第63話
帰りも駕籠を出してくれた。親信だけなら勝手に帰れというところだろうが、幸之進の手前だから。
長屋に戻ると、皆がほっとした表情で迎え入れてくれた。
「ユキさん、もう戻ってこないのかと思って冷や冷やしたよ」
みちにそれを言われ、幸之進は皆に囲まれながら静かにうなずいた。
「いや、三日後に家に帰ることになった。一度ここに戻ったのは、世話になった皆とはやはりちゃんと別れてからでないといかんと思うてのことだ」
それを聞くなり、半治はいつもの威勢はどこへやら、眉尻を下げた。
「まあ、そんな日が来るのはわかっちゃおりやしたが、いざ来てみると寂しいもんですねぇ」
和吉は顔色をなくしていた。
「幸之進様、もうここへは来ねぇんですかいっ?」
「いいや、そんなことはない。たまには抜け出してくるつもりをしておる」
ははっ、と幸之進は軽く笑うが、家の者がそうはさせないだろう。言うほど容易いことではない。
「そうしておくれよ。もう会えないなんて悲しいじゃないか」
丹美も目を潤ませていた。多摩はとっさに言葉が出ないらしく、ただ戸惑っている。
「幸之進様、お家を思い出されたのですな?」
大家にそれを言われ、幸之進は一度、うん? と首を傾げた。親信は少し考えてみて、ようやく思い出す。そういえば最初の頃、幸之進が家を思い出せないから帰れないとか大噓をついていたかもしれない。すっかり忘れていたが、大家はまだ真に受けていた。
「おお、そうだった。思い出したのだ」
白々しいことを言って幸之進も手を打っている。追及されたくない幸之進は、家の前で固まっていた加乃と親太郎の肩を抱く。
「加乃殿、親太郎、只今戻ったぞ」
それは親信が言うべきことである。先を越され、すごすごついていく大男の間抜けなこと――。
加乃はある程度覚悟を決めていただろう。落ち着いた顔をしていた。
「おかえりなさいませ、父上、幸之進様」
あと数えるほどしか言えない言葉を、噛み締めるようにして零す。
親太郎はというと、目にいっぱい涙を溜めていた。もうあんなに悲しいのは御免だとばかりに、下唇を噛み締めて黙っている。親信はそんな親太郎を膝に載せた。
悲しいこともつらいことも、どんなに嫌でも起こるのが世の中だ。それでも、思い出だけは胸に抱いていける。こうして四人で暮らした日々を、時々は思い出せばいいのだ。沙綾と暮らした思い出の次くらいには大事でいい。
この時、加乃はきっちりと正座をすると、親信に向けて言った。
「父上」
幸之進の嫁になってもいいかと言い出したらどうしようかと思ってどきりとしたが、そんな話ではなかった。
「わたしはどうやって父上と母上と出会ったのでしょうか? それをお教え頂きたいのですが」
加乃がこれを切り出したのは、相当の勇気が要ったはずなのだ。それが今であったのは、幸之進がいるからだろう。
幸之進がいる今なら、ほんの少しくらいは心の支えになってくれると。
そんな加乃を見る幸之進の目が、なんとも言えずに優しかった。実父の大目付に向けた冴え冴えとした顔が嘘のようだ。
親信は、覚悟を決めた加乃に告げる。
「――沙綾が、見知らぬ女人から赤ん坊を手渡された。すぐに戻るから、しばらくだけ預かってほしいと言われたのだ。しかし、母親は来ず、沙綾がどうしても引き取りたいと言うので私たちの子として育てることにしたのだ」
加乃はそれを静かに聞いていた。まだ六つだが、多くを覚ったような目をする。
「その女の人はどんなふうでしたか?」
「切羽詰まったような、どこか慌てて見えたな。言葉通り、すぐ来るつもりが来れなくなったのだろう。どこの誰とも聞いておらなかったので、調べることともできなかったが、母親が子を置いていきたいはずもない。余程の事情があったのだろう」
捨てられたのだと思ってほしくなかった。子を捨てる親がいないわけではないけれど、そんなふうに思って生きていくのはつらすぎる。
加乃は親信の言葉を噛み締め、それから一度目を閉じると、力強く開いた。
「そうでしたか。母上を選んでわたしを手渡してくれた、もう一人の母上に感謝したいです」
それを聞いた時、親信は不覚にも泣いてしまいそうだった。沙綾に、あの時の沙綾の判断は間違っていなかったのだと言いたい。そして、ありがとう、と。
感極まった親信だったが、加乃を抱き締めたのは親信ではなく幸之進である。
「なんと健気な。加乃殿、俺には甘えてくれてもよいのだぞ」
「え、ええっ」
苛立ちのあまり、こめかみで嫌な音が鳴るが、親信よりも先に二人の間を裂いたのは親太郎だった。
むぅっ、と唸って二人の隙間に身を割り込ませる。しかし、この場合、どちらに対して焼きもちを焼いているのかがよくわからないのだが。
「よしよし、親太郎も」
ぎゅぅっと抱き絞められ、親太郎は嬉しそうに笑っている。加乃も笑っていた。
――親子、家族という嘘が露見した今となっても、こうして笑っていられる。
沙綾がいなくなり、親信だけではできなかったことだ。そう思うと、親信は幸之進がここにいてくれたことにやはり感謝するしかないのだった。
翌日、幸之進は王泉寺についてきた。手習所の子供たちにも別れを告げると言う。
皆、幸之進が家に帰るから、もうここへは来れなくなると聞くなり、大騒ぎになって、今日は何もできそうになかった。
思った通り、特に貞市は大変な衝撃を受けたようだった。顔が青白くなって、今にも倒れそうだ。
しかし、幸之進はそんな貞市の両肩に手を添えると、しっかりと目を合わせて優しく言い聞かせる。
「俺もな、別れは嫌いだ。できることなら誰とも別れずに好きな時に好きな人に会いに行きたい。しかし、人は出会っては別れるを繰り返して生きておる。いつかは必ず別れが来るのだ」
誰が師匠だかわからないほどしっかりと諭している。親信は出番がないながらにそばで見守っていた。
貞市は、いつもはやんちゃな顔を涙でぐしゃぐしゃにしていた。ああいうところは子供らしくてほっとする。
「でも、つらいよ」
幸之進もうなずいた。
「ああ、つらいな。しかしそれは、貞市が俺を好きでいてくれたからだな。その心は嬉しい。俺も皆のことを生涯忘れたりはせぬよ。貞市も、俺のことを覚えていてくれるか?」
しゃくり上げながらうなずく貞市の肩を幸之進はそっと摩る。
「別れは必ず来るが、生涯にいくつかは生ある限り離れてはいけないという出会いもある。もし、貞市が今後、そうしたものを感じる相手と巡り合った時は、どんなことをしても離れぬようにな」
子供たちはいずれ、家族を持ち、子を成す。連れ合いに巡り合った時は離れるなと言うのだろう。
それそこ、どちらかに死が訪れるまでは――。
皆、口々に幸之進に別れを告げる。それほど多く接したとは思えないが、それでも子供たちはこの男が好きなのだ。やはり、幸之進は手習師匠に向いている。
しかしだ、何者かを知ってしまった以上、手習所の手伝いで終わらせるわけにはいかない。幸之進にもやるべきことがあるのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます