第53話
翌日は朝から幸之進を捜しに出かけるので、親太郎も連れてゆくことにした。一応、隣の半治に声をかける。
「――そうした次第だ。もし、私たちの留守中に幸之進が訪ねてくることがあればそのまま捕まえておいてくれ」
そうは言うものの、来ないことはわかっている。それは半治も同じだった。
しかし、加乃たちの手前、それを面には出さない。幸之進を捜すと知って、今日は親太郎の目にもほんの少し活力が戻っていたのだから。
「そうですかい。わかりやした。お気をつけて」
半治もまた、幸之進は水臭いと思っているはずだ。
誰にしたって、こんな幕切れは我慢ならない。
「時に、お兼殿はどうしておるのだ?」
それを訊ねてもいいものか迷った。しかし、もしかすると幸之進が消えた背景に兼が関わっているということもあるかもしれない。
しかし、半治の様子からそれは読み取れなかった。
「姉貴とはあれっきりでさ。もともと頻繁に会うような仲じゃねぇんで。親父が弱ってきてから俺のところに顔を出すようになっただけで、その親父も死んだことだから、今度はよっぽどの用がなけりゃ来ねぇかもしれやせん。俺は薄情な弟なんで」
やはり、半治は何も知らない。きっと、これでいいのだろう。
からりとした口調で言った半治だが、それがかえって痛々しくもあった。親信はただうなずく。
「そうか。要らぬことを訊いたのならすまぬ」
「いえ。――幸之進様がいねぇと静かで、前はずっとこんなだったってぇのに、調子が狂っちまいやす」
「ああ、そうだな。うるさいやつだった」
思えば、隣人とはいえ、以前は半治と口を利くこともそれほどなかったのだ。幸之進が来てから、沙綾を亡くして殻に閉じ籠っていた親信が長屋に溶け込み始めていたのかもしれない。
昨日は浅草寺の方面を捜した。今日は浅草を出てみるかと、ほんの少しだけ遠出をすることにした。しかし、本所には足を向けないつもりだ。
――本所は、沙綾の実家があるのだから。
それにしても、幸之進の家が本当に家禄のある旗本であったとするなら、その屋敷はどこだろうか。番町辺りか。そちらに素直に帰らないつもりなら、真逆の方面へ進むとも考えられる。
本所を避けてどう進むか。両国辺りがいいだろうか。それとも下谷か。
見つかるとは思っていない。それでも、親信が真剣に捜さなければ、加乃や親太郎が傷つく。子供たちの気が済むように付き合ってやりたいだけなのだ。
「さあ、どこにいるのだろうな、あやつは」
独り言つと、加乃は親信の袖をぎゅっと握った。
「父上、幸之進様はあまり人の多いところを好まない気が致します」
それはそうかもしれない。幸之進は家の者に見つかって連れ戻されるのを恐れていた。それから、斬られるはめになった侍と鉢合わせするのも嫌だったのだ。
結局あの時、幸之進を斬った侍のこともわからずじまいだ。幸之進自身が知らない顔だったと言った。行きずりの男なのだと、それ以上深くは考えなかった。
けれどもし、親信が成り行きとはいえ人を斬ってしまったら、まったく気にせずに毎日を過ごすことなどできただろうか。それはどうしたって無理な話である。
それならば、斬ったはずの若侍が生き延びたのか死んだのか、それを確かめに来たのではないのか。己の罪が露見するのを恐れたその侍に、幸之進は再び命を狙われる恐れがあると考えて逃げたのだとしたら――。
そう考えると、辻褄が合っているように思えたけれど、よく考えたらそれも妙だ。幸之進が親信のところへ転がり込んでから時が経ちすぎている。それならもっと早くに幸之進は逃げたはずなのだ。何故、今になって姿を消したのかがわからない。
やはり、本人が書き残したように、観念して家に戻ったのか。
つい考え込んでしまった親信の襟を親太郎がぐいぐいと引っ張った。
「ちーうえ」
「ああ、すまん。そうだな、表ではなく裏道を選びそうではある。そちらを行くか」
「はい、そうしましょう」
加乃も意気込んで答える。
しかし、そんな狭い道で幸之進どころか知己に出会うとは思えなかった。それでも、子供たちに付き合うつもりで親信は往来から逸れることにした。
家の陰になった通りは、朝のうちしか日も当たらない。履物の下に湿った土を感じつつ、親信は親太郎を抱えて歩いた。加乃もいることだから、あまり早くは進めない。
細かな道を蛇行するつもりでいた親信に、幸之進ではないが懐かしい声がかかる。
「向井」
ハッとして振り返る。幻聴ではないかと、そんなふうに思えるほど懐かしい声だった。
「こ――」
幻ではない。そこにいたのは、親信が知るよりも会わなかった歳月の分だけ年を重ねた小次郎だった。月代は伸び、無精髭が目立つ。痩せてはいるものの、剣を振るうのに支障があるほどではなかった。着物も親信の方がよほど
顔色がよいとは言えず、疲れも見えるが、病ではない。
困窮しているのではないかと、会って話ができたらと思っていた旧友だ。ここで会えたことに強い驚きと、言い表せない感情が込み上げてくる。
けれど――。
何故今なのだ。ゆっくりと話せる時ではない。
