第34話

 親信は多摩と二人で取り残され、松の木の側で流れていく見物客たちを眺めていた。粘りつくような視線が、その見物客たちのどこかからあったかもしれないが、人が多すぎて特定できない。

 小さくなって震えている多摩を見遣り、親信はぼそりと言った。


「連れてきて、かえって悪いことをしてしまったな?」


 誰かが見てるとして、見られているのは多摩であると、多摩自身が感じている。それなら、このまま無視して長屋に戻ったのでは、その相手もついてきてしまうのだ。それは恐ろしいだろう。

 できることならばなんとかしてやりたい。

 多摩は、ゆるゆるとかぶりを振った。


「いえ、そんなことは――」


 それだけ言うと、多摩は唇をくっと噛んで、それからようやく語り出した。


「わ、わたしたちは、きなこ長屋に越してくる前は千駄ヶ谷におりました。落ち着いた暮らしをしていたはずが、近くに住む植木屋の職人がわたしにしつこく言い寄ってくるようになって――」


 当時のことを思い出したのか、多摩は短く浅い息遣いになる。その怯え様に、親信の方がはらはらした。それでも、多摩はなんとか気を持ち直して語る。


「最初はむしろ笑顔で優しかったんです。でも、笑顔なのに言葉はこちらを従わせるような強い響きがあって、前に立たれると上手く声が出なくて。わたしが怯えるから、強く出れば言いなりになると思われてしまったのかもしれません。それで、なるべく一人にならないようにしていたら、その人、家に押しかけてきて。同じ長屋の人たちが駆けつけて止めてくれたので助かりましたけど、カッとなったら見境がなくて、お前が色目を使ったんだとか、口汚く罵られました」


 多摩がいつも男に怯えて見えるのは、そういう理由からだったらしい。

 世の中には色々な男も女もいるものだが、多摩は嫌な相手に目をつけられた。それが多摩の将来に暗雲となって垂れ込めている。それがなければ、もっと明るく笑っていられただろうに。


「家族そろって、逃げ出すように引っ越しました。お世話になった方たちにも行先は告げられませんでした。こんなに離れてしまえばもう会うこともないだろうって、そう思っていても、時々あの目が夢に出てきて――」


 越してきた当初、多摩たち親子は今以上に控えめであった。よそよそしいと店子たちが言うほどには素っ気なく、関わりを持とうとしていなかったかもしれない。

 あの頃、親信は沙綾を亡くして間もなく、そんなことを気にするゆとりもなかったのだが。


 多摩たちは、しつこい男から娘を遠ざけるために引っ越したのだ。

 にこやかに好意的に振る舞っていてくれた相手が、ある日突然態度を変えることもあるのだと知り、人と接するのが恐ろしくなったというのもあるのだろう。


 語りながら、多摩は涙ぐんでいる。思い出したくもないことを思い出して、恐ろしくて堪らないのだろう。

 こんなにも人通りのある場所にいたのでは、多摩の張り詰めた気が擦りきれてしまいそうに思えた。ここにいて、もしその男が現れたりしたら、多摩は耐えられるのだろうか。


「それなら帰ろうか。もしその男が来たとしても、うちは向いだから私がすぐに駆けつけられる。日頃の恩義があるのでな、どんな時でもすぐに駆けつけよう」


 気遣いながら親信がそう声をかけると、多摩はようやく顔を上げた。怯えていた顔からフッと力が抜けて、儚いながらにも笑みが浮かぶ。

 多摩がそんな表情を見せるのなら、親信は何も間違えたことを言ったわけではないはずだ。


「――向井様は覚えていらっしゃらないかもしれませんが、わたし、きなこ長屋に越してきてすぐ、道に迷ってしまったことがありました。その時、ばったりと出くわした向井様がわたしを長屋まで連れ帰ってくださいました」


 胸元に手を当て、多摩は言葉を絞り出すようにしてそれを言った。

 言われてみると、そんなこともあったかもしれない。迷子になっていたとは知らなかったが、どうせ帰り道は同じだからと声をかけた気がする。


「あの頃、わたしは男の人が怖くて仕方がなかったんです。でも、向井様はわたしが怯えていると、そんなわたしに気を悪くされるでもなく、図体が大きいから人からよく怖がられると仰って、むしろわたしを気遣ってくださいました。わたし、どんなに嬉しかったか――」


