第45話

 どうやら藤庵は、半治の父を診ているらしかった。そういえば、前に会った時に半治のことを気にしていた。


「半治、おとっつぁんはもう虫の息だ。本当にそれでいいのか?」


 怒っているのでもない、静かな口調で藤庵は言った。呆れているのとも違う。


 藤庵自身が、死の間際のよねにしてあげられることを探した。

 親信が知る限り、精一杯の真心であったと思う。それでも、もういいという区切りはなく、後悔はあるのだろう。悔いを抱えて生きるのはつらいから、藤庵は半治のために言っているように感じた。


 親信は、藤庵の後ろから半治の部屋を覗き込む。徳利が横倒しになり、酒臭くて敵わなかった。半治も頭が痛いのか、項垂れている。幸之進だけは水でも飲んでいたのかと思うほどにけろりとしていた。


「半治殿、行かずともよい。人なのだから、許せぬことがあって当然だ」


 この期に及んでまだそんなことを言う。

 親信は、こうなったら力づくで半治を父親の元へ連れていくしかないと覚悟を決めた。

 多分それは本当に余計な世話で、親信が首を突っ込むことではないのだが、死に逝く半治の父親が憐れに思える。それは自分自身が父親であるからかもしれない。もし独り身であったら、幸之進のように半治の肩を持ってやれただろうか。


「藤庵先生、半治の父親はいずこに?」

「蛇骨長屋だ」


 それを聞き、すとんと親信の中で収まりがついた。兼を蛇骨長屋で見かけたことを思い出したのだ。


 蛇骨長屋は、蛇の骨のようにうねった貧乏長屋である。親信の教え子である梅もここに住んでいるのだから、世間は狭い。あそこは浅草寺にほど近く、藤庵の住まう田原町からもそう離れていなかった。

 親信が拳を握り締めると、ずっと黙っていた半治がぼそりとつぶやいた。


「そんなに悪ぃんですか」


 藤庵は嘆息する。


「ああ、いつ死んでもおかしくない」


 死んだら清々するとでも言ったら、さすがに殴ってやろうかと思った。

 半治がつらい思いをしたのはわかった。半治の父がろくでなしだったとして、それでも死に逝く者に酷薄すぎるのは人としていけない。半治は、命を救う火消しなのだから、余計にだ。

 半治はそのまま、ぼそぼそと続けた。


「――わかりやした。恨み言のひとつでもぶつけてきやす」

「へっ」


 これに驚いたのが幸之進だった。


「これ、行かずともよいというに」


 半治は酒の残った顔で幸之進に向け、歪で不器用な笑みを浮かべてみせた。何がそんな顔をさせるのだろう。


「皆が、血の繋がったおとっつぁんなんだから、許してやれ、顔を見せてやれって口をそろえて言う中で、幸之進様だけは実の親でも許せないことがあって当然だって、俺の味方をしてくださいやした。そのおかげで俺は、ちっとばかしは頭を冷やして考えられたんで。最期だってぇのなら、それを確かめてからあいつのことなんて綺麗さっぱり忘れてやろうかと思いやす」


 幸之進は、意固地に会わぬと決めていた半治に、親信のように正面からぶつけたのではいけないと覚ったのだろうか。だからこそ、あえて会わずともよいと言った。

 己と同じ、父との確執がある半治の肩を持ったのとは違うのか。そこまで先を読んでの行動だと――。


「いや、放っておけばよいと思うのだがなぁ」


 そんなことをつぶやいている幸之進を見ていると、そこまで意図していたのか怪しいところだが。

 結果、功を奏したというだけかもしれない。


「そうだな、しっかりと会ってこい」


 藤庵も半治の返答にほっとしたのだろう。それを聞いて去っていった。

 親信も安堵したのだが、まだ気を抜くには早いとも思えた。



 その日は深酒が過ぎてまともに歩けもしなかったので、半治が蛇骨長屋に向かうのはその翌日のことになった。その前の晩から、幸之進はあっさりと親信の部屋に戻ってきたのだから図々しい。


