第54話

 ――あれは、今から五年ほど前のこと。


 沙綾と共にこっそりと夏祭りに出かけた帰り道であった。薄暗い中、橋のたもとを通りかかると、小さな赤ん坊を抱いた女が二人の前にやってきた。女はひどく困っていた。


「すみません、少し目を離した隙に上の子とはぐれてしまって、すぐに連れ戻してきますから、ちょっとだけこの子を預かっていてくれやしませんか?」


 色の白い、可愛らしい赤ん坊だった。兄弟たちが着古したらしき襤褸をまとっていたけれど、寝顔は無垢そのものだ。


「ええ、構いません。どうか慌てずに。ここで待っておりますから」


 沙綾がそう言って赤ん坊を受け取った。二十歳を過ぎた程度の親信はとてもではないけれど、あんなにも小さくて弱い赤ん坊など抱けない。壊してしまいそうで怖かった。

 けれど、沙綾は慣れた手つきで赤ん坊を抱き、ふふ、と柔らかく微笑んでいる。それを見た赤ん坊の母親は安堵したのか、一度顔をくしゃりと歪めて頭を下げた。


「どうか、よろしくお願いしますっ」


 背を向けて駆け去る。上の子を捜しに行くから急いでいるのだと、この時は不思議にも思わなかった。

 しかし、半時(約一時間)、一時(約二時間)と待っても赤ん坊の母親は戻らなかった。


「さすがにそろそろ戻らないと見つかってしまうな」


 親信と沙綾の仲は二人だけの秘め事であった。すぐに戻るつもりで、こっそりと抜け出してきたのだ。


「ですが、この子をどうしたらよいのでしょう」


 沙綾が心配そうに眠る赤ん坊を見つめた。


「――番屋へ届けよう。あの母親も、私たちがここにいないとなると、近くの番屋へ行くだろうから」

「まだ赤子でございます。置いてきてよいものでしょうか」


 ずっと沙綾が抱いていた。疲れただろうに、沙綾は赤ん坊の心配ばかりしていた。優しい娘なのだ。

 赤ん坊のぬくもりを直に感じていたせいか、ここで手放していいものかと思ってしまうのだろう。


 親信は、これだけ来ないとなると、あの母親に何かが起こったのかとも思った。もしくは、最初から迎えに来る気などなかったのか。育てて行けぬと、この子を捨てたとも考えられた。そうであってほしくはないとしても。


「帰ろう」


 もし捨て子なのだとしても、親信にはどうすることもできない。可哀想だと思うだけだ。

 自分も母に捨てられたから、胸は痛む。ただ、親信とは違い、この子は母の顔すら覚えていないだろう。それがかえって救いかもしれなかった。


 沙綾は悲しげにうなずく。二人で番屋に寄り、事情を話して赤ん坊を置いて出た。

 しかし、そのすぐ後、帰りが遅れたせいで二人の逢引きは沙綾の父の知るところとなる。


 目をかけて置いてやっていた親信が愛娘と割りない仲になり、沙綾の父は激怒した。親信を追い出すだけでは収まらず、沙綾をも家から叩き出したのだった。


「この忘恩の輩めがっ。顔も見たくないわっ。どこへなりとも消えろっ」


 ろくに金を稼いだこともない若造であった親信だから、途方に暮れた。真面目に剣術に打ち込んでいれば、いつか引き上げてもらえる日が来ると夢想していた親信がいきなり沙綾を養えるはずもなかった。

 むしろ、落ち着いていたのは沙綾の方だ。


「親信様、寄りたいところがございます」


 どこへ行くという当てもなかったから、沙綾が行きたいというところへふらりと立ち寄った。それはあの赤ん坊を預けた番屋であった。


「邪魔を致します。あの子の母親は来ましたか?」


 すると、番屋で休んでいた役人がかぶりを振った。


「いいや、来ないだろうな。捨て子だよ、この子は。憐れなもんさ」


 やはり捨て子なのか。

 赤ん坊は、己の置かれた境遇にまだ気づいていない。きょとんとした目をしている。大人しい子だった。


「抱いてあげてもよろしゅうございますか?」

「ああ、いいぜ」


 畳の上に転がしてあっただけだ。沙綾が抱き上げると、赤ん坊はキャッキャと嬉しそうに声を立てて笑った。あまりの愛らしさに、沙綾だけでなく親信まで口元を緩めた。


 これからの暮らしに不安はあるのに、それでも赤ん坊の瑞々しい活力に助けられたような気分だ。これから、まだ何ひとつ決まってはいないけれど、沙綾と二人でどうにかして生きていけたらそれだけでいいのだ。

 そう思った親信に、沙綾は赤ん坊をぎゅっと抱き絞めながら言った。


「親信様、この子を母親から受け取ったのは私でございます。よろしくと頼まれたのはそういうことであったように思えてなりませぬ」

「沙綾?」

「私はこの子を育てたく思いまする」


 絶句した。己たちの身の振り方も決まっていない若人二人が、赤ん坊の親になどなれるはずがない。しかし、沙綾は引かなかった。


「親信様がどうしてもお嫌でしたら、その時は仕方ありませぬが」


 仕方がないから、赤ん坊と二人で生きていくと、捨てられるのは親信の方である気がした。

 可哀想だが、捨て子など珍しいことではない。沙綾がそこまで肩入れするのは、やはり受け取ってしまったからなのだろうか。


 沙綾は儚く見えても芯が強い。こうと決めたら曲げない。やり遂げるつもりでなければ口にも出さないのだ。沙綾がこれを言った以上、親信に選べるのは、沙綾と赤ん坊を見捨てるか、赤ん坊の父親になるかのどちらかである。


「こんな私が、この子の父になれるだろうか?」


 不安だらけで口にすると、沙綾は穏やかに微笑んだ。


「もちろんでございます。大事に育ててゆきましょう」


 ――この時のことを、後に沙綾は笑いながら語った。


「加乃がいたから、私と親信様は夫婦になれたのでございます。そうでなければきっと、どこかで躓いておりました。加乃が私たちを繋いでくれたという気が致します」


 加乃。

 女子の赤ん坊にそう名づけたのは親信だ。

 血の繋がりはなくとも、家族に加わった子なのだ。だから、加の字を入れた。


 それから、手狭でも雨風が凌げる長屋を借りることができた。沙綾は出て行けと言われたものの、人別帳はそのままの内緒勘当であった。しかし、許される時が来るのかどうかはわからない。

 親信にしても後ろ盾は何もなかった。


 そんな二人を快く引き受けてくれる長屋は、正直なところほとんどなかったのだ。

 流れていくことを繰り返した。少し店賃を溜めたらすぐに出ていってくれと言われる始末であった。今のきなこ長屋に落ち着いたのは、親太郎が生まれた後のことだ。


 この時、隙間風の入り込む長屋のひと間で、引き取ったばかりの加乃を挟み、夫婦になった沙綾と語り合った。


「加乃が捨て子だということを知ったらきっと傷つく。それでも、ずっと黙っていることはできぬだろうか」


 すると、沙綾は人差し指を唇に当て、言ったのだった。


「加乃は、私と親信様の血を分けた娘。――この嘘は、墓まで持って参りましょう。そうすれば、真実になりまする。約束でございますよ」

「ああ、そうだな。加乃は、私と沙綾の血を分けた娘だ」

「ええ、そうでございますとも」


 嘘は嫌いだ。

 けれど、この嘘は必要な嘘。

 家族が家族としてあるために。親子の絆が切れぬために。


 しかし、嘘は暴かれる。嘘は所詮、真実にはなり得ないのか。

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