第58話
嫌な気分だった。こんなことで助けられるのか。
加乃を助けるために本当に幸之進を斬らねばならなくなったら、と考えてしまう。
「いけません、わたしのことは構いませんからっ――」
加乃の声が悲痛に甲走る。
そこで幸之進は後ろの侍に言った。
「それでは斬られてくるが、俺は間違いなく化けて出ておぬしたちを末代まで祟るのでな、そこは覚悟しておくことだな」
こんな時ですらどこまで本気かわからないようなことを言う。けれど、この男なら本当に、にこにこと笑いながら化けて出そうだ。
侍たちは僅かに怯んだかに見えたが、残念ながら持ち直した。
さて、と口に出すと、幸之進は親信に向けて歩んでくる。腰のものに手を当てるが、構えるような気配はない。幸之進は、やはり笑っていた。
「俺は抜かぬよ。親信殿を相手取れるような腕前は持ち合わせぬのでな」
親信のそばで小次郎がはらはらと両者を見比べている。
幸之進の面持ちは穏やかで、こんな時ですら何を考えているのかもわからなかった。本当に、加乃のために死ぬ覚悟があるのかと、そう錯覚しそうになる。
しかし、それは違うと親信には思えた。
幸之進はそれをしない。もし、幸之進がそんな死に方をしたら、加乃はその死を一生背負っていかねばならなくなる。加乃を苦しめる手段を幸之進が選ぶわけがないと、親信はそう思いたかった。
小次郎ではなく、親信を指名した理由がそこに気づくかどうかなのではないのか。
それならば、幸之進は何かを企んでいる。
それがなんなのかを考えなくては、誰も救えない。
加乃と侍たちに背を向けた幸之進の顔は、親信と小次郎にしか見えない。
不敵に笑っていた。ああいう顔をしている時はやはり油断ならないのだ。
「さあ、親信殿」
そう言って促すけれど、本気で斬れとは思っていないのなら――。
ようやく親信は、幸之進とその背後で捉えられている加乃とを見比べてうっすらと気づいた。このまま幸之進との間合いを詰めればいいのだと。
ふぅ、とひとつ息を吐くと、前に出る。
親信は刀の柄に手をやり、腰を落とした。
「承知した。参ろう」
加乃がひっ、と息を止めた。もうしばらくの辛抱だと言ってやりたいが、そのゆとりはない。
幸之進は笑っている。だから、これで合っているのだ。
この幾月か、寝食を共にしたのだ。多少はこの男の企みを読めてもいいだろう。
幸之進は、親信の気迫に押されたようにして後ずさる。
そう、幸之進はこうして親信を加乃のそばへ近づけている。親信の剣が侍たちに届くように引いているのだろう。近づきすぎては向こうも下がる。ぎりぎりのところを見極め、動くしかない。これは賭けだ。
抜く気はないと言いつつ、幸之進も柄から手を放さない。
――以前のこと。
まったく差料に頓着しない幸之進なので、
あの時は度肝を抜かれた。
あれは備前国光の業物ではないのかと。親信は真贋の程を見抜けるような目利きではないので確証はないが、本物には見えた。
あれ以来、怖くて触っていない。
じりじりと二人は下がる。
親信が鯉口を切ると、侍たちが生唾を呑む音が聞こえてくるようだった。
親信の手元で刀身が現る。幸之進の業物と比べてしまえばなまくら刀だが、最低限度の手入れくらいはしてきた。
すらりと刀を抜いた親信に向け、幸之進は軽く目を細めた。そうして、トッ、と軽く後ろに飛んだかと思うと、背後に控えていた侍たちの方へ、振り返りざまに自らの業物を投げつけたのである。
加乃を捕まえていた侍の顔に太刀は直撃した。
「な――っ」
侍は加乃から手を放した。人質がいるのに太刀を投げつけられるとは思わなかったのだろう。とっさに飛びずさる。
加乃も頭を庇うようにしてしゃがみ込んだ。
ただ――。
幸之進が投げつけた刀は、いつの間にすり替えたのか、業物どころか
「親信殿っ、上田っ」
幸之進は偉そうに叫ぶだけ叫ぶと、しゃがみ込んだ加乃の手を引いて、半ば抱えながら逃げる。親信はすでに抜身を手にしており、小次郎もいる。数では劣るものの、負ける気はしなかった。
「いざ、参る」
男たちは観念したのか、相手をするつもりがあるようだった。
「くそ――っ」
刀を抜きかけた侍たちに、幸之進は後方に逃げおおせてから言う。
「一人、二人、逃げられぬように痛めつけてほしいのだが。どこの
それを聞き、侍たちが身震いしたのも仕方のないところだろう。吐く前に自刃する気骨があるようには見えないので、あっさり喋るかもしれない。
幸之進は形勢逆転したせいか、声を弾ませていた。
「大概はな、御家大事と内々の不祥事は表沙汰にはせぬもの。しかし、残念ながらうちの父は人となりが歪んでおる。内々で済ませてはくれぬやもしれぬ。うむ、悪事の代償は高くつくのだ」
この男の父親なら歪んでいるかもしれない。会いたくないものだ。
侍たちは自ら川原へ降りたのだが、こうなると逃げ場もない。親信と小次郎を打ち負かすしか活路が見いだせないのだ。
「おのれ、
一人の若侍がつぶやいた。その途端、幸之進の声が厳しくなった。
「上田、やってしまえ」
