第60話

 くたくたになってきなこ長屋に帰ると、夕餉の支度で忙しい頃合だろうに、皆が親信の部屋の周りにいた。親信と――幸之進を見つけるなり、皆が駆け寄ってくる。


「幸之進様っ、どこに行ってやしたんでっ?」


 半治に向かい、幸之進は叱られた子供のように首をすくめる。


「いや、少々事情があってな」

「水臭ぇったらねぇや」

「すまん」


 そこでみちが目を怒らせて親信に言った。


「チカさんったら、置いていくなんて親坊が可哀想じゃないか。ずっと泣くのを我慢してて、見てられないよ」


 それを聞き、親信は慌てて家に駆け戻った。家の中には多摩と、万寿ますと丹美とがいて、座って拳を握り締めている親太郎を見守っていた。


「親太郎、すまぬ。帰ったぞっ」


 下唇を噛み締め、険しい顔をしていた親太郎は親信の顔を見るなり、大きな目を潤ませた。それでもまだ不安げに、誰かを捜している。


「親太郎」


 加乃が名を呼ぶ。その後ろには幸之進もいる。

 それでようやく、親太郎は自分に泣くことを許した。


 結局のところ、泣くのだ。

 しかし、今度は途方に暮れるのとは違う。ほっとしたから泣くのだ。

 親信は笑って親太郎を膝に載せた。


「よしよし、偉かったぞ。皆、ちゃんとおる。安心するといい」


 えっ、えっ、と喉が詰まったようにして泣く親太郎を、加乃は眩しそうに眺めていた。

 沙綾が産んだ子は親太郎一人だとしても、二人を区別したことなどないつもりだ。親信と沙綾は、二人の子の親なのだから。


「さ、家族水入らずにしてあげないと。帰りましょうね」


 万寿が優しい声で言った。多摩もそんな母親にうなずいて続く。丹美は一度幸之進を見て、それから苦笑した。

 家族水入らず。

 なのに何故か、ここに幸之進がいることに違和感がなくなってしまっている。


「加乃殿も泣きたければ胸を貸すぞ?」


 そんなことを言う幸之進を親信は睨む。いつもと変わりないやり取りに、加乃は笑いかけたかに見えたけれど、すぐに顔を曇らせた。


「幸之進様は、父上のような方の息子になりたいと仰いました。でも、わたしは――」


 血の繋がらない娘では、嫁にしたところで親子にはなれないのではないかと。加乃がそう考えているのがわかった。

 親信は悲しかったが、幸之進は笑い飛ばす。


「加乃殿以外に親信殿の娘御はおらぬよ。親太郎では嫁にできぬし」


 自分で言って、ククッと笑っている。親太郎は泣くのをやめて首を傾げていた。


「だから、加乃は私の大事な娘なのだ。おぬしにやるとはひと言も言っておらん」


 変らないやり取りを、変わりなく行う。

 本来ならもう、大目付の子息である幸之進にこんな口を利いてはいけないのだろう。それでも、今さら畏まったりできぬのだ。

 けれど、幸之進にはそれが、もしかすると嬉しかったのかもしれない。


「親信殿はやはりよい御仁だなぁ」


 そんなことをつぶやいて笑った。



     ❖



 その日は色々なことがあって、気が昂ってなかなか眠れなかった。

 大目付を失脚させ、その地位にとって代わりたい者が幸之進を継母の仕業に見せかけて葬りたがっていたという。


 あれからどうなったのか気がかりで仕方がない親信だったが、子供たちはともかく、幸之進までぐうぐうと寝ているのが解せない。誰よりも当事者だろうに。

 家を出てからまた寝不足気味だったとでもいうのかもしれないが、それにしたって図太い。


 結局、親信だけがぐったりとして眠れないまま夜が明けたのだった。

 それでも、昨日の戦いの後だ。皆で朝風呂を浴びてさっぱりとしてきた。


 すると、裏長屋の狭い路地に入らず、木戸のところで停まっていた駕籠がふたつ、否応なしに目についた。六尺は幸之進を見知っていたようで、顔を見るなり頭を下げた。


「――おぬしの家のか?」

