第61話

 親信は、駕籠に乗ったことがなかった。貧乏浪人には贅沢すぎる。乗り慣れない駕籠の揺れは心地が良いとは言えないものだったが、これでも随分ましな方なのだろう。辻駕籠などはもっと乱暴だ。


 幸之進に、家はどこにあるのだと訊くのを忘れていた。多分、一時(約二時間)以上は駕籠に揺られていた。そう近くはなかったようだ。旗本屋敷なら、番町、近くても小石川、谷中辺りだろうと辺りをつけたが、当たっているのではないだろうか。


 駕籠がぴたりと停まり、下ろされた。その時、親信はようやく息をつけた。

 どうやら先に降りていた幸之進が親信の駕籠の前から呼びかける。


「親信殿、着いたぞ」

「う、うむ」


 駕籠を降りると、屋敷の表御門が見えた。右を見て、左を見るが、長い。歩いて来ていたら、どこから入ればいいのか迷っただろう。

 幸之進は前を向くと目を細め、はぁ、と嫌そうに嘆息した。待ちかねていた家人たちが御門を開く。用人らしき中年の侍がいた。


「幸之進様、よくぞご無事で――」


 しかし、幸之進は素っ気ない。


「ああ、大事ない。上がるぞ」


 長く家を空けたのだから、もう少し何かあってもよいだろうにと思うが、幸之進は今、それどころではないのだろう。


 大勢の女中や若党に頭を下げられつつ玄関を抜け、途中のひと間に座らされた。美しい花鳥風月の絵柄が入った襖で仕切られた部屋は、真新しい畳の匂いがする。痛めばすぐに取り換えられる豊かさがそこに示されているようだった。

 長屋暮らしなどは、けば立っていようと畳があれば上等だ。茣蓙ござでやり過ごしているところが多いくらいである。比べる方が間違いなのだが。


 幸之進はここへ着いてから不機嫌だった。長屋にいる時とは別人のように笑わない。目つきが違う。

 やはりこの家は窮屈なのだろうか。

 失礼致します、と腰元が二人部屋に来た。すす、と静かに歩み寄ると、襖の前で振り返り、三つ指を突いた。


「お支度が整いましてございます」


 そうして、腰元は左右から襖を開いた。

 その開いた襖の奥にいたのは、小次郎と、きらきらしい打掛を羽織った女人――これが幸之進の命を狙っていた継母だろう。目尻に少々の皺はあるものの、色白のかんばせは麗しい。

 だが、気性が激しいのは知っている。その内面に違わぬきつい目をしていた。


 二人の奥に座すのが、父親である大目付だ。

 幸之進とまったく似ていないこともないと思った。どこが似ているのか、口では上手く言えない。四十過ぎの角張った顔。背も小柄な方だ。


 幸之進の顔かたちはやはり主に母親ゆずりなのだろうが、目の光というのか、人を食ったような表情が似ているのかもしれない。

 肩衣かたぎぬに家紋がある。左雨ささめ家は三つどもえの柏の葉であるらしかった。


「幸之進、無事な顔を見て安堵したぞ」


 大らかにそれを言う。

 しかし、当の幸之進はにこりともしなかった。本気で嫌いなのかもしれない。

 もしくは、抜け抜けとよく言うとでも思っているのかもしれなかった。


「ええ、しぶとく生きております」


 幸之進がそれを言うと、継母の手が膝の上で強く握られ、目に見えて震え出した。それは怯えではない。憤りだ。この女人は、この期に及んで保身など頭にないのだ。命など惜しくもなく、ただ幸之進を葬りたいと、それだけを考えて生きているように見えた。だから臆することなくこの場にいるのだ。

