第23話
――朝というのか、眠ったのかどうかも曖昧なままなので、夜の延長にしか思えない朝を迎えた。
「親信殿、親信殿、そろそろ飯を炊かねば」
ゆさゆさと体を揺すってくるのは幸之進である。なんとかして自分の家まで戻ったものの、酒が抜けずに頭が痛い。
「飯は、おぬしが炊け」
「無茶を言わんでくれ」
「今日の朝餉は、加乃の味噌汁でいい」
「味噌汁だけでは腹が膨れぬのだが」
「今日は無理だ」
ぐったりとした親信の様子に、幸之進は悲しげにかぶりを振った。
「もう親信殿には絶対に酒など飲ません」
「そうしてくれ――」
何故、幸之進は平気なのだろうか。もっとたくさん飲んでいたはずなのに。
解せない。
親信の具合が悪いと知った加乃は、驚きながらも懸命に味噌汁を仕上げてくれた。幸之進も不手際ながらに火を起こすのを手伝っていた。加乃が大変だからというのもあるが、真剣に飯抜きが嫌だったのだろう。
「父上、
加乃がそう言って、薄い重湯のような粥を味噌汁に添えてくれた。日に日に成長を見せる加乃に、親信は感激することしきりであった。
油揚げの味噌汁と粥を腹に納めたら、親信の二日酔いも随分と楽になった。和吉は大丈夫だろうかとふと考えたが、居職なので家にいてもいいのだ。動けるようになるまで休めばいい。
「加乃殿は素晴らしいな。惚れ直したぞ」
幸之進がそんなことを言うから、加乃が顔を赤くして照れていた。今日は怒る気力がない。
それでも、手習所には行かねばならない。
「ちーうえ?」
親太郎が心配そうに膝から親信の顔を覗き込んでくる。親信は親太郎にまで心配させてはいけないと笑ってみせた。
「うむ、加乃のおかげで楽になった。もう平気だ」
「それはよかった。しかし、念のために今日は俺も手習所へ同行しよう」
幸之進がそんなことを言い出した。断るべきか、頼るべきか――。
「はい、父上をよろしくお願い致します」
悩んでいるうちに加乃に頼まれてしまった。
幸之進はにこやかに答える。
「おお、任せてくれ。ではな、行って参る」
「はい、お気をつけて」
何やら目の前の二人が夫婦のようなやり取りをするので、やめてほしかった。
そして、ようやく出かける支度をして外へ出た。朝陽が尋常ではなく目に染みる。
幸之進は、一度だけ和吉の部屋の扉を落ち着いた眼差しで見遣ると歩き出した。
親信もいつもほどではない、ゆるやかな足取りで歩む。
すると、幸之進はポツリと言った。
「実はだな、和吉殿をけしかけたのはお初殿のためなのだ」
「は?」
「俺は、お初殿に
二人くらいいた気がする。よく覚えてもいない。
幸之進は気だるげにほぅ、と息を吐くが、酒臭くはなかった。
「あれでは客が引いた後、お初殿と喧嘩になっただろうなと」
「まあ、なっただろうな」
他の若い男に自分の許嫁がぼうっとなったらいい気はしない。お前は一体誰の嫁になるつもりなんだ、と言いたくもなる。そんなことを言いながら、男もものすごい美人が通りかかったら目を奪われるかもしれないけれど。
「長屋を訪ねてきたお初殿が少々疲れて見えたのでな、大量の客あしらいのせいばかりではないなと。それで和吉殿の出番だ。和吉殿がお初殿に嫁に来てほしいと言えば、お初殿は、すでに約束した人がいると答える。あの男も、やはりお初殿は己のことを好いているのだと機嫌を直すだろうよ」
「そ、それは――」
完全なる当て馬である。
和吉があまりにも憐れだ。鬼かこいつは、と親信が震えていると、幸之進は無邪気なほどの笑みを浮かべた。
「親信殿、勘違いしてもらっては困るぞ。和吉殿にも望みは多少なりともあったのだ。その細い糸をつかめなかったのには、当人にも非があろう」
「和吉は泣いておったぞ?」
「だから一緒に慰めたではないか」
