第22話

 それから。

 数日経って、和吉が動いたようだ。

 幸之進は、和吉が大事そうに小さな桐箱を手に外へ行くのを見たという。


「あれは大きさからして簪だろうな。きっと、お初殿への想いを込めて仕上げた簪を持って口説きに行ったのではないかな?」


 などと、夕餉に買い求めたあじ蓼酢たでずえつつきながらにやけていた。

 渡したい簪を仕上げていたら、思いのほか時を費やしてしまったのかもしれない。けれど、それが自分らしいやり方だと和吉が納得したのだろう。


「それはきっと見事な出来であっただろうな。まあ、今さら贈らずとも、以前渡した簪も似合っていたが」


 親信も微笑ましい気分で味噌汁を啜った。きっと初も喜ぶだろうと思うだけで、親信も胸の奥がほくほくとあたたかい。


「ああ、お初殿が挿していた簪か。紅白の、仕事の邪魔にならぬ控えめな簪であったが、よいものであったな」


 幸之進も覚えていたらしい。親信はうなずいてみせた。


「そうだ。和吉の簪を挿していたからこそ、おぬしがお初殿には堅実な男がよいと申した時に、和吉しか考えられぬと思えたのだ。嫌いな男からの贈り物など身に着ける女子はおらぬからな」


 すると、幸之進は口の中のものを呑み込んで、それからハハッと軽く笑った。

 何故ここでそういう笑いが零れるのだと、親信は眉をひそめる。


「もちろん、嫌いな男からの贈り物を身に着ける女子はおらん。しかしだ、それほど好きでもない男からの贈り物ならば身に着けるやもしれぬぞ?」

「うん?」

「物は物だ。受け取った後は己のもの。よほど嫌いな相手からならば、そこに念のようなものがこびりついているようで気味悪くて使いたくもないがな、そうでもなければ物に罪はない。取り分け好きでなくとも、嫌いでなければ身に着けるさ。それも、よく茶屋に顔を出す客からの貢物ならばな。ほら、茶屋の看板娘には客が前垂れを贈ったりすると聞くぞ」


 初が身に着けていた前垂れのことを思い出す。そう言われてみると、割と新しい、綺麗なものであったような気がしてきた。

 さらに幸之進は言う。


「それから、和吉殿はつまみ職人だ。腕のよい職人が仕上げた簪だから、よい品だ。それはもらえれば嬉しいだろうよ。だからな、お初殿が和吉殿の簪を挿していたからといって、それだけでお初殿が和吉殿に気があるとは判じられぬよ。お初殿目当ての客は多かったではないか? お初殿は男を見る目は十分に養っておるぞ」

「――お、おぬし、それなら何故、和吉にはっぱをかけたのだ?」


 今さら、そんな不安になるようなことを言わないでほしい。親信も一緒になってけしかけた後なのだ。

 幸之進は、猫のように目を細め、少々意地悪く笑った。


「まあ、もし振られようとも、それは和吉殿にとって今後の糧になるのではないかな?」


 荒っぽいにもほどがある。和吉は繊細な男なのだ。

 親信も悔いを残さないようにと背中を押したが、それはある程度の勝算があるとしての話だった。それが、勘違いでしかないのだとしたら――。


 初が和吉の将来性を見込んでくれることを祈りたい。冷や汗が親信の背を滑り落ちた。


 幸之進は優しさを見せることもあるのだが、急に手の平を返したかのように手厳しいことをするのだと、親信は改めて思い知らされた。本当に、わけのわからない男だ。

 親信がはぁ、と嘆息しても幸之進は楽しげである。


「しかしだ、熱意があればお初殿も絆されるであろう。まだどこかへ嫁いだという話ではないのだからな。人の心を動かすには熱意が要る。和吉殿が細工を仕上げるのに傾けるほどの熱意がお初殿に伝わればよいのだ。それができぬのならば、それまでということ」