「ゆきしっ」


 それなのに、嬉しそうにしている親太郎を見ていると親信は何も言えない。


「よしよし、いい子にしておったか」


 どっちが父親だと問いたくなるが、構わないに限る。親信は加乃と夕餉の昆布油揚げ作りに勤しんだ。


 涼しい顔をしている幸之進だが、酒臭い。見た目はまったく変わりないのだが、やはりしこたま飲んでいたらしい。半治が潰れたほどなのに、何故幸之進は平然としているのかも謎である。



 翌日、親信たちがついていくことはなかったのだが、たまたま手習所が休みであったので行くことにした。それというのも、途中で半治の気が変わるのを防ぐつもりであった。幸之進は何を考えてついてきたのかよくわからない。


 男二人に両脇を固められて歩いても、半治は嬉しくなかっただろう。しかし、来るなと言わなかったのは、半治自身も土壇場で逃げ出さないようにしたかったのかもしれない。二人がいると、みっともない真似はできないとばかりに。



 蛇骨長屋は相変わらずおんぼろだった。その名のごとく波打って建っている。

 半治の父親も晩年は貧しい暮らしをしていたのだろう。荒んでいたようだから、真っ当に働いていなかったと思える。

 半治の父は、名を磯治いそじというらしい。藤庵によると、磯治の部屋は角だそうだ。


「――姉貴は以前から親父のところへ顔を出していたらしくって。姉貴だって散々な目に遭わされてばっかりで、養ってもらった覚えもねぇのに、なんで許せるんだか。姉貴が許してるのに、俺が許さねぇのは俺の度量のせいかって、それも考え出すともやもやしちまって」


 蛇骨長屋の歪んだ並びを、青い空の下で眺めながら半治がそんなことをぼやいた。その背を幸之進が叩く。


「人それぞれある。少なくともここへ来ただけで、半治殿は俺よりも懐が広いと思うがな」


 などと言って幸之進が笑いかけた。親信も思わずうなずく。


「ああ、違いない」


 自分で言ったくせに、親信が賛同したら嫌な顔をした。


「親信殿は俺がわからず屋と言ったのを根に持っておるな」

「おぬしと一緒にするな」


 そんな莫迦げたやり取りに、半治も緊張がほぐれたのか少し笑った。

 ようやく、半治の足が蛇骨長屋へと動き出す。親信と幸之進はその背を見守りながら続いた。


 半治は我が身を顧みず火の中に飛び込む勇猛な火消しだ。それでも、このくたびれた長屋の障子の奥へ踏み入るのは、火の中に飛び込むよりも胆力が要ったのだろうか。


 継のある障子に手をかけた際、半治の手に筋が浮き、強張っていた。幼い頃に受けた心の傷は、壮健に育った今でさえも塞がらないものなのだ。

 建てつけの悪い戸だから、すんなりとは開かなかった。かたかたと音を鳴らしながら少しずつ開く。


 すると、病人の枕元には兼が座っていた。ただ背筋を伸ばし、無言でじぃっと老人の顔を眺めていて、それから半治の方へゆっくりと目を向けた。その顔には表情というものがなかった。

 兼もまた、父親に対して思うことは多いのだろうか。


「――おとっつぁん、半治が来たよ」


 落ち着いた口調でささやく。しかし、老人はなんの動きも見せない。

 半治は一歩前に出て土間に立った。


「くたばったのか?」


 それを待ちわびていたつもりが、今の半治は不安げに見えた。迷いが生じたのは、目の前に横たわる老人があまりに弱々しいからかもしれない。

 染みだらけの汚く薄い夜具。風が通らずに籠った部屋の中、えた匂いがする。


「まだ生きてるよ」


 兼がため息をついた。やっと来たと思ったらそんなことしか言えないのかと呆れているのかもしれない。

 生きているとは言うけれど、最早喋ることもできないようだ。

 まぶたが持ち上がることはもうないとわかる。本当に虫の息である。

 兼は半治に顔を向ける。ここは、とても静かだ。


「おとっつぁんは、あんたのことが大事だったんだ。少なくとも、あたしはそれを知っているよ」

「はぁ? んなわけねぇだろ。大事なら、なんで毎日殴んだよ? この傷も親父にやられたんだ。姉貴だって知ってるだろっ」


 半治は、病人のそばだからと声を潜めるつもりはなかったようだ。むしろ、聞かせてやりたいと思ったのかもしれない。声を荒らげていた。

 それでも兼は落ち着いていた。


「おとっつぁんはね、昔、よくない付き合いがあって、それであたしたちに荒っぽく接してたのさ。子供を大事にしているって知られたら、あたしたちが狙われちまうから。盾にしたって、人質になんてならないって思わせるようにね。あえて家族を突き放すようにしていたんだ」