「そうだなぁ」


 と、幸之進は頭を掻く。家紋などは見当たらない。目立たぬ駕籠を使ったのだろう。

 加乃と親太郎は抱き合って身を硬くしていた。


 しばらくして、長屋の方から武士が出てきた。それは、幸之進の従兄、浅霧あさぎり馬之介まのすけである。颯爽とした立ち姿の武士は、幸之進を見るなり眉根を寄せた。


「幸之進――」

「おや、兄上? どうされた?」


 とぼけるが、馬之介が来た理由はわかっているはずだ。


「おぬしを連れてきてほしいと頼まれたのだ」

左雨ささめの家からだな」

「そうだ」


 この期に及んでも、幸之進は嫌だと言って逃げるのではないかと、わざわざ馬之介を使ったのではなかろうか。そこで馬之介は幸之進から視線を外すと、親信に向けて表情を柔らかくした。


「向井殿、ご無沙汰しております。幸之進がご迷惑をおかけして心苦しいばかりですが」


 あれを迷惑ではないとはさすがに言ってやれない。親信はハハ、と乾いた笑いを零してごまかした。

 すると、幸之進が神妙な顔を向けてくる。


「親信殿にも同道してほしい。もし、俺がおかしな振る舞いをしそうになったら止めてくれ」

「ああ――」


 家には継母がいる。顔を合わせるのは、いかに幸之進が図太くとも怖いのかもしれない。


 多少なりとも関わってしまったのだ。親信も知らぬ顔はできない。先方には小次郎もいることだろう。

 それにしても、大目付の屋敷になど足を踏み入れることになるとは思わなかった。なんでもない顔をしてみせるものの、親信も内心では慌てている。


「ゆきし、行くの?」


 親太郎がとっさに、幸之進の袴を両手でつかんだ。

 また、いなくなる。今度こそ本当に会えなくなる。それを親太郎もどこかで察しているのかもしれない。だからこそ、小さな拳が揺れていた。


 幸之進は、そんな親太朗の手をそっと外すと、今度は逆に握り返して微笑んだ。


「今回はちゃんと戻ってくる。黙って行ったりはせぬから、今日は留守番をしていてくれぬか?」


 もう、逃げ隠れる理由もない。幸之進は穏やかにそれを言った。

 親太郎なりに、今ここで駄々をこねてはいけないことくらい気づいたのだろう。いつまでも幼いままではないのだ。


「あい」

「わたしが見ていますから」


 加乃も大人びた表情を浮かべていた。親信が親太郎を下ろすと、子供たちは手を繋ぐ。

 親信は一度長屋の前に戻り、近くを歩いていたみちを捕まえた。


「すまぬが、急ぎで行かねばならぬ用ができた。昼餉までにもし戻れぬようであれば、飯は炊いてあるので子供たちに食わせてやってくれぬか?」


 切羽詰まった早口に、みちは珍しく押された。


「あ、ああ、わかったよ」

「助かる」


 それから木戸まで戻ると、親信は独り言つ。


「後は、手習所に、私が今日は行けぬことを伝えねば――」


 それを耳聡く拾った馬之介が切り出す。


「それでしたら、私が参りましょう」

「しかし――」


 旗本の嫡男にそのような雑用をさせてよいものかと思ったが、馬之介は爽やかに微笑んでいる。


「軽く事情は聞き及んでおります。幸之進が行きさえすればよいのですから」

「気は進まんがな」


 まだそんなことを言う従弟に、馬之介は咎めるような目を向けたが、それでも優しい。大変な目に遭ったと、不憫には思っているのだろう。

 そこで加乃が頭を下げた。


「――父上も幸之進様も道中お気をつけて」


 たった一日で、加乃は見違えるほど大人びた。それがいいことなのかはわからない。

 しかし、心配ばかりするのではなく、加乃を信じていようとも思うのだ。 


 幸之進が駕籠に乗り、親信も乗り、馬之介に見送られて二人はそれぞれに長屋を発った。

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