあるが。
とにかく、季節柄まだ日が長いとはいえ、蛇骨長屋に急がねば日が暮れてしまう。親信は幸之進と共に先を急いだ。
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