第62話

 奥方は先に下がらせてもらうと言って出ていった。

 疲れたのだろう。無理もない。この大目付と幸之進の父子に挟まれるには、奥方はなのだ。


 小次郎はまだ置物になっていて動かない。親信も似たようなものだったが。

 親信も小次郎も、この二人についていくにはまとも過ぎる。


 それにしても、大目付は雲の上の人だが、重苦しさはない。むしろ飄々としている。ただし、そう見せかけるのが狙いのような、油断のできない人物であることだけはわかるのだった。


 さて、と大目付が改めて言うから、親信と小次郎はびくりと肩を跳ね上げた。幸之進は平然としている。


「幸之進、おぬしはこのまま家に戻るのだろうな?」


 命を脅かすものはなくなった。それこそ、三食昼寝つきで大きい顔をして過ごせるのだから、誰だって戻るだろう。父が嫌いだと言っても、贅沢な暮らしは魅力だから。

 しかし、幸之進はうなずかなかった。


「いいや。別れを告げねばならぬ人々がおるのでな、今日は出ていく。戻るのは、すべて片づいてからだ」


 それでも戻るのだ。幸之進はようやく、それを決めたらしい。

 ここが己の居場所だと認めたのだ。やっと大人になったのかもしれない。


 しかし、それでいいと思う反面、加乃や親太郎、長屋の皆、手習所の子たち――悲しむ者もいる。

 これからは、そうそう会えることはないのだ。今度こそ、本当の別れが来る。


 それでも、前とは違う。急にいなくなるわけではないのだ。

 向き合って別れを告げ、感謝を述べてからならば、寂しさも呑み込めるだろう。

 幸之進が子供たちに心の整理ができるだけの時を残してくれたことを、親信は嬉しく思った。


 子供たちにとってはつらいことなのだ。それでも、人生にはいつまでもというものはない。己の都合のよいように世間は動いてくれないのだ。時には諦めることも学ばねばならない。

 手習所の子供が巣立っていくように、親信もこの別れを受け入れる。


「戻る気はあるのだな? なるべく早く戻るのだぞ?」


 大目付が渋々といった様子で言う。それから、ふと大目付は親信を見た。目に力があって、親信も押されてしまいそうだった。

 そこには幸之進に向けるような甘さはない。


「向井と申すのはおぬしのことだな?」


 小次郎が話したのだろう。親信は緊張しつつも頭を垂れた。


「はっ」

「幸之進が世話になった。礼を申す」

「勿体ないお言葉、痛み入りまする」


 型通りの面白みのない返答だ。親信はそうした男なのだから、仕方がない。


「追って褒美を取らせよう」


 褒美とはなんだろうか。幸之進が置いていった金子だけでも受け取っていいのか迷うところなのだ。これ以上はもらいたくない。


「いえ、怪我をしておられたので手当てをしただけのこと。特別なことではございませぬ。むしろ、ご子息にはうちの子たちの面倒を見て頂いて、私も助かりました。褒美など過分にございます。どうぞお気遣いなくお願い申し上げまする」


 それだけをなんとか言うと、大目付はあっさりとうなずいた。


「そうか。欲のないことだ」


 非常にあっさりしており、話はそこで終わった。幸之進が呆れている。


「こういう時は精一杯吹っかけてふんだくるべきではないのか? 親信殿も兄上と変わりないのぅ」


 ――馬之介ほど黄金色に弱くはない。あんなに取り乱さないし、小判も懐に収められる。そこは違う。

 内心ではムッとするところだが、こんなこともあと少しかと思うと、怒りはすぐに消えてしまった。


 多分、幸之進が親信をここへ連れてきたのは、父である大目付から『吹っかけてふんだくれ』ということであったのだろう。世話になった恩返しのつもりだったのかもしれない。


 しかし、いいのだ。身に過ぎたことは望まない。これからも慎ましく暮らしていければいい。

 気持ちだけ受け取っておこう。


「それでは、儂も忙しい身の上なのでな。これにて話は締めさせてもらおう」

「はっ」


 親信と小次郎は深々と頭を下げて大目付を見送った。大目付が去ると、幸之進は小次郎に声をかける。


「上田、おぬしはこれからどうするのだ?」


 そのひと言に小次郎が返す言葉に詰まった。真面目な男だから、何事もなかったかのようにここへは出戻れないのだろうか。


「――殿からは、おぬしは誰の家臣だとお叱りを受けました」


 奥方に加担するのではなく、そこは大目付に知らせねばならなかったということだ。不忠だと叱責されるのは無理もない。


 ただし、人としての心があるから、誰のことも見捨てられなかったのだ。それを弱さというのかもしれないけれど、そうした弱さは人には必要だと思う。親信も同じようなことをしてしまう気がした。


「そうか。では、父上が要らぬのなら俺がもらうとしよう」


 へっ、と親信と小次郎は声を上げたが、幸之進は不敵に笑った。


「俺は三日後に戻る。その時には間違いなくここにおれよ」


 それだけ言うと、幸之進は立ち上がった。

 どこにいても、幸之進は幸之進だと、そう思える笑顔を向ける。


「さあ、親信殿、きなこ長屋へ帰ろうか」

「ああ――」


 あと三日。

 共に過ごすのはそれだけだ。


 その後は、幸之進と親信たちの日常が交錯することはない。

 きっと、二度と。

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