陸❖迷子の八月
第36話
「戻ったぞ」
何気なく、いつも通りに親信は家の戸を開けた。
加乃と親太郎、二人の可愛い子供が笑顔で出迎えてくれると信じていた。それから、余計な男も一人。
しかし、戸を開けた途端、六つになる娘の加乃と居候の若侍、幸之進が手を取り合っていて、二人そろって戸口に顔を向けただけだった。
加乃は親信が帰ってきたことに気づくと、あ、と小さく声を零して恥ずかしそうにうつむいた。幸之進は平然としているが、父親が帰ってきたというのに図々しくも加乃の手を放そうとしない。
親の目を盗んで六つの幼子に迫る男を前に、父親が冷静でいられるはずがなかった。
「表に出ろ」
地の底から響き渡るような声で言った親信に、一人無邪気な三つの親太郎が笑顔を向けた。
「ちーうえ、おかえりなしゃい」
「え、あ、うん、ただいま」
可愛い盛りの息子には毒気を抜かれてしまうが、今は幸之進を成敗せねばならない。
それなのに、当の幸之進は平然と言った。
「加乃殿が繕い物をしていて指を突いてしまったのだ。幸い、少し血が出ただけなのだが、布地に血がつくというので布でも巻いてやろうかと」
「――――」
「本当にたいしたことはないのです。わたし、下手で恥ずかしいです」
しょんぼりとしている加乃が可愛い。いや、だからといって手を握るなと言いたい。
「そうか。どれ、見せてみろ」
と、親信は幸之進の手をさりげなく――はなかったが、払い、加乃の手を取った。確かに針で突いた小さな傷がある。
「母上は針仕事がとってもお上手でしたのに」
「加乃はまだ六つだ。これからいくらでも上達する」
「そうだといいのですが」
加乃が縫っていたのは、親太郎の洗い替えの着物だ。少しほつれていたところを直そうとしたようだ。沙綾がいたら、ここはこうするのだと教えながら一緒に縫っただろうにと思うと加乃が不憫でならない。
「もう血は止まりましたし、平気です。ご心配をおかけしました」
にこり、と笑う加乃はやはり健気だ。
「加乃殿、俺は加乃殿が裁縫ができなくとも構わぬぞ」
幸之進がまた余計なことを言う。赤くなった加乃と、役者顔負けの微笑を浮かべる幸之進とを見比べ、青筋を立てる親信であった。
そんなこんながあったすぐ後のこと。
親信はこの日、手習所に寛太が来ていないことを不思議には思わなかった。
寛太は子だくさんの家の長男で、いつも忙しく家の手伝いをしている。だから、よく休むのだ。
家には家の事情があるので、それについて寛太の親に何かを言ったことはない。
ただ、寛太も遊びたい盛りだから、しっかりした子供ではあるけれど、我慢のし通しなのではないかという心配をしていなくもない。
それでも、寛太は愚痴ひとつ言わない。むしろ、頼りにされていることを誇らしく思っているような節がある。だから、寛太が家に帰ってこないと母親が、親信が帰った後の手習所に駆け込んできたのだとは知らなかった。
手習所の場を借りている王泉寺の寺男が、親信のいるきなこ長屋まで知らせに走ってくれたのだ。寺男と一緒に寛太の母親である
この細い体でよくあんなにたくさん産めたものだというくらいに華奢な母親で、顔色が悪いのは心配からだろうか。
「寛太が?」
「は、はい。手習所へ出かけたはずが帰ってこないんです。いつもなら真っ先に帰ってきて下の子たちの面倒を見てくれるのに――」
それだけ言うと、邦はその場にくずおれそうになった。それをなんとか気力で持ちこたえている。
部屋の中で加乃と親太郎も心配そうに目を向けているのが背中から伝わった。
「寛太は今日、手習所には来ておらぬが」
正直にそれを言うと、邦は目にいっぱいの涙を溜めて顔を伏せた。
「ああ、あたしがいけないんです。つい忙しくって、あの子に家の用事を手伝わせてばかりいたくせに、構ってやらなかったからっ」
すすり泣く邦に向け、親信はなんと声をかけていいのかわからずに戸惑うばかりだった。
それなのに、親信のすぐそばで耳を疑うような言葉が発せられた。
「うむ。それもそうだな」
幸之進は随分と軽く言ったが、心ない。邦はわぁわぁと声を上げて泣いてしまった。
「このうつけ者がっ」
さすがに親信も堪りかねて、幸之進を家の中に押し込んで戸を閉めてしまおうとした。
幸之進は細身で優美な姿をしており、見た目の通り軟弱である。力で親信に勝てるわけがない。
それが、この時は親信の腕をさらりと躱して表に出た。そうして、膝を突いて泣き崩れている邦のそばに屈み込むと、幸之進は先ほどまでとはまた違う穏やかな声で言った。