「はっ」
小次郎が、親信を通り越えて先に踏み込んだ。
相変わらず――いや、それ以上に、親信が知る小次郎の居合よりも速さを増していると感じた。男の袖がすっぱりと切って落とされる。
少しずれていたら腕が落ちていただろう。数を頼みにするから、個々の力はたいしたことがないと言いたいところだが、真剣を振るう機会などそうそうあるものではないのだ。親信も道場での試合などとは比べ物にならないほど気が張り詰めている。
それでも、一人二人は捕まえねばならないと思うと、加減が難しい。
とにかく、加乃と幸之進の方へは寄せつけぬようにせねばならない。
剣戟の音が川原に響く。あまり長引かせて人目につくのもよくない。
親信は、一人の男の太腿を払った。浅く斬ったが、それくらいでは怯まなかった。そこから侍は踏み込むと獣のような雄叫びを上げ、親信に突きを繰り出す。
「父上――っ」
加乃の声が聞こえた。親信の無事を祈る声だ。
それだけで親信は誰にも負けないという気分になる。
二人の子がいる。それだけで死ねぬのだ。
守りたい者がいる。そうした時、人は諦めるということをしないのだから。
突きを躱すと、親信は刀を持つ侍の
その上に、今度は小次郎が転がした侍が放り投げられた。ただ、その男は若侍を潰してしまわぬよう、とっさに手を突いて横に転がる。若輩に優しいところがあるのだと、こんな時だが感心してしまった。
だが、そのおかしな動きをしたせいで明らかに手があらぬ方へ曲がった。折れたのではないだろうか。脂汗を掻いて呻いている。
転がされた若侍がなんとか頼りなく立ち上がる。この大事に弱い若侍を一人加えたのは誤りだと思えたが、口の堅さでも買われたのだろう。
親信が刀を向けると、幸之進が声をかけてきた。
「親信殿、もうよい。そやつのおかげで色々とわかった」
「は?」
「鼻の形がよう似ておるな。年の頃からして、次男かな? おぬしが顔を見せてくれたことで、黒幕の正体がはっきりした。これでもう安心だ」
にこり、と微笑むと、幸之進は加乃の肩を抱きながら近づいた。若侍の方が不利と見て、鼻を押さえながら後ずさる。
幸之進は微笑から一転、意地の悪い笑みを浮かべた。この若侍の顔と、若侍を他の者が庇うのを見て考えが固まったらしかった。若侍は、カタカタと震えている。
「俺が家に帰らなかったのは、もちろん帰りたくないからだ。それは間違いない。帰りたくない。だがな、そればかりではない。あの父のことだから、裏で糸を引いている人物の目星もついていて、それで泳がせておるのやもしれぬと思うてな。俺があっさりと帰ったのでは、その裏の人物まで表に出さずに継母上のせいで終わってしまうだろうから、少し身を潜めていようかと思うてな」
「そ、そんなはずは――」
若侍は愕然とつぶやいた。しかし、幸之進はそれを嘲笑った。
「
若侍は、血が出るほど唇を噛み締めた。嫡男ではないのなら、目をかけられてもいないのだ。手柄を立てたくて乗り出してきたのだろう。
とはいえ、これでは戻ったところで咎めを受けるだけなのだ。この場で果てた方がましだと思ったかもしれない。親信が憐れみを向けたと知ったら、若侍はさらなる恥辱を感じただろうか。
しかし、この時、川原に降りてきた男たちがいた。四人――これは浪人ではない。歴とした武士である。こうして見ると、親信たちの方が見すぼらしく、不逞の輩に見えるかもしれない。
ただ、この武士たちは若侍を救いに来たのだと親信にもわかった。
「ふむ。先走った息子の尻拭いに遣わされたか。下手を打つと読まれていたわけだな? それは読めるくせに、認めたくないことは見えぬ振りをするらしい。残念だがな、父は性根こそ腐っておるが、上の御方々からしてみれば役に立つ。その代わりが務まらねば、成り代わったところで比べられて愚物とされるだけなのにのぅ」
幸之進がこの状況下でも相変わらずなことを言った。本当に口が減らない。戦わないくせに敵を煽るのはやめてほしい。
この武士たちは皆、三十路を越えており、先ほど叩きのめした者たちよりも落ち着き払っている。剣の腕も立つようだ。親信と小次郎の二人では苦戦するだろう。いや、一人ずつを相手にするのならまだしも、一人で二人ずつ切り結べというのなら、勝てない。
それでも、加乃は逃がしたい。幸之進もまだ若いのだ。死ぬのは嫌だろう。
それを言ったら、親信も死ねないのだが。親太郎を迎えに行かねばならないのだ。死ねない。
そう考えたら、勝てぬなどと弱気になっている場合ではなかった。
ふぅ、と息を吐いて気を引き締め直す。
ただし、武士たちが抜刀するよりも先に、幸之進は空を見上げた。
空ではなく、土手にいた町人を見たのだ。最初は野次馬かと思った。けれど、よく見るとそれは見知った顔だった。
兼だ。
兼がいかにも柄の悪い男たちを引きつれ、幸之進の危機を眺めている。
ゾッとした。
四面楚歌とはこのことか。
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