 見た目で人から怯えられるのには慣れている。多摩も小柄だから、大きい侍など恐ろしいばかりだろうと思っていた。そういう背景があったことまでは思い至らなかった。


「そうだったか」


 何やら照れ臭くなって頭を掻いた。

 多摩は潤んだ目で親信を見つめた。


「あの時、わたしは長屋の誰ともちゃんと接していなくて、誰のことも何も知らなくて、向井様が御新造様を亡くされたことも、お子様がいらっしゃることも何も知らなくて、ただそのお優しいお気持ちに――」


 懸命に言葉を絞り出す多摩の小さな声を拾っていると、視線がピリリと親信に突き刺さった。

 ――来た、ととっさに多摩を庇いつつ気を張る。

 しかし、来たのは小男であった。


 相変わらず、小さい。多摩とそんなに変わらないのではないだろうか。

 小さいながらに大小を差して、キッと目を怒らせながらこちらにやってくる。

 背が低いばかりでなく、顔はなんとなく鼠に見える。前歯が大きいからだろうか。口を閉じても、前歯の先がちょこんと唇から出ている。


 青木兵吾ひょうご――。

 青木道場の跡取りにして師範代。


「やあ、師範代ではございませぬか」


 親信なりに友好的に挨拶に入るのだが、どうしてもいつも上手くいかない。

 兵吾はケッと吐き捨てんばかりであった。


「向井、おぬし、女連れで見世物見物とはいい御身分だなぁ?」


 女連れどころか、子連れ、男連れである。


「同じ長屋の店子でして、皆で一緒に出かけただけです。他にも連れがおりますし」


 多摩はぺこりと頭を下げた。しかし、多摩は男が怖いのだという。だから、兵吾のような小男でも苦手らしい。親信の陰に隠れるから、兵吾はムッとした。


「貴様、もう次を見つけたというのかっ。俺がまだ独り身を貫いているのに、おかしいだろうっ」

「いや、だから、同じ長屋の――」

「おかしいだろうっ、おかしいわっ」


 ――うるさい。

 人の話をまず聞けと、絶対に親から教わっているはずだ。


 ぎゃあぎゃあと騒がれると、周囲の人たちも面白がってこちらに注目してしまう。親信は恥ずかしいばかりである。


 ねっとりと殺気すら漂わせるような視線だと幸之進は言ったが、それが兵吾のものなら親信が察知できないのも無理はない。何せ、いつもこれだから、それこそ慣れている。気にしていられない。そよ風と同じ程度にしか捉えないようにしている。


 その時、屋台見世でくつろいでいたはずの幸之進が、加乃と親太郎を連れて戻ってきた。兵庫の声が甲高いので聞こえたのだろう。

 幸之進はいつものごとく茶化すかと思えば、取り柄の顔で兵吾に微笑んでみせた。


「おや、親信殿のご友人ですか?」


 そうして幸之進が余所行きの顔をしていれば、大抵の者は騙せる。爽やかな若侍にしか見えない。くたびれた木綿の着物を着たくらいではごまかせない、見目麗しく品のある若侍だ。


 ただ、この兵吾はひねくれている。容姿端麗な男がいたら、顔のよさを妬むようなところがある。また面倒なことになるだけなのだから、出てこなくともよかったものを、と親信が目で訴えても、幸之進は意に介さない。にこにこと兵吾に微笑を向けている。