「寛太はつい頼りにしたくなるような、しっかりした子だ。そんな子に育てたのはそこもとだろう。それなら、育て方が間違っておるということはない。ただ、だからといって頼りきりでいいわけがなかろう。構ってやらなかったのはよくない。うむ、帰ってきたらうんと甘やかしてやるとよいぞ」
邦はまた声を上げて泣いたけれど、今度は悲しいばかりではないのだろう。幸之進も笑っている。この男は、フッと隙間風のようにして人の心に入り込むようなところがあるのだ。
「さて、泣いておるだけではいかんな。捜すのを手伝おう」
幸之進はそう言ってから親信を見た。心当たりはあるかと目が問いかけている。
しかし、残念ながらこれといってない。
寛太はいつも家と手習所を往復するばかりだった。寄り道をするなど思いもよらない。
これでも寛太の師匠であるのに、親信には何も思い当たらないのだ。それがひどく情けなく、親信は肩を落とした。
「本人が望んで寄り道をしたとも限らん。とにかく、帰り道を探ってみよう」
当たり障りのないことを提案しただけだ。けれど、今できることはそれくらいである。
「半治殿と和吉殿にも声をかけよう。それから、お多摩殿に子供たちを見てもらっておいてはどうだ?」
皆、手が空いているかどうかはわからないが、幸之進が言う通りに声をかけた。半治はおらず、和吉と多摩は快い返事をくれた。
「和吉は寛太の顔を知らぬから、お邦殿と共に捜してくれ」
この時、邦はキュッと襟元をつかみ、言いにくそうにつぶやいた。
「寛太が家に帰ってこないのに思い当たることがあるとしたら、あたしがあの子にどうだろうって持ってきてくれた奉公の話を断っちまったことかもしれません」
「奉公?」
と、幸之進が首を傾げる。
丁稚奉公に上がるのは、大体が四月である。八月の今、時期としては外れているのだ。
邦はこくりとうなずいてみせる。
「藪入りの後に逃げ出した子がいて、それで人手が足らなかったみたいです。寛太もそろそろ奉公に上がるところだからどうかって。でも、逃げ出す子がいるほど厳しいお店で苦労するのは忍びなくって――」
多摩の弟の吟太もまた、藪入りが明けた時に奉公先へ戻るのを渋った。泣きながら自分を奮い立たせて再び戻ったのだ。それができない子供も大勢いる。それほどに奉公はつらいのだ。
しかし、邦は再び目に涙を溜めた。
「いえ、本音では、寛太がいないとあたしたち夫婦も手一杯で、家のことが上手く回っていかないから、今は見送れなかったんです。お話があったのは勿体ないくらいの大店なのに、あたしたちの勝手で断ってしまいました。あの子にはそれを黙っておくつもりが、仲立ちをしてくれた方が話してしまったそうで、寛太には思うところがあるのかもしれません。少なくとも、黙って断ったのを怒っていても仕方がないですよね」
幸之進は頬をぽりぽりと掻くと、
「それは直接寛太に訊くことだな。あれこれ考えているのは時の無駄遣いだ」
労わる気があるのかないのか、よくわからないことを言う。
親信はこれ以上幸之進を邦のそばに置いておくとはらはらするので、さっさと動くことにした。
「で、では、私は他の手習所の子たちの家を回ろう。もしかすると、友達といるかもしれない。お邦殿と和吉は家の周囲を探してくれ」
すると、寺男が控えめに言った。
「私は寺の辺りを気にしておきましょう。どちらかが見つけた場合も一度寺に来てもらい、もう一方へ知らせましょう」
「ああ、かたじけない」
そうして、それぞれ三方に散る。
幸之進も寛太の顔を知っているので、別々に行動した方がいいかと思ったのだが、この男は野放しにすると厄介事に巻き込まれそうだ。この慌ただしい時にそれは勘弁してほしい。
それならば連れてゆかねばいいのだが、幸之進はどん詰まりの突破口を、もしかするとなんらかの形で開いてくれるような気もするのだ。
「よし、行くぞ」
「うむ。ただの寄り道ならばよいのだがな」
幸之進はいつもよりも少しだけ真面目な顔をして言った。か弱い子供のことだから、ふざけてばかりもいられぬのだ。
寛太が怪我などしていなければいいが。それでも、自発的に帰らないのだとしたら、悩みは深いのかもしれない。
とにかく早く見つけて家に帰してやりたい。
「近頃仲良くしておることだから、貞市のところから行くか?」
幸之進の言葉に、親信はうなずいた。
二人が打ち解け出したのは、貞市の態度が以前よりも柔らかくなったからだろう。寛太はいつでも頑なな貞市を気にしていた。貞市の方がそれに応えるゆとりが生まれたのだと思う。
「そうだな。そこにおらずとも、何か手がかりになるようなことを知っておるやもしれぬ――」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます