第55話

 疲れた。

 いろんなことに疲れてきた。


 沙綾がいないこの世に、子供たちのために留まっていなくてはならないと奮起した。

 けれどもし、加乃に何かあったら、親信はどうしたらいいのだろう。あの世で沙綾に詫びることすらできない。死んでもこの世をさまよい続けるしかないのだ。


「向井――」


 小次郎が躊躇いがちに手を差し伸べてくる。けれど、親太郎がひどく怯えた。

 物騒な世の中なのだ。あんな小さな子が独り歩きしていい時分ではない。

 立って、早く加乃を追いかけなくてはならない。早く――。


 この時、さわりと風が吹いた。

 泣き喚く親太郎を、起き上がれない親信から引き抜く力があった。親太郎が途端に泣きやんだから、親信はハッとした。親太郎は自らしがみつき、その男の腕に大人しく抱かれる。


「まったく、何をやっておるのやら」


 はぁ、とため息をつきながら涙に濡れた親太郎の頬に自らの頬を寄せる。


「ゆ、ゆき――」


 親信は肩を押さえながら起き上がった。幸之進は、微笑むでもなくじっと親信を見据えた。その目は探るようでもある。


 やはり、家に帰るなどというのは嘘だったのだ。その嘘に振り回された挙句、親信の方が大変なことになっていた。幸之進のせいではないとしても、この男がすべて悪いような気になる。

 しかし、幸之進は親太郎を抱き上げたまま、ふと小次郎に目を向けた。


「上田、来るなと申したであろう?」


 その途端に、小次郎はその場で片膝を突いた。


「も、申し訳ございません。しかし――」

「しかしも案山子かかしもあるか。おぬしが動けば余計な者どもがついてくるのがわからぬか」

「は――」


 小次郎はうつむいたまま言葉を失くした。親信もだ。

 偉そうにしている幸之進だが、親信には二人の繋がりが見えない。そもそも、この二人が顔見知りであったと今知ったばかりなのだ。

 幸之進はしゃくり上げる親太郎の背を撫でながら、親信に向けた顔をふと和らげる。


「親信殿と上田が旧友であると知った以上、どこでどう交わるか知れぬのでな、親信殿のところに長居せぬ方がよいと思うて出たのだが――」

「話が見えん。一体、何がどうなっている? 何故おぬしが小次郎を知っておるのだ?」


 親信はつかみかかりそうな勢いで幸之進に問うた。しかし、幸之進は眉根に軽く皺を寄せる。


「立ち止まって話しておる場合ではなかろう。加乃殿を捜さねばな」


 グッと言葉に詰まった。そもそも、幸之進を捜しに出てこんなことになったというのに。


「どこから聞いておったのだ?」


 親信は幸之進から親太郎を受け取り、足早に進みながら言った。すると、幸之進は困ったようにして答える。


「まあ、大体のことは。加乃殿は親信殿の実の娘御ではないと」

「おぬしを捜しに出たというのに、おぬしは私たちの後をつけておったのか」


 ほとんど八つ当たりのようにして親信は幸之進を睨みつけたが、幸之進はそれを受け止めつつも悲しそうに見えた。


「本来であればもう会わぬつもりであったが、どうにも気になってな」


 やはり、とりあえず親信の家を出ただけで行く当てはないと見える。

 小次郎は口を挟まずに後ろをついてきた。小次郎にも問い質したいことが多くある。

 ここへ来て、ふとこの二人が結びつくところを見つけた。


 幸之進が父の家に引き取られたのは、正妻の子が夭折したからではなかったか。そして、小次郎が剣術指南役をしていた旗本の嫡男も若死にしたという。もしや、その旗本の嫡男とは、幸之進の異母弟なのか。