 兵吾は、意外な人物の登場に目を瞬かせていた。そこに幸之進は重ねる。


「なるほど、親信殿のご友人だけあって隙がございませんな。かなりの腕前とお見受け致します」


 師範代なのだから弱くはないが、多分、馬之介の方が強い。そこまで褒めるほどの腕かと言われると怪しい。

 しかし、兵吾は幸之進の言葉に容易く乗せられた。


「青木道場の師範代を勤めておる、青木兵吾と申す」

「ああ、師範代とは、やはり。それがしは親信殿の遠縁で幸之進と申します。いや、それがしはお恥ずかしながら剣術が不得手でして、強いお方には憧れます」


 この時、兵吾がもう少し冷静であれば、親信の表情がおかしいことに気づいただろう。本当に、砂を吐きそうな心境であった。

 幸之進はしおらしいことを言いながら、照れたような仕草を見せる。――が、そんな男ではないことを親信はすでに知っている。

 純朴そうに礼儀正しくしていれば、幸之進の容姿にはそれが似合うのだ。それを当人が誰よりもよくわかっている。


「そ、そうか? いや、まあ、それほどでもあるが、な」


 謙遜し慣れないのは、褒められることが少ないからか。

 兵吾は見事に幸之進の手の平で転がされ始めた。


「侍である以上、強くあらねばなりますまい。それがしも鍛錬は怠っておらぬつもりですが、どうにも才がないのではないかと。どのようにすれば青木殿のようにお強くなれるのでしょうか?」


 鍛錬は怠っておらぬとどの口が言う。子供と一緒になって日々遊んでいる男がよく言えたものだ。

 こんな見え透いた世辞なのに、兵吾は今までに見たこともないほどに嬉しそうで、親信の方が切なくなってきた。


「ははは、まあ、そうだなぁ――」


 上機嫌でふんぞり返っている。しかし、そこで親太郎が親信の袖を引きながら言った。


「ちーうえ、しっこ」


 尿意をもよおしたらしい。親信は親太郎を抱き上げた。


「もう少しだけ我慢できるか?」

「あいっ」


 こっくりうなずく。


「親信殿、急いでくだされ。――すみませぬ、青木殿。それではまた」


 幸之進は礼儀正しく頭を下げ、きびすを返す。その時、兵吾は残念そうに見えた。

 と、そんなことを気にしている場合ではない。親太郎が用を足せる場所を探さねば。

 兵吾を残して皆で足早に去ると、去りゆく途中で幸之進は言った。


「なんだ、刺すような視線はアレか? 立ち回りでも繰り広げるくらいの難敵かと思えば」

「――おぬし、あしらいが上手いではないか」

「ああいうのはまともに相手をしてはいかん」


 ひどい。

 しかし、幸之進の言う通りなのかもしれなかった。

 そこで幸之進はちらりと舌を出した。


「親太郎、おぬしも上出来だ。打ち合わせ通りにできたな。偉いぞ」

「あいっ」


 親太郎が誇らしげである。

 どうやら、用を足したいというのは嘘らしい。こう言えば解放されるだろうとひと芝居打ったようだ。


 多摩はというと、どうやら視線は自分には関わりのないものであったようでほっとしたのだろう。先ほどまでの緊張の面持ちが解け、その分疲れて見える。


「さて、帰るか」


 兵吾が出てきておかしな具合になったものの、見世物小屋は素晴らしかった。そのことだけを思い出しながら帰りたい。


 多摩が越してきた事情も初めて聞いたが、多摩は悪くない。

 むしろ、それからずっと怯えて過ごしていたのだとするなら気の毒だ。いっそ、その男が目の前に現れてくれたら叩きのめして追い払ってやるのに。


 風雷神門の大提灯を皆で潜る。ここからはまたいつもの日常だ。

 しかし、その時、出ていく親信たちとは逆に門に入ってきた年増女が多摩に気づいて袖をつかんだ。


「ああ、お多摩ちゃんじゃないかっ」

「お、お久留くめさん?」


 どうやら知り合いらしい。久留という女は、嬉しそうに多摩の手を握った。


「ああ、急にいなくなるから皆心配してたんだよ? うん、あの勘吉かんきちのせいだってわかってるよ。お多摩ちゃん、つけ回されて大変だったもんねぇ。でも、だからこそずっとお多摩ちゃんに教えてあげたかったんだよ」

「え?」

「勘吉のやつ、お多摩ちゃんがどこかへ行ってから荒れてね、酒を飲んでは暴れて人に怪我をさせて、それで江戸払いになったんだよ。だから、もうここにはいないし、そう易々と戻っちゃ来られないよ。お多摩ちゃんはもうあんなやつに怯えなくったっていいんだ」


