第68話
「向井殿、丁度よいところに」
その朝、親信が表御門の内側を歩いていると、女人に呼び止められた。
あっ、と思わず声を上げてしまったのは、久しぶりだったからだ。
「これは、
名の通り、絹のように滑らかな肌をした美しい女人だと、朴念仁の親信ですら思う。姿勢もよく、立ち姿が一枚の絵のようだ。決して着飾っているというわけではないのだが、慎ましさから零れ落ちるような色香がある。
この女人は、
朝霧の家で育った幸之進にとって、姉と呼べる相手だ。
嫁いでからはそうそう会うこともなかったらしいが、相川家もこの
それがこのところとんと姿を見せぬようになったと思ったら、母親になっていたらしい。
「ええ、赤ん坊は女中に任せて少し出て参りました。先月、加乃さんが来て赤ん坊をあやしてくれたのですが、とても手慣れていて感心してしまいました」
口元に手を当て、絹代はころころと笑い声を立てた。
絹代の腹が膨らんでいることにすら気づかなかった親信だから、赤ん坊のことは加乃から聞いたのだった。
「父親が不甲斐ないばかりに、しっかり者の娘に育ったようで」
謙遜でもなく本音である。
本当に加乃はしっかり者だから。
「加乃さんはよき妻、よき母になることでしょう。先が楽しみですね」
「そ、そう、ですな」
親信がどもる理由を、この賢い
「加乃さんは長屋の方に? 美味しいお菓子が手に入ったので、この間の礼も交えながらお話したいと思いまして。構いませんか?」
「加乃も喜びます。どうぞごゆるりと。ああ、若には――」
「またそのうちでよいのです」
そのうちでよいらしい。
幸之進はこの従姉が来れば歓待するのだが、絹代にとってみれば、今となっては立場の違う従弟だからと一歩引いていたいようだ。
どこか幸之進にも通ずる面立ちであるから、きっと幸之進の母はこうした人で、幸之進は母の面影をこの従姉に見ているのかもしれない。
その日の晩、加乃は親信にも絹代が持参した上生菓子を出してくれた。見た目は花をかたどっていたが、白餡の塊のような味だった。多分、親信の舌がよくないのだ。上品な菓子なのだと思う。しかし、甘い。
「父上、お茶のおかわりをお淹れしましょうか?」
湯呑に茶がなくなっているのを察した加乃はにこりと微笑んでいた。
「ああ、頼む」
「はい」
にこにこしている。絹代とは話が弾んだのだろうか。思えば男ばかりの中にいるから、絹代に色々と相談できて嬉しかったのかもしれない。
親信はそっと絹代に感謝した。
しかし――。
翌日、顔を合わせた幸之進に言われたのだ。
「親信殿、加乃殿の様子がおかしいとは思わぬか?」
「は?」
どこがおかしいというのだろう。加乃がおかしいというのなら、幸之進など常におかしいではないか。
親信が黙ると、幸之進は眉根を寄せた。
「ここ最近、何か変わったことはなかったか?」
「絹代殿が菓子を持ってきてくれて機嫌がよかったくらいですが」
「姉上が? 俺にはなんの挨拶もなく帰られるとはなんと冷たい」
いちいち面倒くさかったので、親信はため息交じりに言ってやった。
「特別変ったこともなく、いつも通りにこやかでした。様子がおかしかったと申されるのなら、若がまた加乃を困らせるようなことを口走られたのでは?」
じっとりとした目を向けるが、幸之進は心当たりがないらしい。認めたくないだけかもしれないが。
「俺ではないと思うがな。大体、加乃殿は悲しくとも笑うからな。笑っているから平気だとは限らんのだ」
ふざけてはいない。真面目な顔をして言われた。
そう、加乃は周囲に心配をかけないために笑ってごまかすような心優しい娘だ。年を重ねるにつれ、その笑顔には綻びがなく、気遣いから来る嘘が上手になりすぎている。
親信までそれに気づけなくなってしまったのだろうか。
そう認めるよりは幸之進の勘違いであってほしかった。
誰かに心ないことを言われたのかもしれない。
親信が正面から問い質しても、多分答えは得られない。加乃は心の奥底に沈め、耐えてしまう。
――さて、どうするべきなのだろう。
親信がもやもやと考えながら歩いていると、松のそばで泣いている親太郎とそれを宥めている小次郎がいた。
加乃はともかく、親太郎は男児だ。容易く泣いてばかりではいけない。それこそ、加乃を守れる男になってほしいというのに。
親信はため息をつくと、親太郎たちのそばへ近づいた。
「親太郎」
呼びかけると、親太郎は飛びあがりそうなほど驚いて顔を上げた。
寝小便をして泣いていた頃とそんなに変わっていないような気がした。己が子供の頃もこんなものだっただろうか。もう少ししゃんとしていたと思っているが。
「どうした? 何故泣いている?」
頭ごなしに叱るわけではない。とりあえず泣いている理由くらいは聞こうと思った。
しかし、親太郎は何も答えなかった。ただ黙っている。小次郎の方が慌てて取りなしにかかった。
「向井、これには深いわけがあってな。親太郎は何も悪くないのだ」
「それなら仔細を聞こう。自分の口で話してみろ」
少なくとも、小次郎は事情を知っているのだ。それは親太郎が話したからだ。小次郎には話せるのに父親には話せないという道理があるのか。
それでも、親太郎は黙っている。しゃくり上げながら、涙を拳で拭い取る。
小さいと言いながらももう七つだ。なんだってわかっている。下手に甘やかすだけではいけない。子供扱いするのが優しさではないと思う。
親太郎は、頑なに答えようとしなかった。
ただ、涙を止めてうつむきながらつぶやく。
「今日から、素振りは、二百回、します」
それだけを言った。
誰かに負けて
身を入れて鍛錬するきっかけとなったなら、かえってよかったのかもしれない。
「そうか。口にした以上は守るのだぞ」
「はい」
この時、そんな親子のやり取りを聞いていた小次郎は、苦しげな目をしていた。泣く子を憐れに思うのだろう。約束したのか、小次郎も詳細を話してくれるつもりはないのかもしれない。
子育てには厳しさも必要なのだ。決して好き好んで厳しいことを言いたいわけではない。
そして、加乃はまた笑顔でいた。
この笑顔の意味が親信には読めない。
加乃は笑顔で拒んでいるのかもしれない。己で解決できるから、余計なことは訊いてくれるなと。
その笑顔が見事すぎて、幸之進の勘違いであったと思いたくなった。
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