第21話
その翌日。
節句休みが明けて初めての手習所である。三日ぶりの子供たちは元気が有り余っていた。
なんとなく、貞市の頬がいつも以上に艶やかに見えた。きっと馳走を用意してもらったのだろう。
小吉は目の周りに青痣ができており、何事かと思えば、兄と菖蒲刀を振り回して遊んでいたところ、兄の攻撃が当たったらしい。玩具のようなものだから斬れはしなくとも、当たれば痛い。見た目ほど痛くはないと言うが、見た目が痛々しかった。
寛太は来ない。どうやら休むようだ。
三日間、家の手伝いをしていただろうに、今日もまた手が足りないのかもしれなかった。
つい間に合うからといって、手習所よりも家の手伝いを優先させてしまう。寛太のためには学も必要なのだけれど、目先のことに捕らわれて手伝わせてしまう親の気持ちもわからなくもないだけに複雑だ。
加乃のことも真剣に考えてやらねばと、親信も我が身を振り返る。次の初午には間に合うように手習所へ入れてやりたい。
それから、沙綾の墓前に参って家に帰る。
道中、煮売屋で浅利のむき身切り干しを買った。これで今日の菜の心配は要らない。
もうじき八つ半(午後三時頃)というところだろうか。親信が長屋に近づくと、家の前に娘が立っていた。その横には和吉が。
娘は、多摩ではなかった。あの後ろ姿は茶屋の看板娘、初だ。
親信の顔が引きつる。何故、初がここにいるのだ。
初はすぐに親信に気づいて振り返った。その途端、嬉しそうに顔を綻ばせる。
「ああ、お武家様。昨日は大変お世話になりました。もう、今までにないくらいの盛況ぶりで、おっかさんと、あのお若いお侍様にもひと言お礼を言わないとと話していたんです。でも、どこのどなただかも存じ上げませんし、またお店に来てくれるのを待つしかないかと思っていたんです。でも――」
そこで初はチラリと和吉を見た。和吉はというと、初が隣にいるというのに、顔色が優れなかった。紙のように白い顔をして、ぼうっと立っている。
「確か和吉さんが、同じ長屋に住むお武家様だって仰ってたのを思い出したんです。それで、和吉さんの長屋にくれば何かわかるかと思いまして。ええ、来てみて当たりでしたね」
親信がいるということは幸之進も近くにいると言いたいのだろう。事実、いるのだが。
長屋の戸がガラッと開いた。戸口に立つ幸之進は、ふあぁとひとつあくびをした。
「おお、親信殿、おかえり。今日の夕餉はなんだろうか?」
親信が手に何か鉢を持っているので、幸之進はそこしか見ていなかった。初にも和吉にも目が行かない。
「ちーうえ、おかーりなしゃい」
親太郎が抱き上げてほしそうに両手を上に伸ばしてくる。親信は切り干しの入った鉢を幸之進に押しつけ、親太郎を抱き上げた。
「只今戻ったぞ、加乃も変わりはなかったか?」
「はい、父上。お帰りなさいませ」
そんな様子を焦れたように見つつ、初は幸之進に声をかけた。
「あの、昨日は本当にありがとうございました。おかげさまで、今までで一番お客様がたくさんいらしてくだすって」
ここの長屋の多摩とは違い、初は最初こそ幸之進に戸惑っていたものの、今日にはもう慣れたようだ。頬をほんのりと染めてはいるが、しっかりと幸之進の目を見て話している。
幸之進は昨日の今日だというのに、随分と前のことを引っ張り出されたような様子で軽く首を傾げてから、ああ、とつぶやいた。
「そうか。それはよかった。親信殿にあれではかえって迷惑をかけるといって叱られたところなのだ。叱られ損だな」
正直に言うなと、親信はどついてやりたい気分だった。
初は、まあ、と漏らして淑やかに口元を押さえてみせる。
「迷惑だなんて、そんな、滅相もございません。いつでもいらしてくださったら、私も母も嬉しゅうございます」
本当に嬉しそうである。世辞ではない。
初のそんな顔を見て、和吉が色をなくすのも無理からぬことだろうか。もう、燃えかすのように白くなって、風が吹いたら崩れてしまいそうだ。
繊細な仕事をする職人だけあって、心も繊細だ。
和吉のことが気になって冷や冷やしている親信に気づかず、幸之進も笑顔を振りまく。
「うむ。美味い菓子があれば行くぞ。お初殿たちの菓子は美味いからな」
「ありがとうございます。お待ちしております。――あの、これはほんのお礼の品なのですが」
手に持っていた風呂敷包みを解き、中から竹皮を取り出す。多分、菓子だろう。
幸之進に遠慮などという慎ましいことはできない。切り干しの入った鉢を加乃に渡し、それから改めて初に向き直る。
「おお、菓子か。ありがたい」
輝く笑顔で初の手ごと握り締めそうな勢いだった。落ち着いて見えた初も、また顔を赤くしてしどろもどろになる。
「よ、喜んで頂けたなら――。で、では、私はこれで」
これでと言いつつも名残惜しそうである。何度か振り返りながら遠ざかる。
菓子の包みを持ってへらへらしていた幸之進は、ふと和吉の方を向いた。燃えかすになって、影が薄くなっている。もともと居職でひっそりとした男ではあるのだが、この薄さはまずい。
幸之進はそれでも無遠慮に口を開く。
「和吉殿、お初殿を送って行かずともよいのか?」
恋敵から塩を送られたくはないはずだ。明らかに、初は幸之進に気がある。
しかし、幸之進はするりと素早く和吉の隣に立つと、耳元で何かをささやいた。その途端、和吉は息を吹き返したかのように駆け出す。
その代わり身の早さに、親信も加乃も唖然とした。
幸之進だけはフフフ、と訳知り顔で笑っている。