 厳しい。

 女子供には優しいが、男には厳しいのか。


 親信には一宿一飯――いや、もっと長いが――の恩があるから下手にも出るが、うじうじとした男には厳しい面も持ち合わせているらしい。

 親信がやや引いたせいか、幸之進は妖艶な笑みを浮かべた。この男がこういう顔をする時は、大抵ろくなことがない。


「そうそう、おみち殿とお丹美殿がな、和吉殿が惚れたのはどんな女子だと問うてきたので、似合いのよい娘御だと話しておいたぞ」

「な、何故におみち殿たちがそのことを知っておるのだ」


 親信は断じて話していない。加乃も話すはずはない。

 幸之進は首を傾げただけだった。


「この長屋の壁は薄いのだ。秘密など保てるわけがなかろう?」

「ああ――」


 誰にも話していないつもりだが、残念ながら筒抜けである。きっと、和吉の隣に住む丹美が壁に張りついていたのだ。それに気づかずに話していた男二人が間抜けなのだろう。


 和吉がどうにかして初を射止めてさえいれば笑い話で済まされる。しかしだ、もし振られたら目も当てられない。長屋は針のむしろだ。

 そこのところをわかっているのか、いないのか、幸之進は今日も美味そうに飯を食っていた。


「親信殿、鯵が美味いな」

「あ、ああ」


 しかし、気が滅入って飯の味がしなくなってきた親信だった。



 その晩。

 子供たちは眠りに就いた。ただ、家の前に人影が近づき、親信はハッとして夜具から抜けた。

 隣にいる加乃を起こさぬように気遣いながら、親信は戸口に近づき、誰何すいかする。


「誰だ?」

「ああ、向井様、起きていらした。すいやせん、じゃあ、ちっとだけ手伝っちゃくれやせんか?」


 その声は半治であった。何事かと思い、戸にかけてある心張棒しんばりぼうを外して静かに戸を開けると、そこに立っていたのは半治と、へべれけの和吉であった。その様子から、何があったのか聞かずとも推測できる。


「か、和吉――」


 玉砕したのだろう。飲めない口ではなかったはずだが、悪酔いしている。

 半治は手を焼いたらしく、深々とため息をついた。


「道で倒れてやがって。木戸が閉まる前に引きずってきやしたが、まあ暴れて大変てぇへんでした」


 和吉が、火消しで腕っぷしの強い半治が手こずるほどに暴れたとは――。

 傷は深いと見える。


「と、とにかく、部屋まで運んでやろう」

「へい。お手を拝借してもよござんすか」


 半治と二人がかりで和吉を両脇から担ぎ、部屋に押し込む。座敷に転がしてひと息つくと、何故だかいつの間にやら上がり框に幸之進が腰かけていた。


「ふぅむ。どうやら上手くは行かなかったようだな」

「あ、幸之進様」


 半治が暗がりの中で笑ったのがわかった。幸之進はそのまま勝手に上がり込むと、寝転んでいる和吉の額に手を当てた。


「和吉殿、ちゃんと想いは告げられたのかな?」


 すると、和吉はうぅぅ、と弱々しく啜り泣いた。


「丹精込めて作った簪を差し出して、あっしと夫婦になってくんなって――。そしたら、そしたら――」


 親信は大の男が泣くところに居合わせ、ひどく居たたまれない心持ちになった。しかし、幸之進はあっさりとしたものであった。


「そうしたら、どうしたのだ?」


 遠慮なく訊ねる。

 そっとしておいてやってほしい。

 止めようとしたところ、和吉は途切れ途切れに言った。


「ちょっと遅かったって。少し前に、同じことを言われて、受けたって」


 つまり、初はすでに約束した相手ができていたということか。


「そ、それが、もっと前に言ってくれてたら、考えたのにって。なんっつうか、仕合せそうな顔して、言われてっ」


 痛い。

 親信まで心が痛んだ。

 縁というのは本当に、ちょっとした掛け違いで外れるのだ。


 親信にしてみても、あの時、ああしていなければ、あのことがなければ、沙綾とは出会いもしなかったし、ましてや夫婦にもならなかったという事柄がいくつもある。

 そういうものをひっくるめて、縁がなかった、と言って片づけるしかないのだ。


「そうか、そうか」


 幸之進は労わっているとは思えないような口調で、ぽんぽん、と和吉の額を叩いた。


「受け取ってももらえねぇ簪なんざ、売っぱらって酒代にしてやったぜ。ハハ、ハハハ――」


 そうして、浴びるように酒を飲んできた挙句、道で倒れていたということらしい。

 半治はようやく事情を察したようだ。ため息が深くなった。


「要するに、女に振られてやけ酒か。まったく、どんな初心うぶだよ。吉原なかで学んできやがれと言いてぇところだが、こんな野郎は遊女の手練手管にどっぷり。ただの金蔓になっちまうしなぁ」


 これは、どのようにして慰めればよいのだろうか。さらに酒を飲ませるしかないのかもしれない。

 半治も同じことを考えたらしい。


「よし、今日は飲め。俺が付き合ってやらぁ」

「俺も慰めてやろう。よしよし、よく頑張った。これでひとつ男を上げたな」


 と、幸之進はそんなことを言いながら和吉の月代さかやきを撫でている。年長者にその扱いはどうなのだ。

 しかし、傷心の和吉は細かいことなど気にするでもない。うぅ、と嘆いている。


「お初殿はよい娘御だ。しかしだな、人には相性というものがある。和吉殿にはどのような女子が合うのかのぅ。なあ、今度こそ、この娘だと思う相手が現れた時は、一も二もなく踏み込むことだ。断られても、時さえあれば口説き落とせるのだ。それこそ、十年かける覚悟でな」