「姉貴はなんでそんなこと知ってんだよ? 親父が喋ったのか?」

「そうだよ」


 しかし、半治はその話をすんなりと呑み込めないようだった。上がり框にどかりと座り込むと、荒っぽく手を突いた。


「俺はな、そんな話は信じねぇよ。大体、だからなんだってぇんだ。理由も全部ひっくるめて、やっぱり親父は勝手なろくでなしじゃねぇか」


 子供たちが危険な目に遇わぬように、わざと邪険に扱っていたという。

 親信が同じ立場なら、磯治と同じことをするだろうか。


 ――しないと思う。しかし、他に手立てがなく、追い込まれた状況になったらやらないとは言えない。それが、己が斬られるよりも痛いことだとしても。

 兼は疲れた顔をして言った。


「ねえ、半治。おとっつぁんはもういけないよ。最期だから、優しい言葉をかけてあげな」


 半治は黙ると、チッと舌打ちした。磯治のそばへ膝で歩むと、死相の出た老人の顔をじっと覗き込む。


「なんだよ、昔はあんなに強かったじゃねぇか。こんな縮みやがって、なあ、なんとか言えよ、この――」


 そこで半治の声が途切れた。

 気づいてしまったのだろう。老人が黄泉路へ旅立ったことを。

 なんの言葉も交わさぬまま、親子の対面は果たされたと言っていいのかどうかもわからない。


「あんたが、もっと早くに来ていれば――」


 兼の口から恨み言が漏れる。それも仕方がないことかもしれなかった。

 磯治の思いを知った兼は、わだかまりを解いてやりたかったのだろうから。

 兼は一度、顔を両手で覆った。それから、弱々しい声を指の間から零す。


「おとっつぁんの葬儀はあたしが出すから、あんたはもう気にしなくていいよ。ここにも来なくていい。最期にあんたの顔を見せたかっただけだから」


 その声が途方に暮れているように聞こえた。

 半治は無言で、ただ手をだらりと畳の上に落とした。意地を張って顔を見せなかった自分を責めているだろうか。今、親信がそんな半治にしてやれることはあるだろうか。


 この時、親信は何げなく幸之進を見遣った。

 幸之進は、父親になど会わずともよいと、半治の肩を持った。そのことに責を感じてはいないのだろうかと気になったのだ。

 しかし――。


 幸之進は妙に厳しい顔をして立っていた。老人の死を悼むというふうでもない。一体何があってこの表情なのか。

 半治は悪くないのに責めるようなことを言うな、と兼を腹立たしく思っているのかもしれない。幸之進の考えはよくわからない。


「姉貴、俺――」

「もういいんだよ。あんたは気にしないでいいから、もうお帰り」


 兼も磯治の看病に疲れていたのかもしれない。妙に投げやりに聞こえた。


「半治殿、戻ろうか」


 幸之進が口を開く。半治はただ戸惑い、それでも磯治と兼に背を向けて土間に足を下ろした。


「姉貴、ごめんな」


 謝る相手が違う、とは言われなかった。兼は無言でため息をついた。


 それから帰り道。

 男三人無言で歩いた。


 親信は結局、半治になんと言葉をかけていいのかわからなかった。幸之進も同じだったのだろうか。珍しく口を開かない。ただ後ろ髪を引かれるようにして蛇骨長屋を気にしている。


 口数は少ないままきなこ長屋に戻った。半治は、自分の部屋に閉じ籠った。一人にしていいものかとも思うが、一人になりたい気持ちはわかったからそっとしておくしかない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る