第70話

 親太郎はもうそこまで小さくもないのに、相変わらず膝に載せたがる。寒いから湯たんぽ代わりにしたいのかもしれないが。

 親太郎の前髪を、幸之進は猫の子を撫でるようにして撫でていた。


「苦手な剣術の稽古に励む姿勢は立派だ。けれどな、それはいかに剣術の腕を上げようとも解決できぬことやもしれぬぞ」


 幸之進の良く通る声が聞こえて、親信は足を止めた。小次郎も一緒になって松の木陰に隠れる。


「どういうことでしょうか?」


 親太郎は幸之進の顔を見上げていて、こちらからはどんな表情をしているのか見えなかった。その代わりに幸之進の美貌が柔らかく綻ぶのが見えた。


「その御仁は、縁切りした娘に忘れ形見がいると聞かされたのだろう? 会ってみて、おぬしにはその血を思わせる面影があったとする。それを目の当たりにし、ここ十年で鬱積していたものが抑えきれなくなったのではなかろうか」


 親太郎の優しい面立ちは母親似だ。だから、幸之進の言う通りだと親信も思う。


「――はい。愚かな二親から生まれた軟弱な子だと言われました」


 幼い子供の声で口にするには残酷すぎる言葉だった。

 いくら親を許せないからといって子供に投げつけていいとは思わない。

 詫びる気持ちもあれど、勘右衛門に対する怒りもまた親信の中に湧いてくる。


「私が弱いせいで父上が莫迦ばかにされてしまいました。父上は強くて立派な武士なのに。だからっ、私も強くならないとっ」


 言葉尻が強くなるのは、涙を堪えているからだろう。

 そんなことは気にしなくていい。

 親太郎には親のためではなく、己のために強くなってほしかったのだから。


 こんな子供の気持ちも察してやれない男が立派な父親だとは思っていない。だから、親信は愚かだと謗られてもいいのだ。それでも、親太郎の心中を思うと胸が詰まった。

 語る幸之進の声が心地よく耳に届く。


「名のある道場を構える御仁なのだ。生まれてきた子であるおぬしにはなんの罪科つみとがもないことくらいは承知しておるよ。それが、そのような暴言をぶつけてしまうほどには悲しかったのだろうな」

「母上が亡くなったことがでしょうか?」


 娘が死んだことを知らされず、忘れ形見の子がいると聞いて喜べとは身勝手でないと言えるのか。


 親信は己の身に置き換えて考えることができなかった。それはあまりに恐ろしいことだから――。

 松の木に添えた手が震えた。


「まあな、会えなくなって、親である己よりも先に逝ったと聞かされて平気なはずはなかろう。親信殿との仲を許し、二人を手元に置いていたならどうだっただろうと一度も考えなかったとは思えぬ。親太郎、おぬしは道場の跡取りとして生まれ、大層大事にされていたはずだ」


 そんなふうにはならなかった。だから悲しい。

 親太郎は途端に項垂れた。


「でも、私は父上とは違って剣術の才はありません。きっとがっかりされました」

「がっかりしても、それでも、孫は可愛かろう。生まれて喜び、熱を出したと騒ぎ、喋った、歩いたとはしゃいでいたやもしれぬ。やれ食い初めだ、端午の節句だと、そのつど祝ってやりたかったことだろう。それができなかったのは、果たして誰のせいなのかと」


 誰のせいなのだ。誰が悪いのだ。

 誰もが己の願いを貫いた。誰も折れなかった。譲らなかった。

 すべての人の想いが報われることはない。


「その御仁はな、おぬしを責めておるわけではない」


 幸之進は親太郎を撫でながらそう言った。


「気持ちのやり場がないのだ。せめて親信殿のせいにするしかないが、親信殿がどのような男かも十分知っておるはずだ。娘に相応しくないなどと本気で言いたかったわけではあるまい」


 そうだろうか。

 目をかけてもらっていたのは本当だ。だからこそ裏切ったと思われたのではないのか。


「さあ、親太郎、この厄介な御仁に向き合うために必要なのは剣術の腕か? おぬしが並の子供よりも筋がよければその御仁は納得し、丸く収まると思うか?」

「それは――」


 親太郎が言葉に詰まる。当然だ。

 親信がずっと抱えていて解決を見ない悩み事である。それを親太郎が背負いこむことはない。


 お前は何も気にしなくていいと言ってやらねば。

 これは親信が背負うことだから、子にまで背負わせたくない。

 それなのに、幸之進は言うのだ。


「おぬしは誇るべき二親から生まれた男だ。その値打ちは剣術の腕ではない。ふところだ。二親は仲睦まじく暮らし、二人の子を立派に育てたとおぬしが示してやればいい。ひどい言葉を投げつけた爺様を許してやれ。子供おぬしに放った言葉はすべて己に跳ね返り、きっと今も苦しんでおることだろう。――親太郎、おぬしならばできるな?」


 許してやれと。


 難しいことを言って困らせるなと我が子を案じた。

 けれど、そんな親心に反し、親太郎は清々しいほどの調子でこの言葉に答えた。


「はい。幸之進様がそう見込んでくださるのなら、私は相応しい男になります」

「よい返事だ」


 親太郎の決意を受け止め、幸之進は目を細めて微笑んでいる。

 幸之進は何故こんなことを言ったのだろう。


 許せとは無茶だ。そのくせ、その無茶は親太郎の心を軽くした。

 親太郎が今後、勘右衛門に怯えることなく、厭うことなく、気持ちの上で受け入れていけるのだとしたら、この幸之進の言葉があってこそだ。

 幸之進は見知らぬ老人のためにこれを言ったのではない。親太郎の心を守るために言ったのだ。


 ――いつもはちゃめちゃなことばかりして、意味が分からなくて、人を困らせて楽しんでいるような男なのに、どういうわけだか本当に困った時だけは道筋を整える手助けをしてくれる。

 本当に、妙な男だ。

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