 きっと、それをわかっていて、それでも大目付は大らかに笑っている。


「それは何よりだ。おぬしは大事な嫡男だからな」

「いざとなったら養子をお迎えくださればよいのではございませぬか」


 淡々と幸之進が返す。声が冷たい。それでも大目付は嬉しそうだ。


「いや、家督はおぬしに継がせる。何度もそう申しただろう」


 懐かない息子だが、それでも我が子は可愛いらしかった。容姿の端麗さからか、血の繋がりか、幸之進の母への想いか。

 それにしては随分放っておいたようにも思う。これくらいのことは自力で切り抜けられる息子だと能力を買っていて、だからこそ可愛いのだろうか。


 幸之進は嫌そうに顔をしかめていた。

 父を前にそういう顔をするものではない。親信の方がはらはらした。


 そんなやり取りをしていると、継母が突如、畳に手を突いた。その畳に爪を立てる。


「わたくしは尼になり、壱哉の菩提を弔いとうございます。殿は、この幸之進がおればご満足でございましょう」


 敗北を認めたのだ、この女人は。

 己の恨みが敵につけ入る隙を与え、この家もろとも滅ぶところであった。幸之進に対する恨みは消えずとも、己にもまた嫌気が差している。


 思えば、子を亡くしたのだ。気の毒な女人ではある。

 しかし、大目付は顔色ひとつ変えずに言った。


「それはならん」


 顔を上げた奥方は、ひどく傷ついて見えた。それは、継子を殺そうとしたことをうやむやにはせぬという意味に受け取ったのだろう。


「――相応の咎めを受けよと仰るのですね」

「咎め、な。おぬしが今さら出家などすれば、変に勘繰る者が出てくる。それから、咎めは儂が下すところにない。幸之進に咎めてもらうがいい」


 ここにいるだけで胃の腑がきりきりと痛む。きっと、小次郎も同じ気持ちでいるはずだ。

 幸之進はまだ顔をしかめていた。

 大目付はそんな幸之進に顔を向け、続けた。


「幸之進、おぬしが裁け。酌量の余地はあるか?」


 屈辱に唇を噛み締める奥方の目尻に、堪えていた涙が滲んでいる。幸之進は、きゅっと柳眉を寄せた。


継母上ははうえはそれがしに情けをかけられても嬉しくはないのだろうが、まず言わせて頂きたい」


 膝を正し、奥方に顔を向ける。余計なことを言わぬだろうかと気がかりではあったが、この場で親信ごときが口を出せるはずもない。

 奥方はそれでもキッとまなじりをつり上げて幸之進を睨み、言葉を待つ。


「――継母上と呼ぶには年が近い故、非常に呼びづらかった」


 今、それを言うのか。

 当然だが、奥方は呆けたような顔をしている。幸之進は顔だけ真面目だった。


「それがしが可愛い異母弟おとうとの代わりになどなれるはずがない。好かれぬのは最初からわかっておった。あと十ほど若かったら媚びたところだが」


 真顔で言うが、どう受け止めていいのかよくわからない告白である。幸之進以外、誰も口を挟まなかった。


「好かれぬだろうと、好かれる努力を怠ったそれがしにも責はある。しかしだ、言わせて頂くのなら、それがしはここへ来るつもりもなかった。出ていってよいのならその方が助かる。長年放っておいたくせに、急に跡取りだと言われて喜んでいると思われるのは心外だ」


 ほほぅ、と大目付が茶化すから、幸之進が睨んだ。本気で嫌いなのだ。


「つまりは、すべて父上が悪いということ」

「うん?」


 首を傾げた大目付に、幸之進はさらに冷ややかに言い募る。


「継母上が壱哉を亡くし、失意の只中におられた時、父上が真っ先にすべきことは、それがしを引き取ることではなく、継母上の痛みに寄り添うことではなかったのかと。父上が壱哉の代わりにとそれがしを嫡子に据えれば、継母上の恨みがそれがしに向くのは必然。だから、すべて父上が悪いのだ」


 ぱしん、と幸之進は畳を叩いて訴えた。大目付は、むむむ、と唸っている。

 どこまで本気なのだろうか、この親子は。


「しかし、嫡子がいなければ家は存続できぬ。これは極めて大事なことで――」

「順序が違うのだ。継母上は、これではまるでそれがしを家に上げるのを待っていたようだと思うたのではないのか」


 命を狙った継子に庇われている奥方は、それでも情けなど要らぬと突っぱねるかに思えた。けれど、奥方は静かに、はらはらと涙を零していた。その様子からすると、幸之進の推測は正鵠を射ているということだ。

