第59話

 日頃の行いが悪いから、幸之進は敵だらけなのだ。

 その性根を叩き直さねば長生きもできぬのではないのか。


 親信にしてみても、そんな幸之進に関わってしまったのが運のつきというやつだろう。

 どうにかして加乃だけは救わねば――。


 それでも、幸之進は兼に向けて微笑んでいた。その微笑が通用する相手ではないというのに。

 まるで待っていたかのようにして見上げている。

 幸之進は、兼に向けて声を張り上げた。


「俺の名は、左雨ささめ幸之進。八年間北町奉行を勤めた左雨ささめ能登守のとのかみ武嗣たけつぐが嫡子。まあ、不本意だが。お兼殿、父に恩があるのではなかったかな?」


 ――しばらく、幸之進の言ったことが呑み込めなかった。

 左雨とは変わった苗字だから、他人ということはないだろう。だとするのなら、その能登守は、多分、大身旗本の――大目付である。


 出世街道をひた走り、切れ者と名高い大目付能登守の嫡男がこれかと、親信は愕然とした。

 兼も嫌そうにかぶりを振ったかと思うと、仲間の男たちに二言三言何かを言った。男たちは川原へ降りてくる。まさか、本当に味方をしてくれるつもりなのか。


「お、おぬし、まさかこのためにお兼殿につきまとわれるように仕向けたのか?」


 だとしたら、本当に嫌なやつだ。

 恨みを買ってつけ狙われていると見せかけて、幸之進は兼たちを自分の護衛に使うつもりをしていたのだとしたら。名を名乗りさえすれば助けてもらえると踏んでいたのだとしたら。


 そのためにあの時、ふざけたような口ぶりであれこれと話を振り、兼を利用できそうかどうか探っていた。


「いや、最初はそういうつもりではなかった。話しているうちに、ちょっとした出来心でな」


 などと言って笑う。

 出来心というのか。これを。

 こちらを見下ろす兼の顔の苦々しいこと――。


けるのは、今度だけだって、姐さんが言ってら」

「十分だ。助かる」


 悪にも善にも、当人たちにとって曲げられない義理や信念がある。それに則って動くのが人だ。幸之進が嫌いで、腹立たしいとしても、恩人の子とあっては助けないわけにはいかないらしい。


「よし。親信殿、上田、頼む」


 偉そうに采配だけは振るう幸之進だった。仕方なく、親信はため息をつきつつもこの場を片づけるしかないのであった。この後には親太郎を迎えに行って、加乃と大事な話をしなくてはならないのだから。


「小次郎、二人頼めるな?」

「ああ。あしらう程度になら」


 膝を突かせれば、あとは兼の手下が捕まえてくれるだろう。横目で見遣ると、幸之進は加乃を連れてさっさと土手を上がりにかかった。間違っても戦いに手を貸す気はないらしい。足手まといは下がっておこうという配慮とも言えるのか。

 そういうことにしておこう。


 向こうの侍たちは不利と見ても引けない。

 主の倅がいるのだから、捨ててはいけない。刀を抜いた。


 親信は仕官するために腕を磨いたつもりだった。今となってはそれがよかったのだ。

 目的がなんであれ、剣の腕があればこそ守れるものがある。このために必要だったのだと、少なくとも今は思えた。


 技は形であり、心によって使うもの。

 心を強く、守り抜き、生きることに躊躇いさえ覚えなければ負けることはない。

 正しいと信じたことのために振るう剣なのだから。


 あちらも引けない。こちらも引けない。

 それならば、ぶつかり合うは必至。


 じゃり、と相手の侍の一人が摺り足になった音がした。それを皮切りに、誰よりも先に動いたのが小次郎だった。幾度となく打ち合った相手だから、あの低い剣先を躱すのが容易ではないことを知っている。


 親信もまた動いた。腕の長さ、恵まれた体躯を生かし、相手の上段を斜から薙ぐ。刀を放さなければ、相手の手首が落ちるところだった。手を負傷して刀を取り落とした侍は、すでに戦意を失い、脂汗を滴らせている。その侍を突き飛ばしたのは仲間の一人だ。


「おのれ、素浪人がっ」


 その素浪人に負けたとあっては武士の矜持もあったものではない。恥辱に塗れるより腹を切りたいかもしれないが、今はそれをさせるつもりはない。


 戦いの場で、軽々しく口を開き、相手を罵倒する。

 この時点で剣術では勝てぬのだと認めてしまったようなものなのだ。それに当人は気づいていないらしかった。


 剣を合わせず、間合いを詰める。気迫だけで相手を追い詰めた。打てるものなら打ってみろと。

 その侍は、滝のような汗を流し、剣先を揺らしながら下がる。


 先ほど現れた時はもっと強そうに感じられたが、徐々にゆとりがなくなっていた。親信が大きく踏み込んだだけで、侍は緊張を破られ、川原の砂利につまずいてよろける。こうなっては立て直せない。


