第69話

 親信が口うるさいことを言わずとも、親太郎は毎日素振りを二百回行っているらしい。

 箸を握る手がぶるぶると震えているからわかる。急に増やしたことで腕がついてこないのだ。本来なら徐々に慣らしていくべきなのに。

 それでも、続けていけばそのうちに慣れるだろう。


 正直に言うと、もっと早く根を上げるだろうと見ていた。それがこんなにも懸命に打ち込んでいる。親信は嬉しかったし感心した。親太郎は親信が心配する必要もないくらい立派な、一廉ひとかどの男に育ってくれるに違いない。


 ほくほくとあたたかな心地で寝入った。

 ――しかし、夜半になって。


 呻き声が聞こえるのだ。隣の布団から。加乃は別室だから、親太郎しかいない。

 親信はハッと目覚め、暗がりの中で親太郎を探り当てた。


「どうした、熱でもあるのか?」


 手探りで額に触れようとした時、親太郎の顔が濡れていることに気づいた。

 うなされながら泣いていたらしい。恐ろしい夢でも見たのだろうか。


「寝ぼけました。起こしてしまい申し訳ありません」


 か細い声で言うと、親太郎は縮こまり、己の殻に閉じこもるようにして親信に背を向けた。

 心が痛い。


 口に出したことは守れと言ったのは親信だが、うなされるほど剣術の稽古が嫌ならそう言えばいい。

 子供が本音を口にできないほど、親信はわからず屋の頑固親父なのだろうか。



 朝になって、目の下に隈を作った親信が挨拶をすれば、幸之進は怪訝そうな顔をした。


「親信殿はなんでも顔に出るのぅ」

「そのようなつもりは――」

「そんな顔になる理由は、加乃殿か親太郎か、どちらかしかない。どちらだ?」

「し、親太郎で」

「ふむ。して、どういった事情だ?」


 幸之進に言いたくはないけれど、幸之進は容易く信太郎の殻を壊して入り込むことができるのだ。頼りたくないが、このままでは親太郎がどうにかなってしまいそうで親信も恐ろしかった。

 切れ切れに事情を話すと、幸之進はうなずいた。


「言いたくないとする相手から事情を聞き出すのは難しい。しかし、関係のない俺にならば話してもよいと思ってくれるやもしれんしな」


 己の子だというのに、不甲斐ない。世の父親は皆、どうしているのだろう。こんなふうに悩んだりはしていないのだろうか。親信だけが特別に不器用なのだろうか。

 いっそ、能登守ほどにおおらかに、何事にも動じない人物になりたかった。


「その図体で萎れていてはみっともない。親太郎に恥ずかしくない父上でいたいのではないのか?」


 幸之進が呆れた顔をして、心を抉ることを言ってきた。

 落ち込み過ぎて畳に沈みそうになっている親信に、幸之進はふと春風のような笑みを見せた。


「案ずるな。うちの狸よりはずっとましだ」


 慰めのつもりなのだろうか。

 嬉しいとは言えなかった。



     ❖



 あれから、小次郎とも落ち着いて話すことがなかった。

 なんとなく気まずく思ったのは同じだったのか、向こうも近づいてこなかった。


 しかし、ばったり廊下で鉢合わせしたのだ。背を向けるわけにも行かず、そのまま歩みを進める。すると、小次郎の方がとても小さな声で言ったのだ。


「向井、とにかく俺が悪かった。俺が余計なことをしたばかりに――」

「小次郎?」


 よく見れば、小次郎も顔色が優れなかった。

 親信は落ち着かない気分になる。


「ここで話し込むのはいかん。外へ出よう」

「あ、ああ」



 小次郎と連れ立って庭を歩く。肌寒さから冬が近いことを感じさせた。この庭も、今に雪負けしないようにこもに囲まれていくのだろう。


「あの日、親太郎が泣いていたのは、ひどい言葉をぶつけられたせいだ」

「相手は子供か?」


 そこで小次郎は苦しげにかぶりを振った。


「違う。――遠野とおの先生だ」


 飛び出したその名に親信が愕然としたからか、小次郎は余計に苦しそうだった。


 遠野勘右衛門かんえもん。本所で剣術道場を構える親信の師であり、沙綾の実父だ。

 つまり、親太郎にとっては祖父に当たる。


 親信と沙綾の仲を許してもらえず、二度と敷居を跨ぐなと言って追い出されたきり。孫が生まれたことも知らせていない。


「あれから十年も経つ。俺は時折顔を出しておるが、先生もお年を召された。寂しげに見受けられる時もあり、どうにかせいに喜びを見出して頂けたらと――つい、おぬしが召し抱えられたこと、子がいることを話してしまった」


 そして、沙綾がすでにこの世にないことも話したのだろう。

 あの気質なら、沙綾が死んだとしても許すはずがない。愚かなことをしたと言い捨てるだけかもしれない。

 親信はどんなに責められても仕方がなかった。


「それで先生は親太郎になんと?」


 声が硬くなる。

 親太郎は詳しいことを知らないのだ。急に出てきた祖父に怒鳴られ、さぞ驚いたことだろう。


「――愚かな二親から生まれた軟弱な子だと、孫だなどと認めるものかと」


 そんなことを言いにわざわざ出向いたのか。

 愚かなのは親信だけだ。沙綾も親太郎も罵られるところは何もない。


 未だにそこまで怒りが深いらしい。

 それを改めて知って、親信の苦悩はさらに深くなっただけだった。


「だから親太郎は急に剣術に励み出したのだな」


 うなされていたのは、その時の勘右衛門の様子が夢に見るほど恐ろしかったのだろう。

 親信に話せなかったのは、幼いながらにとても父親に聞かせられることではないと思ったのだ。父を思い遣って小さな体で耐えてくれた。

 その上、軟弱だと言われた己を鍛えようとした。


「親太郎は立派だった。先生の前では泣かなかった。あの子には本当に悪いことをしてしまった」


 小次郎まで萎れた。幸之進が見たら、大の男が二人して鬱陶しいとでも言うだろうか。


「いや、一番悪いのは私だ。私が先生のお怒りを受け止めなかったから、親太郎を傷つけてしまった」


 敷居を跨ぐな。顔を見せるな。

 若かった親信はその言葉を真に受けた。二度と道場のある本所へは足を踏み入れなかった。


 しかし、それではいけなかったのだ。

 怒りが解けるまで通いつめ、受け止めればよかったのだ。沙綾も口には出さなかったが、ずっと気にしていたのを知っている。沙綾が生きているうちに和解できるようにすればよかったと今さら悔いても仕方がなかった。


 小次郎は親信よりもずっと、師である勘右衛門に恩を感じて気にかけていたのだ。悪いはずがない。

 とにかく、今は親太郎に謝りたい一心だった。素振りは百回でいいと言いたい。


 項垂れてとぼとぼと歩く男が二人。

 そんな庭先。


 ふと、縁側で膝に親太郎を載せた幸之進がいた。

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