 それは、苦しかったことだろう。


 だからといって、幸之進が悪いわけではない。殺してもいいということはないのだが、それでも憐れではある。


「いや、儂とて我が子の死に嘆いたのだ。苦しかったが、八恵やえを責めるようなことは何も申さなかった。ただ、気を落とすなと」


 大目付はゆるゆるとかぶりを振ったが、幸之進は手厳しかった。


「だから、そのようなひと言で足ると思うておること自体がいかんのだ。父上はちっとも女心がわからぬ。だからそれがしの母上にも逃げられたのではないのか」


 逃げられたのか。女の方が捨てられたのではなく。

 そこは触れてほしくなかったところなのか、大目付は初めて目を逸らした。


 何やら、覗いてはいけないものを垣間見ているような気分で、親信は身の置き所に困る。小次郎もまた、置物と化していた。


 おかしな振る舞いをしたら止めてくれと幸之進は言うが、常日頃から変わり者なのだ。どこからが『おかしい』と判じるのは難しい。

 幸之進は不意に、にやりと不敵に笑った。


「とにかく、父上のせいであるから、父上は継母上に詫びるといい。それがしはそれを見たら清々するのでな、それをもって今回の騒動の裁きとする。どうせ、あの松木まつき家の者たちのことも公にはせず、弱みを握って利用していくのだろうし、それがしが痛い思いをしたくらいで、これといった損もなかろう?」


 松木というのが、裏で糸を引いていた者らしい。

 大目付はうなずいた。


「松木右膳うぜんはな、南町奉行をしておった際に、北町奉行の儂と共に出た吹上の上聴で誤った見解を述べてな、それに気づいた儂がその弁の穴を突いて罪人となるところであった女中の無罪を示したのだ。言葉は悪いが、出世の踏み台にしたと思われても仕方がない。それから表向きは穏便に付き合っていたが、恨まれておるのは気づいておった。本来であれば旗本の罪を検分する目付がと思うと笑える話ではあるがな」


 それは、踏み台にしたと思われてもというか、踏み台にしたのだろう。宮仕えの恐ろしさを垣間見た親信だった。ちなみに、誰も笑えない。


 無実の者を罪人にしてしまうところを止めて頂き、かたじけない、いやいや気づけたのは運がよかったとしか思えませぬが、善良な町娘が救われた、それでよいかと――お互い、思うところを隠して狐狸妖怪のごとく化かし合ってその後を過ごしたのだろう。


「父上は、その吟味沙汰に誤りが出ると最初からわかっておって黙っていたのではないのか?」


 幸之進が半眼になっている。やはり、そう思うのも無理はない。


「さてなぁ。何分、昔のこと故」


 狸だ。大目付は狸だと、親信は思った。幸之進に性根が曲がっているだの、歪んでいるだの言われるのも少し納得してしまった。似た親子かもしれないが。

 こんな時でも大目付は機嫌がよいように見えた。


「まあよい。おぬしの裁きを甘んじて受けよう」


 そして、奥方に体ごと向け、柔らかな面持ちをして言った。


「八恵、儂が至らぬばかりに、苦しい思いをさせてすまなんだな。今後は気をつけよう」

「殿――」


 奥方は、止まっていた涙がまた滲んでいる。

 本気で奥方を許すつもりが、父子にはあるのだろうか。幸之進が今後、この屋敷で上手くやっていけるのならそれでいいのだ。


 それでも、幸之進が父に向ける目は厳しかった。もっとちゃんと謝れとでも言いたげだ。

 奥方はそんな幸之進に手を突いて額を畳につける。


「幸之進殿、わたくしはひどい過ちを犯しました。あまりに浅はかで、身勝手な思いから御身を害したこと、謝ったところで許されることではありませぬ。どのようにして償えばよいのか、今はまだわからぬままでございまするが、いずれは――」


 肩を震わせている奥方に、幸之進が向ける目は優しかった。笑ってしまうくらい、先ほどとは随分違う。


「もうよいのです。それがしは女子には笑っていて頂きたいと常々思うております。女子には優しく、心を砕きなさいと、それが母の遺言でもございます」


 本当だろうか。

 女子供に甘い方が幸之進らしくはあるのかもしれない。

 顔を上げた奥方は戸惑いつつ、また下げた。多分、これで幸之進の勝ちだ。この奥方はもう、幸之進を狙わない。心から悔いている。


 一度は憎まれた相手の懐にも入り込む。恐ろしい男だと親信はしみじみと思った。

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