第72話
「若、一日でよいのです。お暇をください」
「うん? 浅草にでも行くか?」
きなこ長屋や王泉寺に行くつもりなら一緒に行くと言いたいのだろう。
しかし、親信が行きたいのはそちらではない。
「いえ、本所まで」
「おや、親信殿は本所には行けぬと申しておったではないか」
「行けぬと思い込んでおりました」
「なるほどな。では明日にするがよい」
「ありがとうございます」
どこへ行くのかいちいち言いたくはないが、左雨家に召し抱えられた以上は無断で出かけられないのだ。
親信は十年ぶりに勘右衛門に会うつもりをしている。
小次郎にはまだ何も言っていなかった。言えばついていくと申し出るだろうから、言わない。取りなしてくれる小次郎がいないと顔も出せないとは思われたくないのだ。
正直に言うなら、勘右衛門は実父以上に気の張る相手だ。そばにいると息もできないような気分になる。厳しい中にも筋の通った人物ではあるのだが、今となっては何も褒めてはもらえないのだから。
ずっと、親信の中で高い壁として君臨してきた。乗り越える気すら起こらなかった。
ようやく今、壁の前に立つことから始める。随分とゆっくりかもしれない。だとしても、大きな進歩だと思いたい。
❖
明日――。
暇をくれとは言ったが、ついてきてくれとは言っていない。
それなのに、幸之進は駕籠に乗って手招きしている。
「ほれ、何をしておる? 本所へ行くのだろう?」
「――歩いて行きます」
露骨に嫌な顔をしてやった。しかし、そんなものが通用しないことくらい知っている。
「善は急げと申す。それにな、駕籠ならば親信殿が怖気づいても引き返せぬだろう?」
「そのような心配はご無用に願います」
「親信殿が歩こうと駕籠に乗ろうと、俺が後をつけるのは同じなのだ。押し問答をしておっては日が暮れるだけだろうに」
来るなと言っても聞きやしない。
親信は拳を握り締めて、地獄の底から響くような声を発する。
「ついて来られるのは若の勝手ですが、手出しは無用に願います」
すると幸之進は、にこにこ笑ってうなずいた。
「もちろんだ。そんなおっかない爺様は俺の最も苦手とするところだからな」
じゃあ来るなと言いたいが。幸之進なりに親信のことを心配してくれているのだろうか。
「では、お願い致します」
「うむ」
左雨家の駕籠で乗りつけたら心証は最悪だ。だから、三町手前で降ろしてくれと頼んだ。
駕籠に揺られつつ、親信はまぶたを閉じて精一杯気持ちを落ち着かせた。
駕籠ならば怖気づいて逃げることもできないと言った幸之進の言葉がそれほど的外れでもないような気がしてくる。
もう十分、背を向け続けたのだ。子供たちを傷つけぬよう、ここが己の踏ん張りどころだと親信は自身に強く言い聞かせた。
見知った土地であっても、十年もするとそこは異国のようだ。
どこにも見覚えがないような気がしてしまう。駕籠を降りて歩きながら、親信は幸之進がついてこないかと何度も振り返った。幸之進は駕籠の中から手を振り、ここにいるということを示している。
空は青い。けれど、親信の目には暗く感じられた。
変ってしまった町で、それでも古めかしい木戸が見えた途端に息が浅く、早くなる。黒ずんだ板は昔からこうだったかもしれない。冠木門の前で親信は足を止め、爪先をしっかりと向けて何度も深く息を吸い直した。
そうしたら、己が二十歳そこそこの若造に戻ったような気分だった。この汚れた木戸を沙綾とこっそり抜け出し、僅かながらでも共に時を過ごした。
――これでよかったはずなのだ。二人で過ごした時を悔いてなどいない。
腹の底から、師に対する十年の鬱屈した思いを吐き出すようにして声を張り上げる。
「もうし、それがしは向井親信と申す。遠野勘右衛門殿にお取次ぎ願いたい」
足を踏み入れず、外から呼びかけた。さすがに許しもなく図々しく踏み入るつもりはない。
門の向こう側でざわめいている音が聞こえた。廊下を踏み抜くような足音がする。門弟の誰か、今でも親信の顔を見知っている誰かが来るかと思った。そうしたら、まさかの当人が堂々と一人で姿を現したのだった。
それは巌流島の果し合いに似たもののような気がしてきた。勘右衛門が押っ取り刀で出てきたのだ。
二人の間を秋風が駆け抜ける。血が凍るような心境だった。
「どの面下げて来よった、この――っ」
小次郎は、勘右衛門が老いたと言ったが、それでも目だけはつがえられた矢尻のように不穏な輝きを保っている。肉が削げた皮ばかりの手は刀の柄にあった。
穏便に済ませたい親信は、その間合いを侵さない。その場で、声が震えてしまわないように地を踏み締める足に力を込めた。
「この十年、顔を見せるなと申されました通り、本所へは足を向けませんでした。しかし、額面通り受け取るべきではなかったのだと気づくのに今までかかってしまいました。無沙汰をお詫び申し上げます」
頭を下げたかったのだが、目を逸らしたら首を落とされそうな殺気を感じたのでやめた。
勘右衛門はひどい憎しみを全身からみなぎらせている。
「あれか。おぬしの息子に儂が言うたことに恨み言を申しに参ったか」
ひどいことを言ったという自覚はあるらしい。
詫びる気はないのだとしても。
「息子はあなたにお会いしたことを私に話してくれませんでしたので、私は小次郎から聞いた次第です。息子は自分なりの答えを得た様子なので、私から申すことはありません」
夢でうなされるほどあなたに怯えていたと、それを言いに来たわけではない。
