第35話
見世物小屋へ行った七夕から数日。
そうしたらすぐに盆である。七月は何かと休みが多く、手習所を開く回数も少ないのだ。
盆にはいつもよりも入念に沙綾の位牌に手を合わせた。それから、沙綾との思い出を大事に思い起こす。色々なことがあったものだと親信も懐かしいと同時に切ない気分になった。
――しかし。
「何をぼうっとしておるのだ? 親信殿がぼうっとしたら、見世物小屋の籠細工ほどには場所を取るだけだというのに」
思い出に浸ることもできない。うるさいのがいるせいだ。
ぎろりと睨んでやったが、幸之進はへらへらしていた。その顔が憎らしい。
けれど、この幸之進がいなかったら、親信は子供たちを見世物小屋になど連れていかなかった。まして多摩を誘うなどという発想すらなかったのだ。
だとすると、幸之進がいなければ、多摩はつきまといの影に怯えたままで今後も過ごしていたのだろうか。明るく、前を向こうという気にもなれなかったかもしれない。
それならば、幸之進と関わったことで多摩の人生にもまた変化があったということになるのか。
こんな男だが、何かを変えるきっかけを人に与えることがある。貞市もこのところは落ち着いているのだ。無駄――ばかりでもない。
「親信殿のことだから、盆だからと、御新造のことを考えておったのだろう? わかりやすいことだ」
図星なので、親信にできるのは顔をしかめることくらいであった。しかし、幸之進は楽しげに言うのだ。
「なあ、盆だから故人が帰ってきてくれるというのなら、平素はどうなのだ? おらんので家族のことは見ていないのか? 見守ってくれているのではないのか?」
子供たちまでそんな幸之進の言葉に目を瞬かせた。子供たちもその問いかけに答えがほしいと思うのだろう。
しかし、そんなことは親信の方が知りたい。答えなど多分ないのだから。
「――いつも、見守ってくれておるはずだ」
そう答えたのは願望だ。
本当は、いつまでも現世に縛られているべきではないだろうに、気にしていてほしいと、姿はなくとも、まだ消えてはいないのだと、それで己を慰めたいだけだとしても。
案外夢見がちだとか、また腹の立つことを言ってくると思えた。
けれど、幸之進はふと穏やかな目をしたのだった。
「俺もそう思う。俺の母上も亡くなっておるのでな、盆だからと特別には思わぬよ。常に見守られていると思うておるからな」
適当でふわふわとした男だが、なんの痛みも知らないわけではないのだ。
親信は、そうだな、とつぶやいてうなずいた。
すると、幸之進はにやりと、先ほどの微笑を通り越して嫌な笑顔を作った。
「そういうわけだ。盆だから供養ばかりでなくともよい。どこかに出かけぬか? じっとしておるのも退屈だ」
結局、それが言いたかったのか――。
幸之進だから、そうかもしれない。
けれど、子供たちも出かけたそうにしているから、親信も折れたのだった。
そんな盆が過ぎた七月十五日のこと。
奉公に出ている者たちも正月と盆過ぎには藪入りという休みをもらえ、家に帰ることを許される。多摩の弟の吟太もきなこ長屋に帰ってきた。
それを知ったのも、朝になって加乃が家の障子を開けたからだ。
加乃の肩越しに向かいの家の前に立つ吟太が見えた。
「あ、吟太さん」
吟太は前髪の丁稚姿ではあるが、親信が知る吟太よりもほんの少し大人びて感じられるが、間違いなく当人である。真新しい仕着せの
「お? 加乃。久しぶりだなぁ」
奉公はつらいだろう。楽なところなどまずない。それでも、子供なりに、働いているという自信からか、吟太は堂々として見えた。多摩と似た黒目がちな目がくるくるとよく動く。
「吟太さん、奉公は大変でしょう?」
「はは、大袈裟だなぁ。どってことねぇや」
なんてことを言って笑っている。初めての藪入りには里心がついて店に戻りたがらない子供も多いのだが。
吟太は奥にいる親信にも気づいたようで、にかっと明るく笑った。
「おじさんも親坊も久しぶりだ」
「うむ、元気そうだな」
親信も親太郎を抱いて出ていくと、幸之進までついてきた。
「おお、お多摩殿の弟か? よう似ておるな」
なんてことを言う。にこやかだが、吟太にしてみれば知らない大人である。
「誰?」
難しい顔をされた。
幸之進は笑顔で挨拶をする。
「俺は幸之進と申す。ええと、加乃殿とは将来をち――」
余計なことを言うので、親信は片手で幸之進の口を塞いで止めた。
「居候だ。あまり気にせずともよいぞ」
ため息を零す親信をどう思ったのか、吟太はふぅん、とつぶやく。吟太にしては目が不審そうだった。幸之進が長屋には似つかわしくない男だからだろう。
幸之進をじっと見て、それから加乃のことも見て、もう一度幸之進を見て、それから家の中に入った。一家団欒の貴重な時だ。無駄話をして引き留めるものでもない。
「おや、俺は嫌われたのか?」
「多分な」
一切庇わずに言い放った。吟太は人見知りをしない子だが、幸之進は余程怪しかったのだろう。
しかし、嫌われたというわりには幸之進は楽しげである。フフフ、と笑っていた。
「いやいや、加乃殿も罪作りだなぁ。俺はさしずめ
「えぇ?」
加乃が目をぱちくりと瞬かせている。
家族でもないのに加乃と一緒に暮らしている若侍が気に入らないと。そうか、と親信は納得する。加乃は可愛らしく気立てもいいので、好意を持たれやすいはずだ。
嬉しいような、父親としては複雑なところである。
親信は明るい空を見上げながら考える。
沙綾なら、加乃にはどういう男がよいと言うだろうか?
少なくとも、幸之進は論外として。
大事な我が子だから、曇りのない人生を歩んでほしいものだ。
――加乃が選ぶのなら、その相手が最も相応しいのではないでしょうか。
沙綾がそうつぶやいたような気がしたのは、今ここに帰ってきてくれているからだろうか。
親信はふと、口の端に笑みを浮かべた。
藪入りが明けると、吟太は谷中の奉公先へ戻っていった。ただ、帰るその前の晩、行きたくないと零す声も漏れ聞こえた。
長屋の壁は薄く、音が通るのが申し訳ないような気になる。小さくとも吟太は男だから、矜持がある。聞かなかったことにしてやりたい。
翌朝、吟太は朝早くに長屋を出た。
多摩たちは、そんなにもつらいなら行かなくてもいいんだよ、としか言わなかった。それを言われた吟太が、最終的にその言葉に甘えなかった。やっぱり、もう少し続けてみる、と己を奮い立たせたのである。
親信も去りゆく小さな背中を応援した。
【伍❖賑わいの七月 ―了― 】
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