面倒くさいが、優しい男ではあると思っていたのだが、案外そうとも言いきれないのかもしれない。無邪気な笑顔が急に毒々しく見えた。
「惚れた女子の仕合せのためだ。和吉殿もひとつ男を上げたのだから、まあよかろう?」
「おぬしなぁ――」
「勘違いしてもらっては困るのだが、俺は和吉殿が厭わしいなどということはない。真面目にこつこつと仕事をしながら生きてきて、尊敬に値する男だ。だからこそな、色恋沙汰も学んでもっとよい男になればよいと思わぬか?」
酒が残ってフラフラしていた親信だが、一気に素面に戻された気がした。酔いも吹き飛んだ。
それでも、幸之進は笑っている。
「そうしたら、和吉殿にもよい嫁がつくだろう。それとは別に、お初殿も仕合せになる。お初殿にはこれからも美味い菓子を作ってほしいのだ。あの男に嫁いでも茶屋は手伝うそうだから」
女子たちとへらへらしていただけかと思えば、少しの間にそこまでのことを聞き出している。本当に嫌なやつだ。
「まさか、菓子を作り続けてほしいという、そのために和吉を当て馬にしたのではあるまいな?」
「菓子の味は仕合せの味。作る者も仕合せであってほしいではないか」
アハハ、と声を上げて笑う幸之進だった。
初のためというのも少し違う。菓子のためというのもやや違う。
面白くなればいいという、ただそれだけのことであったのではないかと邪推してしまう。
しかし、それさえ本当のところはよくわからない。この男はどんな思惑があって人を振り回すのだろう。
親信は、和吉が憐れでならなかった。次に顔を合わせた時はどうしようかと、今日はその心配ばかりをした。
それなのに――。
二日の後、顔を合わせた和吉はというと。
「幸之進様っ」
「おお、和吉殿。もうよいのか?」
水を汲みに行かせた幸之進が、表で和吉と話しているのが聞こえた。
「へい。もうすっかり吹っ切れやした」
「そうか。それはよかった。和吉殿にはこれからもっとよい出会いがあるはずだ」
どの口が言うのかと親信は中でハラハラしていたものの、当の和吉は以前よりも妙に溌溂としていた。それが解せない。
「いえ、当分はもういいやってなもんで。それより、また一緒に飲みやしょう。幸之進様の見事な飲みっぷりには惚れ惚れ致しやした」
何故だ。
何故か懐かれた。
この若侍は案外ひどいのだと和吉に告げるわけにもいかず、親信は奥で身悶えていただけである。
「おお、またな」
障子を隔てていてもわかる。幸之進は人を惹きつけてやまない微笑を和吉に向けているのだと。
とんだ食わせ者だ。
和吉が女郎買いよりも
あれが転がり込んできてひと月と少し。そろそろわかってきたような気になっていたけれど、気のせいかもしれない。
軽口や猫かぶりで塗り固められた幸之進の本音は一体どこにあるのだろうか。
頭を抱えた親信の腕を、親太郎が心配そうに摩ってくれた。
後日、ことの顛末を知った大家の安兵衛は、玉砕した和吉に大層優しく声をかけてくれたそうだ。それを親信が意外に思っていると、こっそりと半治が教えてくれた。
「大家さんは若ぇ頃、そりゃあ女の尻ばっかり追っかけてて、そのくせよく振られてたらしいんで、和吉の気持ちがわかるんじゃありやせんか? きなこ長屋の『きなこ』ってぇのは、実は大家さんのことらしいです。女にマメなくせにすぐ砕ける、砕けたマメだから『きなこ』って。大家さん、今は枯れてすっかり落ち着いてやすが、あんまりにも皆が安兵衛長屋をきなこ長屋って呼ぶもんだから、ここが安倍川町なのをいいことにごまかして教えるんだって、おみちさんが言っておりやした」
――己が住む、きなこ長屋の謎が深まった親信であった。
【 参❖柏餅の五月 ―了― 】
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