 多分そうだと、親信の中で確信めいたものがあった。


「小次郎、おぬしはこの幸之進の異母弟の剣術指南役であったのだな?」


 すると、小次郎は目を細めた。その表情がすべてを物語っている。幸之進も嘆息した。

 親信はさらに続ける。


「それで出奔した幸之進を連れ戻すように遣わされたと、そういうことか」


 その時、幸之進は急にはは、と乾いた笑い声を立てた。


「いやいや、親信殿。それは違うぞ。むしろ逆だな」

「逆?」


 笑っているように見えて、幸之進の目は冷めている。小次郎は蒼白であった。


「戻ってこれぬようにせよという役目を与えられたのだ」

「どういうことだ?」


 親信が顔をしかめると、幸之進は腹の傷跡を撫でるようにして手を添えた。


「俺を斬ったのはこの上田だ」

「なっ」

「ただし、俺が斬らせた。死なぬ程度に浅く斬れとな」


 フッと、幸之進は冷え冷えとした微笑を称える。嘘や冗談で言っているのではないと、鈍い親信でさえもわかった。


「小次郎――」


 振り向いても、小次郎は口を固く結んでいた。小次郎自身が何を抱えているのか、それを語るつもりはないのか。

 それを幸之進が代わって話すのだ。


「俺が嫡子として父の屋敷で暮らすようになってから、それが面白くなかった者がおってな。どうやら命を狙われておるようだから家を出ることにしたのだ」


 あっさりと、とんでもないことを言う。

 どれだけ家に帰れと言っても帰りたがらなかったわけがそれか。それならそうと言えばいいものを。


「おぬし、そんなことはひと言も申さなかったではないかっ。そうと知っておれば、帰れなどとは――」


 すると、幸之進は急に柔らかな面持ちでつぶやく。その目の奥には、年に見合わない深さがある。


「帰れと言いながらも、親信殿は置いてくれたな」

「怪我人を放り出すわけにはいかぬからだ」


 それがずるすると長引いた。それだけのはずである。

 幸之進は淡々と、随分遠い昔の出来事のようにして語る。


「――向こうの筋書きは、上田が俺を外へ連れ出し、そこで始末するというものだった。しかし、上田はそんなことはできぬと、俺にすべてを語ったのだ。だから俺は、上田とひと芝居打ち、俺を斬ったところを手の者に見せた。その血刀を持って戻り、あの傷では助からぬとでも言っておけ、俺がどうなったのか確かめに戻るなと命じた」


 小次郎は清廉な男だ。いかに立場があろうとも、何故そんな役目を断らなかったのだろう。断れば消されるとしても、罪のない者を斬ってまで己の命を惜しむような男ではない。

 親信が小次郎に目を向けたせいか、小次郎は苦しげにつぶやいた。


「その申し出を断って俺自身が葬り去られたとしても、他の誰かが刺客に回るだけだ。それから、断れなかったのは、それが理由でもない」


 召し抱えられた小次郎の方が長屋暮らしの親信よりも苦悩して過ごしていたのか。少なくとも、親信は沙綾や子供たちと暮らせて仕合せを感じることが何度もあった。そのことを今、しみじみと思う。それは失った日々であるから尚更なのかもしれなかった。


 幸之進は小次郎に目を向けないままでいる。加乃を捜しているからでもあり、小次郎が幸之進の目に罪の呵責を感じるからだろうか。


壱哉いちや継母上ははうえが憐れだったからだろう? 俺は、おぬしを責めるつもりはないと申したぞ」


 声こそ素っ気なくはあるものの、それは幸之進の本心だろう。小次郎を責めてはいない。


「おぬしを邪魔に思うたのは、父の妻女ということか――」


 幸之進は嘆息する。


「ただでさえ、我が子を喪って悲しみに暮れていたところに隠し子が表に出てきてみろ。それは殺意も抱く」


 命を狙われているとは思えぬほど、その継母に同情的な物言いをする。確かに憐れではあるのかもしれないが、だからといってその隠し子を消してもいい理由にはならないだろう。これでも生きているのだから。


「御方様は毎日泣き暮らしておられた。壱哉様は利発で、非の打ちどころのない御子であったから、悲しみは深い。そこへ幸之進様がいらした。幸之進様は、悲しみに暮れる屋敷の中に少しずつ光を当ててくださるようで、屋敷の皆は悲しいながらにも立ち直りつつあったのだ。それがまた御方様には耐えがたかったのだろう。皆がこうして壱哉を忘れてゆくのだと、幸之進様に憎しみを抱き始めておられた」


 幸之進は、人の心の隙間に入り込むのが上手い。しかし、それが仇になったというわけだ。


「御方様は、俺に幸之進様を連れ出して始末するようにと申しつけられた。俺にその命を下されたのは、俺が壱哉様の剣術指南役で、接した時も多く、その分、情があるはずだという理由からだ。このまま俺までもが皆と同じように幸之進様を受け入れたのでは、死んだ壱哉様が憐れだと泣きつかれては、その場で断ることができなかった」