 親信はその隙を逃さず、侍の脚を浅く斬った。しばらく、歩くにも無理があるだろう。

 小次郎の方を見遣ると、そちらもすでに片がついていた。楽勝とは言えず、小次郎も肩で息をしていて二の腕に刀傷はあるが、無事だ。


 侍たちが転がると、兼の手下たちがすかさず取り押さえる。さすがというのか、荒事には慣れているらしく、さらしや帯などを使い、器用に縛めていく。武士が荒くれにいいように扱われるなど、本来であればあってはならないのだが、今はそれを言っていられない。


 疲労困憊の親信と小次郎であったが、橋の上から幸之進は無体なことを言った。


「上田、ここに早駕籠を用意した。急ぎ屋敷へ戻って人を呼んで参れ。おぬしの他に顔が利く者がおらぬのでな。急げ」

「か、畏まりました」


 小次郎は腕の血を拭い、土手を上がる。気の毒だが、仕方がない。


「小次郎、また後日酌み交わそう」


 そう声をかけた。

 親信は下戸である。恰好をつけたな、と幸之進には思われたかもしれない。


「ああ、また――」


 答えた小次郎も晴れやかであった。

 だが、よく考えてみれば、幸之進が行けばよかったのではないのか。その方がよっぽど早い。

 この期に及んでまだ帰らないとか言い出すのだろうか。


 親信も血振りをして刀を収めると、疲れを感じながら土手を上がる。上がりきって一度だけ振り返ると、あの若侍は逃げるでもなくうずくまっていた。もう、どうしていいのかわからないらしい。しかし、それではいけないのだ。


 厳しいようだが、窮地に追い込まれた時ほど何ができるのかが問われる。何もできないのなら、何も成せずに死んでいくだけ。それが武士なのだ。

 すっかり暗くなった橋の上には、幸之進と加乃、兼がいて、幸之進だけが笑っていた。


「さて、親信殿、帰ろうか」

「――帰ってもよいのか? この場はどうする?」


 さすがに兼たちに任せておけばいいとは言えなかった。しかし、幸之進はそう言った。


「お兼殿に頼んだ。上田も事情を知っておるのでな、今日のところは任せる。心配せずとも、明日、きちんと事情の説明はするつもりだ」


 親信が兼をちらりと見遣ると、明らかに怒っていた。しかし、無言である。異存はないのだろうか。

 すると、幸之進は何度もうなずいてみせた。


「むろん、ただでこのような厄介事を頼んだわけではない。金子を少々支払ったぞ」

「そんな金がどこにあると――後払いか?」


 父である大目付が支払うと言ったのだろうか。けれど、本当に払ってくれるのか怪しい。

 そう考えたのが伝わったのか、幸之進はあっさりと答える。


「今、すでに支払ったぞ。ほら、俺の刀を質草に作った金子だ」

「し、質に入れたのかっ」


 あの業物を易々と――。

 猫に小判とでもいうのか、執着がまったくもってない。


「いや、親信殿のところを出た直後、まだ家に戻るのは早かろうかと思うてな、金を作っておこうかと。太刀など、どうせ俺には無用の長物。金に換えればしばらく懐があたたまる」


 狙われている身でありながら、刀を手放す。この男の考えは本当によくわからない。


「持ち合わせがないのなら、有り金をすべて置いていくものではなかろう」

「まあ、どうとでもなるかと」


 幸之進がおかしいのは今に始まったことではなかったかもしれない。


「ではな、お兼殿。此度は助かった。恩に着るぞ」

「――二度はないからね」

「もちろんだ。俺は約束は違えぬ男だ」


 胡散臭い。どこまでも胡散臭かった。

 それは身元を知った今となっても変わりない。

 これが大身旗本の嫡男として、いずれは幕臣になるのかと思うとゾッとする。この国はどうなるのだろう、と。


 しかし、当の本人はお構いなしだ。

 加乃の手を引き、親信に近づいてくる。

 この時、加乃は親信を直視しなかった。ずっと下に顔を向けている。


 親信はもう、恐れるのをやめた。幸之進の手からもぎ取るようにして加乃の肩に手を置くと、膝を突いて目を合わせる。


「加乃、おぬしが知りたいのであれば真のことを話す。だが、知りたくないのであればそのことは墓まで持ってゆく。――おぬしは私と沙綾の子。それではいかんか?」


 小さな体を壊してしまわないように包み込む。

 加乃は、いつも己の心を隠してしまう子だ。寂しい時でも平気なふりをする。傷ついていても、それを言えない。だからこそ、親信の方がわかってやらねば守れないのだ。


 ひくっ、と腕の中で加乃がしゃくり上げる。胸の辺りで着物を握り締める力がこもった。


「まだ父上とお呼びしてもよろしいのですか?」

「当たり前だ。加乃は私の子だ。少なくとも私はそのつもりでいる」


 血の繋がらない親子など、珍しくもない。

 けれど、当人たちにしてみれば、それがどうしようもなく疚しいのだ。

 血が繋がっていてもわかり合えない親子もいることを思えば、このあり方も間違いではない。


「うんうん、そうでなくてはな」


 幸之進も嬉しそうに見えた。

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