第67話

 大体において、親信がいてくれて助かると頼ってくれるのは、寝起きの悪い幸之進を起こさねばならない女中たちであった。


 大目付ほどの職ともなれば話は別だが、幸之進は交代制の三日勤めである。

 一日行って二日休む。なんとも羨ましい身分だ。


 しかし、三日に一度でいいというのに起きない。どうしても勤めのある朝には起きてもらわねば困る。それが起きないのだ、この男は。


 どんなに踏みつけてやりたくとも、実際にやる者は皆無だった。しかしながらに、やんわり優しく声をかけてやったくらいで起きる男ではない。


「いい加減に起きんかっ」


 幸之進は親信の怒号で目覚めることに慣れ過ぎていて――。


「ああ、もう朝か」


 と、あくび交じりに目を覚ますのである。

 他にも悪ふざけが過ぎる若君に一喝できる人材がおらず、大抵が親信を呼びにやってきてしまう。


「た、大変ですっ。若様が猫が寒そうにしているからと仰って座敷に入れ始められたのですが、もうすでに十五匹ほどに――」


 大体がため息を誘うようなことばかりである。

 ちなみにこの騒動は、障子という障子が猫によって破られ、結局家にいても隙間風が入って寒そうだなということで終わった。

 こんなことになっても、能登守は笑っているだけである。何が可笑しい。


 奥方はというと、以前は亡き者にしようとしたほど気に食わなかった幸之進と暮らすようになっても、やはりぎこちなさは拭えない。当然だろう。


 亡き息子を弔いながら慎ましく奥で暮らしている――のだが、幸之進は家に連れ込んだ猫たちのうち一匹を、これだけは小さすぎるから匿ってくれと言って継母に押しつけた。

 猫は悪さをするからと困惑していた奥方だったが、つい先日、いつも凛とした奥方が、それこそ猫なで声で猫を呼んでいるのが御台所棟より聞こえてしまい――親信は聞かなかったことにした。忘れよう。


 本来ならば親信は賜った『中小姓』という役どころによって、主人である能登守のために働くべきところなのだ。しかし、この父親、こちらはいいから息子の世話を頼むと言い、親信はほとんど能登守のそばにはべっていない。

 どうしてこの莫迦ばか息子に酌をしているのやらと思うことしばしば。

 ――と、親信はくだらない、騒がしい毎日を過ごしている。


 愚痴の相手はもっぱら、友である上田うえだ小次郎こじろうだ。

 小次郎はもともと幸之進の異母弟の剣術指南役であった。その異母弟が夭折し、小次郎は居場所を失うところだったのだが、幸之進が引き留めた。それなら幸之進の稽古をつけるべきなのだろうが、幸之進は剣術などしたくないと言って素振りすらしないのだ。


 仕方ないので、小次郎は下中長屋に住む中間の息子たちの稽古をつけている。親太郎も時折見てもらうのだ。

 酒の飲めない親信は白湯でお手軽に出来上がって管を巻き、それを小次郎がうんうん、と聞いてくれる。ありがたい男である。



 親信が一家で借り受けている長屋に戻ると、加乃が食事の支度を整えてくれていた。

 五つ、六つの頃には多少の料理ができるようになっていた。今となっては大人と変わりなく美味い飯をこしらえてくれる。嬉しい半面、家事よって子供らしく遊ぶ時を奪ってしまったことが心苦しくもある。


「おかえりなさいませ、父上。今日もお勤めご苦労様でございます」


 三つ指を突いて、深々と頭を下げてくれる。近頃は髷を桃割れに結い始めた。そのせいかぐっと大人びたように思える。

 親太郎も加乃に倣って頭を下げる。二人がこうして迎えてくれるのは、今も昔も変わらない。


 浅草安倍川町のきなこ長屋よりもこの長屋は広かった。土間とは別に二間あって襖で仕切られているし、畳もそろっていれば押し入れだってある。武士と町人の明確な暮らしの差が見える。

