第71話

 礼のひとつくらいは言わねばなるまいと、勤めから下がる前に幸之進の部屋で親信は畏まって切り出した。


「若、少々お話が――」

「ああ、丁度よかった酒の相伴――いや、丁度よくない。親信殿は下戸だから。まあよい、茶でも白湯でもいいからつき合ってくれ」

「はい」


 親信は袴を正し、幸之進の正面に座り込んだ。膳の上には酒しかないが、茶の支度をするのも面倒だ。

 真面目腐った男の顔を眺めながら一人で酒を飲んでも面白くないのだろう。幸之進は不満げにぼやいた。


「きなこ長屋が恋しいのぅ。半治はんじ殿の飲みっぷりが懐かしい」

「懐かしむほど前ではないでしょう。先月遊びに行ったではありませんか」

「本当ならば毎日行きたいところだ」

「働いてください」


 と、こんな話をしたかったのではない。

 親信は腹に力を込めてから言った。


「親太郎のこと、ありがとうございました」


 ありがとうと言いつつも渋い顔をしている親信に、幸之進は酒を啜りながら笑いかける。


「はて、なんのことやらな」


 飲んでも顔色が変わらない。あれは実は白湯なのではないかといつもながらに不可思議だが、酒の匂いは漂ってくるのだ。

 親信がどう言おうかと迷っているうちに幸之進は首の裏側を摩りながらつぶやく。


「それはそうと、加乃殿と少し話をした」


 親信の膝の上の拳がぴくりと動いたのを幸之進は見逃さなかっただろう。長い睫毛を伏せる。


「何か思いつめて見えたのでな、どうかしたのかと問うた。どうやら姉上が先走ったというか――」

「絹代殿が?」


 あの聡明な女人がどんな原因となったのだろう。

 図太い幸之進にしてはどこか言いづらそうに見えた。


「そうだ。姉上は加乃殿を気に入っておる。まずは縁組の心構えはしておいた方がいいとかなんとか言って帰ったらしい」

「え、縁組?」


 嫁入り先の話を持ってきたのだろうか。加乃はまだまだ子供だというのに、皆して。

 幸之進はいつになく困った顔をしてみせた。


「姉上は加乃殿の生い立ちを知らぬから。加乃殿を俺に嫁がせようと思えば養子縁組が必要になる。家格という厄介な壁があることをそっと告げたのだ」

「ああ――」


 陪臣の娘ではあまりにもつり合いが取れぬから、どうしてもという時には相応の家の養女に出し、そこから輿入れという形を取る。だから、加乃は名目上どこかの養女になり、そこから幸之進の嫁になるしかないと言いたいのだ。

 落ち着いて声を漏らした親信に、幸之進は意外そうな目をした。


「おぬしにはやらんし、養子にも出さぬと怒鳴らぬのか?」

「夜間ですので」

「そんな落ち着いた親信殿は見たことがない」


 失礼極まりない驚き方をされた。

 幸之進はこほん、と仕切り直す。


「加乃殿はあれから出自のことは口にせぬように努めているが、養子になど出てしまえば本当に親信殿と親太郎との縁が薄くなる。それだけは嫌だと悩んでおったようだ」


 加乃ならばそうだろう。この世の誰とも血の繋がりがないという不安を、家族という形に収まることで薄めている。

 その気持ちを親信が察していないわけではない。けれど、これ以上はどうしてやることもできないのだ。

 親信は加乃も親太郎も同じほどに愛しい。だからこれ以上というものはないのだ。


「もちろん加乃殿は親信殿の気持ちをわかっておる。これ以上ない父だからと。己が勝手に寂しがっているだけだと言うておった。うちの狸が聞いたら羨ましがること請け合いだ」


 そう思うのならもう少し能登守に優しくしてやればいいものを。


「では、嫁に行かなければよいのです。どこにも」


 真顔で答える。

 加乃は親信の娘だ。生涯かけて守るつもりでいる。

 幸之進は笑っていた。


「どうせおぬしは常に本気ではないのだろうし、とでも思うておるのだろう?」


 まったくもってその通りだ。


「六つの娘に本気で嫁に来いと言うよりは戯言であった方がよいかと存じます」

「うぅむ」


 幸之進は首を捻り、喉を酒で潤す。ふわりと花のような匂いがした。


「俺が親信殿たちと出会った頃は、だ。己でもふわふわとして駄目な男だということくらいはわかっておったのだよ」

「そのようにはお見受けできませんでしたので、初耳です」

「そうか。まあ、そのような男からすると、嫁をもらうなどとは考えるのも嫌でな、少なくともあと七、八年は勝手気ままに過ごしたいと思っておった」


 それならば見たままだった。


「七年も八年も待たせておいて許してくれる女子などおらぬよ。いいと申してくれたところで、俺が嫌だ。待たれたくない」

「とんだわがままで」

「うむ。そんな時に出会ったのが加乃殿だ。なんともよくできた愛らしい子ではないか。この子はきっと十年もすれば目を見張るような女子おなごになるだろう。そこで閃いたのだ。女子を待たせるのが嫌ならば、俺が待てばよいのではないかと」


 返す言葉が見つからなかった――。

 親信が黙っていても、幸之進はにこにこと上機嫌で続ける。


「俺の母上は亡くなるまで、滔々と俺に女心を解いて聞かせたものだ。女子は殿方を受け入れるまでに覚悟がいるから、性急に気持ちを押しつけるような真似はするなと。そこでだ、十年かければ覚悟もつこう。俺と加乃殿は双方にとってよい組み合わせではないかと思うのだが」


 女は大人びていて、男は子供心を残している。これくらいが丁度いいと言うのか。


「ちなみにうちの父上たぬきならば俺が選んだ嫁に文句はつけまい」

「どうしてそう言いきれるのです?」


 武家にとって婚姻の繋がりは強い。当人同士よりも家と家とを結ぶために祝言を挙げると言っても過言ではない。さすがに能登守もこれには口を出すのではないのか。

 しかし、幸之進は堂々と言う。


「父上が最も恐れるのは、俺が家督を継がぬと言い出すことだ。家さえ継いでもらえるのなら、後は好きにしろと考えておる」

「――――」


 幸之進ならば、どんな家だろうと容易く放り出す気がするのだろう。嫁で幸之進の気が引けるのなら、反対するつもりはないらしい。

 何やら能登守がほんの少し気の毒になった。

 それでも、当の本人は飄々としている。


「まあ、加乃殿が何よりも大事に思うのは家族だ。俺はとてもそこに割って入れはせぬ。この先は加乃殿次第だな」


 とても。

 とてもとてもいい加減な男だが、女子にはまことで尽くす。


 この顔があればいくらでも遊べただろうに、女子を壊れ物のように大事に扱う。それはどこにも嫁がずに子を産み、亡くなった母親のことがあるからなのだろう。


 何も気にしていないふうでいて、幸之進なりに女子を愛しむことに関しては考えすぎるほどに考えているらしい。だからこそ、加乃を尊重し、無理強いはしないと言う。


「あの子は賢い娘です。あえて不幸になる道は選ばぬことでしょう」


 幸之進から、うぐぐ、という呻き声が聞こえた。

 この時、親信は目の前の幸之進ではなく別のことを考えていた。

 そう、早い方がいい――。

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