「おぬし、和吉に何を吹き込んだのだ?」
「いや、和吉殿はお初殿に岡惚れしておるようなので、少々はっぱをかけたまでだ」
何か不吉な気がしたのだが、気のせいだろうか。
親信の目つきがちっとも褒めていないせいか、幸之進は笑って躱した。
「お初殿は俺の顔が気に入ったようだが、そういう女子は多いのだ。しかしな、女子というのは不可思議なもので、顔がよい男を眺めるのは好きでも、亭主にしたいかと言えば、それはまた別なのだ」
「うん?」
「男はな、美しい女子がいれば妻にしたいし、そばに置きたい。しかし、女子は鉢植えの朝顔のごとく気軽に眺めるだけでよいと考える者もおる。色恋とは別の、そうだな、役者を贔屓にするのと同じようなものか。つまり、お初殿のような女子は、亭主には稼ぎがある堅実な男を望んでおる。俺にはそれがわかるのだがな」
親信には、初が幸之進に惚れたように見えたけれど、違うらしい。
顔を見ただけで女子にぼうっとされるような経験はないので、幸之進の言うことはよくわからない。
「堅実な男か。それなら和吉がぴったりではないか」
そうあってほしい。そうしたら、和吉が住むこの長屋に初も引っ越してきて、ここから通って母と茶屋を続けるだろうか。いっそ菓子作りに専念してもいいのかもしれない。
「そうさな。そこは和吉殿の頑張り次第というところか」
フッと笑う様子は、顔立ち以上に老成したものが垣間見える。こういう顔をたまに見せるから、幸之進はよくわからない。
「三日も続けて甘味が食えるとは思わなんだ。さてさて、なんの菓子だろうなぁ」
真面目な顔は長く持たない。しかし、そうしてはしゃいでいる方が幸之進らしい気もしてくるのだった。
初がくれた菓子は、
沙綾も贅沢をしない暮らしが身についていたので、生前に甘味を食べることはあまりなかったが、本音を言うなら多分食べたかっただろう。今さら供えられても食べられないとぼやいているかもしれない。
いなくなってみてから、あれもしてやればよかった、これもしてやりたかった、などといくら言っても遅いのだ。
日々、そうしたことをふと考えてはしんみりとしてしまう親信の背中を、幸之進がとんとんと叩いた。
「親信殿、和吉殿が戻ったようだぞ。気になるのなら話を聞いてはどうだ?」
「うん? もう戻ったのか。早いな」
「親信殿がぼうっとしていたからそう感じるのではないか?」
などとにやにやしながら言われた。そんなにもぼうっとしていただろうか。
しかも幸之進は、何を考えてぼうっとしていたのかまで見通しているような顔で言うから気まずい。
「まあ、早いは早いな。送り届けてとんぼ返り。もう少し腰を据えて話し込めばいいものを」
「和吉はおぬしほど図々しくはないのだ。よし、少し話をしてこよう」
夕餉の菜はすでに決まっているから、気は楽だ。親信は和吉の部屋の前に行くと、障子の前で声をかけた。
「和吉、戻ったか?」
すると、和吉はすぐさま戸を開けた。部屋の中は独り者の男とは思えぬ綺麗さだった。つまみに使う
「向井様――」
「少し話せるか?」
「へい」
親信はすぐに戻るつもりだったので、上がり框に腰を据えるだけにした。和吉は障子を閉め、その前に立つ。少し前のような儚い雰囲気は薄れていたので、それにほっとする。
「おぬし、あの娘に気があるのだろう?」
「へっ?」
「お初殿だ。だから、私に子は可愛いか、所帯はいいものかと訊いたのではないのか?」
すると、和吉は言葉に詰まった。笑ってごまかすことすらできない実直な和吉だ。そういうところが親信には好ましい。
ふと表情を和らげて親信は言う。
「今も送り届ける途中で思いを告げたりはしなかったのか。二人きりになれた滅多にない機会だっただろうに」
「それは、そうなのですが――。あっしは面白みのねぇ男で、調子のいい客と楽しげに笑っているお初ちゃんを見ていると、そういう男がいいのかってすぐに自信をなくしちまうんです。ほら、幸之進様みてぇなのが皆好きなんでございやすよ」
あれを引き合いに出されても、幸之進は親信からすると、男というよりまだまだ子供にしか見えない。頬をかりかりと掻きつつ、親信は言った。
「幸之進のことも、他人のこともどうでもよい。おぬしがどうしたいのかが肝要だ。なあ、あの時こうしておけばよかった、などという後悔をしてくれるな。届かぬ後悔ほど虚しいものはないぞ」
作業台にしているのか、木箱の上には見事に咲いた布の花が置かれている。あんなにも複雑なことができるというのに、好いた女子に好きだと言う、子供でもできることができない。子供ではないからこそできないのかもしれないけれど、それがもどかしくもある。
「お初殿の挿していた簪は、おぬしが作ったものではないのか? 嫌いな男からもらったものを身に着ける女子はおらぬだろうよ」
それだけ言うと、親信は腰を上げた。親信にしては珍しく、他人の色恋に首を突っ込んだ。
和吉がこの後も動かないようであれば、それはそれで仕方がない。背中を押してやりたいと思ったのは、親信の勝手ではあるのだ。
人様に構っている暇があれば、自分のことをもっとしっかりすべきではある。それでも、何かしてやれたらという思いは間違っていないと信じたい。
和吉は、大きく目を見開き、グッと拳を握り締めていた。その様子から、なんらかの決意が感じられたのだった。
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