 ただし、きなこ長屋にいた時と家族そのものは変わっていないつもりだった。


「うむ。いつもすまぬな」

「いいえ、親太郎も手伝ってくれましたから」

「そうか」


 姉弟仲睦まじいのは嬉しい。ただ、親太郎は男児だ。台所仕事を手伝って満足していてはいけないとも思う。

 そんな気持ちが顔に出ているのか、親太郎は顔を上げても親信の方を見なかった。視線がさまよう。

 顔立ちはそれほど変わったようには思わないが、芥子けし坊主だった髪が豊かになって髷を結えるようになった。今に親信の背を抜く日が来るのだろう。


寛太かんたさんから文が届いておりました。あとでお出ししますね」

「ああ、寛太からか。息災ならよいが」


 親信の手習弟子であった寛太は今、医者の藤庵とうあんのもとで学んでいる。藤庵は顔こそ厳ついが、心優しい。素直な寛太は藤庵を尊敬してやまず、いつか藤庵のような医者になりたいのだそうだ。寛太は今となっても親信に文で近況を知らせてくれる律義さがある。


 他にも何人かが文をくれる。散々手を焼いたはずの貞市さだいちが一番多いかもしれない。貞市は跡取り修行の真っ最中だ。もっと真面目に先生の話を聞いて手習いに励んでおけばよかったとぼやいているが、なんとか家人や奉公人たちとは上手くやっているらしい。


 親信はいい師匠ではなかったし、向いていなかったと己でも思っている。それでも、こうして便りをくれるかつての手習弟子たちのことは愛しく、皆の行く末を案じていた。


「では、夕餉を頂こう」

「はい」


 加乃は手際よく膳を整えていく。それを待つ間に親信はなるべくそっと親太郎に声をかけた。


「親太郎、今日は素振りを如何程行ったのだ?」


 親太郎はしょんぼりとした。


「三十回、です」


 ここで嘘をついて回数をごまかさないだけいいと言うべきだろうか。


「それをあと百回増やすようにしなさい」


 丈夫な子になってほしい。からかわれたり、殴られたり、悲しい思いばかりをするのはつらいから。

 他の子供たちに負けない強い子になってほしい。そんな親心は伝わらない。

 親太郎は唇を尖らせた。


「――幸之進様も剣術やっとうはさっぱりだと仰います」

「若はご自身が剣を抜かずとも、身を守る臣がおる。同列に考えるな」


 そもそも、あれを見習うな。あんなふうにだけはなってくれるな。

 しかし、親太郎はいつでも幸之進のことを慕ってやまないのである。


「わかりました。明日からもっと増やします」


 口では言うけれど、多分、三十一回だろうな、と親信は思った。乗り気でない子供を親が望むように仕向けるのは無理なことなのだろうか。

 なんとも言えない気まずい雰囲気の中、加乃が取りなすように間に入る。


「さ、支度ができました。この芋の煮ころばしは我ながら上手に仕上がったと思います」


 箸をつけると、確かに美味かった。塩気と甘さが絶妙で、ほっくりとした芋に味がよく絡んでいる。


「ああ、美味いな」


 親信が褒めると、加乃は嬉しそうに顔を綻ばせた。


「よかった。幸之進様も美味しいと褒めてくださったので、上手くできたと――」


 そこで加乃は黙った。親信も黙った。

 いつの間に家に上がり込んで煮物の味見をしていったのだ、あの男は。


 箸を落としそうになるのを堪えると、力を込めすぎてへし折りそうになった。顔が引きつるのを元に戻そうとしたら、多分とんでもなく怖い顔に見えたことだろう。子供たちが気まずそうだった。

 ここへ住まいを移して、本当に子供たちのためになったのだろうか。


 あの時、断固として断り、浅草に留まっていた方がよかったのではないかとふと考えずにはいられない。親信は沙綾の位牌に手を合わせ、心で泣き言を繰り返した。

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