 その十年という歳月が、親信には生々しく嫌なものである。

 半治は一度戻ると、自分の家から酒と猪口を持ち込んだ。しかし、徳利とっくりをぶら下げながらも、何やら難しい顔をしている。


「どうした? 酒を切らしておったのか?」


 幸之進が首を傾げる。すると、半治は苦笑した。


「いえ、酒ならたんまりありまさぁ。外に出たら、向かいの戸が少しだけ開いてて、そこからお多摩ちゃんがおっかなびっくり覗いてやがったんで」

「夜分にがやがやとうるさいので何事かと思ったのだろうな」


 親信はあの大人しい娘の怯えた様子を思い浮かべる。

 しかし、半治は小さく息をついた。


「まあ、そうでしょうね。向井様の御新造様が亡くなってからでしたから、越してきてようやく一年ってところですが、逆に言うならもう一年。お多摩ちゃんは相変わらずというか」

「相変わらずとは、人見知りが治らないという意味か?」


 幸之進が言うと、半治はうなずいた。それから、潰れている和吉のぐい吞みに酒を注いだ。


「人見知りというより、怯えてるみてぇに見えやす。ガサツな男が苦手なんでしょうかねぇ。それにしちゃ、気になって見てるんですから可愛いもんです」


 半治は何故だかニヤリと笑った。震えている子猫のような多摩の様子を思い起こし、親信もフッと笑う。


「ああ、いつも気を張っているようだな。うちには幼い子供がいるからよく裾分けを持ってきてくれるのだが、少し話すだけで顔が赤くなる」

「――親信殿、振られた和吉殿を慰めるつもりがあるのなら、余計なことは言わずともよいぞ」

「違いねぇ」


 余計なこととはなんだ、と親信は首を傾げたが、半治は納得しているふうだった。

 そんな話が聞こえていたのかどうなのか、和吉はぐい吞みの縁を咥えるようにして酒を啜り出した。ズズズ、と嫌な音を立てて飲んでいると思ったら、鼻を啜る音だった。

 終いには嗚咽が漏れ聞こえてくる。親信は居たたまれない気分であった。

 半治も、はぁ、と嘆息する。 


「まったく、女に袖にされたからなんだってんだ。そんなもん、身に覚えがねぇのは幸之進様みてぇなお人だけだろうよ」

「ああ、本当だ。身に覚えがない」


 幸之進は即答した。

 殴ってやりたくなるが、よくよく考えて見ると、親信にもなかったのだ。心底惚れた相手は沙綾だけで、その沙綾とは死別してしまったものの、夫婦にはなれたのだから。

 そう考えると、啜り泣く和吉に罪悪感めいたものを覚えたが、正直に言ったらそれこそ嫌味でしかない。


「でしょうねぇ。ささ、どうぞ、おひとつ」

「うむ。ありがたい」


 幸之進は半治に注がれた酒をクイッと飲んだ。猪口なので、それほどの量ではないが。


「向井様も」

「い、いや、私は――」


 明日は手習所があるのだ。酒臭くなっては困る。

 しかしだ、転がっていた和吉が絡んできた。


「向井様はぁ、あんな別嬪の御新造さんがいてぇ、可愛いお子がいてぇ、この酒が飲めねぇってんですかい?」


 意味がよくわからないが、とにかく絡みたいのだろう。傷心なのだ。


「す、すまん。では、一献――」


 親信は下戸げこである。

 図体のわりに、飲めない。飲むと頭が痛くなるし、肌がまだらに染まる。

 どうにも合わぬのだ。しかし、断れない。


 一献だけで勘弁してもらいたいと思って飲み干した。もっと水臭い酒かと思いきや、なかなかにいい酒である。薄めて出してほしかった。


 幸之進は何杯か飲んでいるが、いつも通りである。いつもがおかしいから、酔っていてもわからないだけかもしれない。


「よしよし、和吉殿。今宵は俺も付き合ってやるのでな。存分に泣くとよい」

「幸之進様みてぇに顔のいいお侍に、あっしの気持ちなんぞわかりやせん」


 暗い。酒が入るとねちっこい。

 しかし、幸之進はけらけらと笑った。


「顔がよければ万事解決することばかりではないぞ。しかしまあ、この顔をさかなに今日は飲め」

「うぅん、よく見ると、お初ちゃんより綺麗かも」

「ハハハ、照れるな」

「幸之進様、和吉がどんどんへっぽこになっておりやす」


 半治が頭をガリガリと掻きながらぼやいた。

 とにかく、注がれて、飲まされて、親信はその後のことを今いち覚えていない。ただ、和吉が、女なんて、女なんて、と嘆いている声が、柳を揺らす風の音ほどに恨めしそうで、いつまでも耳に残った。


 幸之進と半治、モテ組の二人は余裕で酒を飲みながら笑っていたのだからひどい。しかし、深刻にならずに笑い飛ばしてやったのが二人の優しさだったりするのだろうか。

 頭が重たすぎて、冷静にそこが判じられない親信であった。

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