第73話
夕餉の後、親信がいつもより長く沙綾の位牌に手を合わせていると、いつの間にか背後に加乃が座っていた。
「うん? 親太郎はどうした?」
「表で素振りをしております」
加乃はにこりと花が綻ぶように笑って答えた。
幸之進は親太郎に剣術の腕だけでは解決できないことがあると言った。
それでも、親太郎なりに思うところもあるらしい。素振りを続けている。
こうして加乃と二人だけで話すのは久々かもしれない。
加乃は笑っているが、この笑顔はどちらだろう。嬉しいのか、寂しいのか。両方――ではないかという気がした。
「父上」
加乃の幼い声に似合わぬ落ち着きに、親信の方が緊張してしまう。組んだ腕に力が入った。
それを加乃も感じただろうか。ふと、首を揺らすような仕草をした。
「わたしがもし、本当に幸之進様と
昨日だったら答えに窮した。けれど、今日の親信は明確な答えを持っている。
だから、この問いかけには冷静に返せた。加乃の目をまっすぐに見て、精一杯の気持ちを伝える。
「加乃がそれを望むのなら、私から言うことはない。――いいや、ひとつだけあるな」
「それはなんでしょう?」
黙りはせず、加乃は気丈に問い返してくる。そうしたところにも成長を感じた。
もっとゆっくりと大人になってくれたらいいと願ってしまうけれど、それは親の勝手だ。子供が大きくなるのは止められない。
ただし、小さくても大きくなっても加乃は加乃だ。
「加乃がどんな立場になろうと、どこへ行こうと、天と地がひっくり返ろうと、加乃は私と沙綾の娘だということに変わりはない。言いたいことはそれだけだ」
本当に、それだけなのだ。
愛しい、大事な我が子だから。その心だけは疑ってくれるなと。
加乃は両手を合わせ、笑顔なのに涙を浮かべていた。この世で一番清らかな涙だ。
「ああ、私が申し上げたかったことと同じです。私は嫁に行こうと、いつまでも父上と母上の子であり続けたいと願っております」
「それでいい。加乃、望むものが手を伸ばすところにあるのなら我慢はしなくていい」
正直に言うと、今でも背中を押したくはないけれど。
とても、嫌だけれど。
それでも親信がこんなことを言ってしまうのは、加乃の本気の笑顔が見たいだけだ。
「はい、ありがとうございます、父上」
三つ指を突いて深々と頭を下げた。顔を上げた加乃はほんのりと頬を染めつつ、言った。
「幸之進様も母上がすでにお二人いらっしゃいます。この際だから、お互い何人になってもいいだろうと笑っておいででした」
それと、とつぶやく。
「もしわたしが幸之進様のところへ嫁いだら、父上や親太郎と離れなくて済むと幸之進様に教えて頂きました」
「あ――」
部屋は違えど、この屋敷にいる。いつでも。
「父上と毎日お会いできます。他所へ嫁いだら、そういうわけには参りませんけれど」
ふふ、と加乃は仕合せそうに笑った。
幸之進はとんでもない切り札を隠し持っていた。加乃が断るわけがない。
親信に、孫の守りもさせてやろうと幸之進が笑っているような気がして、朝になったらあの憎たらしい顔に向かってなんと言ってやろうか、親信は難しい顔をして考え込んだ。
その孫とやらはどうかあの男に似ませんように。
【 番外編❖そして四年 ―了― 】
手負い侍、匿いて候 五十鈴りく @isuzu6
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