 そんなことをしても、その子は生き返らない。それどころか、跡継ぎがいなくなれば家の存続に関わる。どれだけ悲しかろうと、その悲しみに流されたのではいけない。

 幸之進はその話をため息で打ち切った。


「継母上との折り合いが悪いのを理由に、俺は母の実家に戻ってもよかったのだ。それをさせぬ父上が悪い。今まで不憫な思いをさせたとかなんとか、たわけたことを。俺は不憫であったことなど一度もない。あるとすれば、父上のところに行ってからだ。父上が出張っては、微禄の伯父上が意見できるはずもない。俺は猫の子のように手渡されたわけだ。なんと迷惑な父か」


 命を狙っている継母よりも父親の方が腹立たしいらしい。

 育った母の実家に戻りたくとも、戻れば伯父たちを巻き込むことになる。生きていることが知れたのではまた命を狙われてしまうのだ。

 いや、どこにいても生きている限り狙われるのなら、このままではいけない。しかし、どうにかできるとも思えない。


 幸之進はこのままふらりと流れて継母に見つからぬように暮らしていければいいと思っているのだろうか。それなら、親信のところはいい隠れ蓑だったのだ。なんの接点もない貧乏長屋だ。こんなところにいるとは思いもしなかっただろう。


 これからも小次郎が口をを噤んでいてくれるのなら、匿い続けるべきだろうか。

 わけを知った以上、放り出すこともできない。

 小次郎は役を辞したと聞いたが――。


「小次郎、手傷を負った幸之進の居場所をおぬしは突き止めておったのか?」


 それが旧友の住処と知ってやはり驚いただろうか。

 しかし、小次郎はかぶりを振った。


「いや、御方様の手の者が見届けておったので、その者を煙に巻くことで精一杯だった。跡を追うことはできず、あの界隈のどこかにおられると思ってはいたが、やはり怪我を抱えてのことだ。浅く斬ったとはいえ、どうなったのか気が気ではなく、役を辞してから様子を窺いには赴いた。しかし、侍が町家で人を捜すのは目立つ。大っぴらに人に訊ねるわけにもいかず、確かな居場所は存じ上げなかった」

「だから、来るなと申したのだ。俺も、親信殿が上田の知己であると知っておったら、親信殿のところに潜んだりはしなかったがな」


 そう言って、幸之進は苦笑した。

 そこに関しては、親信と小次郎も互いの居場所を知らなかったのだ。いかに幸之進でもそこまで察知できるはずもない。

 幸之進は急に手を伸ばして、難しい話ばかりする大人たちの中で固まっている親太郎の頭を撫でた。


「――子供の姿が見えたのだ。二人、仲良く遊んでおった。子がいる家ならば安心だろうと思い、選んだ」


 そこで一度、くすりと笑う。


「しかし、帰ってきたのは大男の侍だ。肝が冷えて、しばらく気を失ったふりをして様子を窺っておった」

「よく寝ると思ったら狸寝入りか」

「済んだことだ、許してくれ。しかし、母親がいないながらに、子供二人と慎ましく暮らしている、あたたかな家だ。偉くなくとも、金がなかろうとも、こんな父親のいる暮らしが俺には羨ましかったのやもしれん」


 不器用な父親が、亡き妻の代わりなど果たせるはずもなく、日々子供たちに不自由な思いばかりさせていると感じていた親信だ。幸之進が寝たふりをしながらそんなことを考えていたとは思いもよらなかった。


 こんな時なのに――こんな時だからか、親信は妙に幸之進の言葉が沁みた。

 それを知ってか、知らずか、幸之進は静かに言う。


「加乃殿はよい子だ。己を守り、育ててくれた親信殿に感謝しておるよ。ただ、少し驚いただけだろう。早く見つけてやらねばな」

「ああ――」


 加乃がよい子なのは、親信が誰よりも知っている。それなのに、不意に涙が溢れそうになるのは何故だろうか。

 それを隠して首を振ると、胃の腑でも痛むのかというような顔つきをした小次郎が目に入った。

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