 多摩は唖然として口元を押さえた。久留は、そばに立っていた親信と幸之進とを見比べ、多摩との間柄を量ろうとしていたけれど、どちらも侍である。軽々しくは訊けず、ただ興味津々といった目をしただけだった。


「そう、だったんですね。もう、ここにはいなくて、会うこともない――」


 多摩はうわ言のようにそれを言った。幸之進は詳しい話を知るわけではないが、この流れからなんとなく察したかもしれない。


「うん、うん。そんなわけだから、お多摩ちゃん、卯吉さんたちも息災かい? また遊びにおいでよ」

「ええ。ありがとうございます、お久留さん」


 久留は手を振って、人混みに流されていった。多摩はその方角をじっと見つめながら、それでも何も見ていないような目をしていた。ぼうっとする多摩を加乃が心配そうに見上げる。


「お多摩さん――」


 多摩はハッとして加乃に微笑んだ。


「あ、ごめんなさい」


 いや、と親信はかぶりを振った。その時、親信を見上げた多摩の目が潤んでいた。それが安堵から来るものだろうと思った親信は浅はかであった。幸之進は加乃の肩に手を添えながら多摩に苦笑する。


「何やら心配事があったようだが、解決したのならば何よりだ。ただ、そのわりには表情が晴れぬな?」


 そうなのだろうか。ほっとしているのではないのか。

 親信にはその違いもわからなかった。

 多摩は自らの頬を手で包み込むと目を閉じた。


「――つきまとわれて怖い思いをした相手です。二度と会うことはないと思ったらほっとしたのは本当なのに、どうしてでしょうか。顔を合わせることがないと分かった途端に、あの時の勘吉さんのもどかしさがほんの少しわかるように思えたなんて」

「ふむ。思う相手に振り向いてもらえず、どうしたら好いてもらえるのかと考えて、それで空回って下手を打ってしまった。そんな片恋のつらみがわかるのならば、お多摩殿もひとつ大人になったということだな」


 幸之進が偉そうにそんなことを言う。多摩は恥ずかしそうにつぶやいた。


「わたし、怯えずにちゃんと言えたらよかったんです。思う相手に怯えた態度を取られたら悲しいに決まってますよね。気持ちに応えられなくても、余計に傷つけるようなやり方をせずにいられたらよかったんです。わたしも好きな人に素っ気なくされたら悲しくなりますから――」


 何が多摩をそんなふうに変えたのか、それは親信にはわからなかった。

 けれど、幸之進が言うように、多摩が少しばかり大人になったような気がした。


「報われない恋もこの世にはあろうが、無駄ではないのだ。お多摩殿がそのように思えるようになった恋をしたのなら、それはよいことだと思うぞ」


 幸之進が優しげな笑みを浮かべて、柔らかな言葉をかけるから、多摩は涙ぐんでいた。多摩には想う相手がいて、それが少々報われない恋であるというのだろうか。

 子持ちやもめの親信には縁のない話なので、上手い助言も見当たらない。


 しかし、どうして幸之進がそんなことを知っているのだと思うが、この男は妙な勘が働く。多摩の言動から察知したのだろう。

 それにしても、同じ状況でも和吉の時とは扱いがまるで違う。あの時はひどかった。多摩がか弱い娘だから甘いのか。


「そうですね、望みは薄いですけど。もう少しくらい、想うだけならいいですよね」


 二人にしかわからない話をし、穏やかに笑い合っている。

 まさか、幸之進に惚れたという話だろうか。それはやめておいた方がいいと思うが。


「時に、おぬしは見世物小屋で知り合いには会わなかったのか?」


 親信は幸之進にそれを訊ねたくなった。

 多摩と千駄ヶ谷の長屋にいる久留がばったり会ったり、親信も兵吾に出くわしたのだ。幸之進とて知己に会ってもよさそうなものである。身分のある侍は見世物小屋に行かないとしても、実家で暮らしていた時の知り合いくらいはいたかもしれないのに。

 幸之進は首を傾げた。


「さぁなぁ。俺にはわからぬよ」


 まったく、悪運の強いことである。

 そうして幸之進は今日ものさばっている。

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