「ではなんだ? 沙綾を死なせたと詫びに来たか?」
それに関しては詫びなくてはならないのかもしれない。詫びてどうにかなることではないけれど。
「沙綾のことに関しては、なんの申し開きもございません」
もっと激昂するかと思えば、勘右衛門は冷めていた。
「ふん、縁はすでに切ったのだ。あんなものは儂の娘でもなんでもない。わかったなら、帰れ」
にべもなく吐き捨てられた。
この人の心は硬く、岩のようだ。改めてそれを思った。
けれど。
幸之進が語ったような柔らかい部分もまだどこかに残している。
親信はそれを信じてみたかった。
「私にも娘ができました。まだ幼い娘ですが――」
ぽつり、と切り出す。
「その娘が己のもとから去り、気に入らぬ男と所帯を持ち、挙句に死んでしまったと考えるだけでこの世のすべてを恨みたくなります。私には勿体ない、よくできた娘なのです」
何が言いたいのだとばかりに勘右衛門は顔をしかめた。親信は、頭ひとつ高い上背で勘右衛門を見下ろしながら力を込めて言う。
「私があなたに与えた失望は並々ならぬものだということも承知で言わせて頂きます。私共があなたの許しを得られず、なんの気がかりでもなかったとはお思いにならないで頂きたい。沙綾はいつでもあなたを想っていた。いつかはわかってほしいと願ってやまなかった。七夕にはいつも、子供たちに混ざってあなたの息災を願う短冊を吊るしていました」
「言いたいことはそれだけか? そんなものはいくらでもでっち上げられるだろう」
ふん、と鼻を鳴らすが、勘右衛門が動揺したのもわかる。
勘右衛門は何も知らないから、勝手に決めつけ、勝手に怒り、憎んだ。だから、親信はちゃんと真心をもって伝えなくてはならなかったのだ。
あなたのことをどうでもいいと考えていたわけではないと。自分たちも苦しかったのだと。
「でっち上げですか。私がそんなに気の利いた男でないことくらい、あなたは承知されていると思いますが」
自分で言うのもなんだが、その通りなのだから仕方がない。
ぐぅ、と勘右衛門は小さく呻いた。この発言に説得力があったというのか。
――まあいい。今は思いの丈をぶちまけるのみだ。
「今の私は、好いた女と添い遂げたい男の気持ちと、娘を持つ男親の気持ちと、両方を知っています。だから、とても嫌なことではあるのですが――もし娘が厄介な男に惚れてその妻になりたいと申した時には娘の望み通りにすることに致します。沙綾のような思いはさせたくない――ええ、もちろん嫌です。平凡な相手と平凡な仕合せを築いてほしいと切に願っています。けれど、私の娘の加乃は愚かではありません。己を大事にしてくれない相手など選ぶはずがないのです。娘が見極めた相手ならば、私が気に入らずともよいのです」
多分、どうせどこかで聞いている。
我慢が上手で、顔には出さない加乃だ。
近頃は親信でさえその心のうちを察しきれない。
親信が気づかぬ憂いに、幸之進は気づくことができる。加乃が誰にも言えず、うちに秘めてしまう悩みを幸之進は聞き出し、笑いに変える。
それならば、苦労はあっても加乃が不幸になることはないのかもしれない。
ただ――。
「仮にもし泣かせたりしたら、顔が柏餅になるくらいその男を殴るかもしれませんが」
顔が――と、勘右衛門は唸った。
「それから」
親信は息をつき、なんとか笑顔を作るように努めた。
「親太郎も私にとって自慢の息子です。次の端午の節句はぜひ一緒に祝ってやってください。また、来ますから。子供たちを連れて」
「――来るものか」
ぼそ、と勘右衛門がつぶやく。
小次郎が案じた心もとない静けさがそこにあった。
「来ます。もっと早くにくればよかったのに、こんなに遅くなって申し訳ありませんでした」
また、ふん、と言ってそっぽを向いた。この時、手は剣の柄から離れ、懐に収められた。
もし勘右衛門の心が少しでも動いたのならいい。沙綾によい報せを持ち帰ることができるから。
寒さも厳しくなって参りましたので、どうぞご自愛くださいと言って頭を下げた。
十年間懐に入れていた重荷が羽を生やして飛び立った。
今日くらいは成し遂げた己を褒めてやろうか。
角を曲がると、幸之進が立っていた。
若い娘が見たら卒倒しそうな微笑を浮かべているが、生憎と親信は若い娘ではないので仏頂面で返す。
「いくらかは気が楽になりました。ありがとうございます」
「俺は何もしておらぬよ」
「ええ。駕籠を用立てて頂いたのでありがとうございますと」
「そんなに力強く肯定することもなかろうに」
幸之進は怒るでもなく楽しげに腹を押さえて笑っている。
本当はたくさん世話になった。
それくらい知っているし、そういう意味で親信が礼を述べたことも幸之進には伝わっている。それを素直に認めないのは、悔しいからだ。
「聞いていたのでしょう?」
問いかけると、幸之進はにやりと意地悪く笑った。
「さぁな」
絶対に聞いていた。
親信も幸之進に聞かせるつもりで言ったのだ。
いずれ、加乃が望むのならば、親信に止めることはできない。その代わり、必ず大切にしろと念を押す。
幸之進は親信の目を見て、ふと噴き出した。
「か、顔が柏餅――」
「やはり聞いていたではないかっ」
ぷ、ははっははははっ、と、大身旗本の嫡男にはおおよそ相応しくない笑い声を振り撒いて、幸之進は笑い続けた。目立っていけないので、親信は他人のふりをした。
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