嬉しい気持ちはもちろんあれど、今は小次郎と落ち着いて話すゆとりがなかった。それでも、また日を改めて話したい。
親信は足早に小次郎に近づき、袖口をつかんだ。
「小次郎っ。何かと噂を聞いたのだ。おぬしに会えたらと考えておったところだ」
父の勢いに、親太郎は驚いて固まっている。その親太郎を見て、小次郎はフッと目元を柔らかくした。
「この子は沙綾殿との子か。おぬしにも似ておるが、沙綾殿にもどことなく似ておるな」
「そうだ。親太郎といって、三つになる。それから――」
言いかけた親信よりも先に、小次郎の目が後方にいた加乃に留まった。
この時、親信は己の愚かさを悔いることになる。それは、沙綾にどれだけ謝っても許されないような失態であった。
「あの娘もおぬしの子か?」
小次郎がそれを問う。親信は、元来口下手なのだ。どうすればよいのかなど考えられない。
「そうだ」
それしか言えない。加乃は、己と沙綾の子だと。
しかし、小次郎はかぶりを振った。
「おぬしと誰の子だ?」
「沙綾に決まっておる」
似ていないなどと言うのなら、似ていない親子などごまんといる。変だとは言われたくない。
そんな親信の心を、小次郎は酌んではくれなかった。訝しげに口にする。
「そんなはずはなかろう。おぬしと沙綾殿が出ていった時、沙綾殿の腹は膨らんでおらなんだ。あんな大きな娘がおるはずがない。帳尻が合わぬ」
――この嘘は、墓まで持って参りましょう。
そうすれば、真実になりまする。
約束でございますよ。
夫婦の間で小さな加乃が眠りについた時、沙綾が母親の目をして言ったのだ。この時から、親信は父親になる決意をした。
小さな、弱い、柔いこの赤子の父になろうと。沙綾と共にこの子を育て、守り抜こうと。
晒してはならない嘘が、最悪の時に露見する。これはなんの因果だ。
こうならぬように、知己の多い本所界隈には踏み入らなかったというのに、その程度で隠し通せると思った親信の方が愚かなのか。
加乃は、大きな目を零れんばかりに見開いたかと思うと、唇を動かした。何を言おうとしたのかもわからない。声には出さなかった。
それでも、加乃の心がどれほど惨たらしく傷ついたのかは親信にもわかる。
両目から大粒の涙が零れ落ちたかと思うと、加乃は親信に背を向けて駆け出した。
「加乃っ」
親太郎が、親信の腕の中で耳を塞いだ。知りたくないことが、耳を塞いでも押し寄せてくるようで耐えがたかったのだろうか。
親信は親太郎を抱えてでは機敏に動けない。けれど、ここに親太郎を残して加乃を追いかけるのは不安だ。小次郎に任せることはしたくなかった。
旧友ではあるけれど、歳月が流れたのだ。今の小次郎が親信の知る男と何ら変わりないとは言えなかった。
「加乃っ」
名を呼びながら、親太郎と共に加乃を追う。しかし、小さな背中はすぐに雑踏に埋もれてしまうのだ。
「話を聞いてくれっ」
話を。
そこには容易く語り尽くせない思いがある。
何かの間違いだろうと、問い質してくれたならいい。逃げずに向き合って、話を聞いてくれたのなら――。
しかし、加乃は一度も振り返らず、ただ親信から逃げた。
この大事な時を親信が一人で乗り越えなくてはならないとは。もし、加乃が自分の出自を知る日が来たとしたら、その時は沙綾と共に頭を悩ませ、言葉を選びながら向き合うはずであったのだ。
それが、沙綾はもういない。無骨な親信が、傷ついた加乃を癒さなくてはならないのだ。
「加乃っ」
名を呼びながら捜し回る。小次郎は罪悪感でも覚えたのか、親信の後をついてきた。
「向井、すまぬ。俺が要らぬことを口にしたせいで――」
悪気がなかったのはわかる。おかしいと思うのも仕方はない。
小次郎を責めたところで、加乃が聞いてしまったことを取り消せないのだ。
血の繋がりだけがすべてだというのなら、確かに加乃は親信の娘ではない。
それでも、赤ん坊の頃から共に過ごし、成長を見守ってきた。それが家族ではないというのか。親太郎と同じように、加乃も親信にとっては娘なのだ。そのつもりで今まで過ごしてきた。
違うとは、誰にも言わせない。
道を行く人々は、親信を気違いでも見るような目をして避ける。けれど、そんなことはどうだっていい。今は加乃を見つけ出して、加乃は己の娘なのだと言ってやりたい。そこに血の繋がりはなくとも。
「加乃っ」
角を曲がった際、動揺が足をもつれさせた。親信は親太郎を抱えているせいで手を突くこともできず、親太郎を庇って肩を打ちつけて転がった。人通りのない道であったのが幸いだろうか。
親太郎は、ここ数日のうちに、幼い人生の中で味わう異変が怒涛のようで、心が脆くなっていたかもしれない。親信と一緒に転げると、また大声で泣き叫んだ。
親信自身も泣きたいような気持ちであった。打ちつけた肩の痛みが、どうしようもないほどの苦痛に思えて、早く起き上がらなくてはならないのに、動けなかった。
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