第52話
その日、親太郎が泣き疲れて眠るまで一時(約二時間)を要した。ずっと抱き留めて背を摩っていた親信が夕餉の支度などできるはずもない。
加乃も口には出さないが、深く傷ついているように見えた。
こんなにもあっさりといなくなった幸之進は、加乃や親太郎が悲しむことを考えなかったのだろうか。もう会わないからと、考えないようにしたのかもしれない。振り切って、忘れて、幸之進はそれでよかったのだ。
つらいのは、そうやって捨てていかれた側だ。
愛嬌があって、人の心にするりと入り込むのが得意な幸之進は、誰に対してもそうだ。どこへ行ってもそれなりに上手くやっていけるから、このきなこ長屋にこだわる必要はない。
家に帰るというのも本当かどうか。嘘かもしれない。他に行きたいところができたからそういうことにしたのではないだろうか。
そんなふうにも思えてくる。
最初から最後まで、あの男の考えることは親信にはわからない。
泣き疲れて眠った親太郎の腫れた目元を眺めていると、なんとも言えず腹立たしさが込み上げてくるのだった。
「父上――」
加乃が言いづらそうに声をかけてくる。親信は苛立ちをひとまず横に置いて加乃に顔を向けた。
「すまぬな、加乃。腹が減っただろう?」
「いえ、今日はもう何も食べたくありません」
悲しそうにそんなことを言う。食事が喉を通らないほど悲しいのかと思うと、可哀想でならなかった。
「――最初からいなかったものと思うことはできぬか?」
ふざけては加乃を嫁にもらうなどと言うから、加乃も置いていかれたような気になってしまうのだ。あんな男は顔だけが取り柄で実がないのだと言いたいけれど。
加乃は肩を落とすとつぶやいた。
「幸之進様が御家に帰られるのは仕方のないことだと思います。ただ、それでもお別れはしっかりと申し上げたかったのです。それが心残りでなりません」
それだけ言うと、加乃の目からぽたりと涙が零れた。親太郎のように泣き叫ばないだけであって、静かに泣く加乃も同じように悲しみが深いのだ。
親信が手習所にいる間、三人で留守番をすることが多かった。親信よりも子供たちの方が多く幸之進と接していたと言えるのかもしれない。
幸之進がいて、加乃は救われていたのだと、親信は改めて感じた。母を亡くし、弟の面倒を見なくてはならなくなった加乃にとって、幸之進はそこにいてくれるだけでよかったのだ。
「たくさん助けて頂きました。いつも褒めてくださいました。そのお礼を言い残しています。どうしても、もう一度、お会いしたい、です――」
ひく、としゃくり上げる加乃が憐れでならなかった。
これでは、あんな男は放っておけとは言えない。
しかし、本当に幸之進を辿るための手掛かりはほぼない。家に帰ったのならそれまでだろう。
もし、家に帰るというのが嘘で、まだその辺りをふらついていたとしたら、もしかするとまだ出会う可能性は残っているかもしれない。
「加乃、二日間だけこの辺りを捜してみる。それで見つからなかったら、本当に家に帰ったのだろう。その時は、また会うことは難しい」
「はい。それでも、諦めてしまうよりはわたしも捜したいです」
「わかった」
明日は手習所がある。明後日は休みだ。
その一日を丸ごと使っても見つからぬのなら、幸之進との縁もそれまでだろう。
あの憎たらしい顔を見たら殴りたくなるが、加乃がここまで言うから探すだけだ。決して、親信自身が虚しいような気分でいるからではない。
親太郎は目が覚めても泣き、すっかり気落ちして朝餉もろくに食べなかった。いつもならにこにこと笑って送り出してくれるのに、暗い目をして朝からひと言も口を利かなかった。
口を開くと泣いてしまうから、何も言えないのだ。常に何かを
その手の平に、あの若侍と過ごした日々の思い出が詰まっているようにして。
そんな息子の姿に、親信もどうしてよいのかわからなかった。ただ、事情を知って気を利かせてくれている長屋の皆が、親信の留守中に子供たちを見ていてくれると言う。
「あたしたちがついているからね。大丈夫だよ」
みちがそう言ってくれる。加乃は親信と幸之進を捜すという約束をしたせいか、親太郎よりは落ち着いていた。
「父上、いってらっしゃいませ」
三つ指突いて送り出してくれる。そんな加乃のためにも今日は早く帰らねばと思う。
手習所の子供たちには、幸之進が帰ったことを告げずにいた。親信自身がまだ狐につままれたような気分であったのだ。子供たちに上手く言えない。
ただ、沙綾の墓前で祈った。
これ以上、加乃や親太郎が悲しまないで済むようにと。
幸之進が親信たちと共にいたこと自体がおかしくて、帰ったのは自然の成り行きだ。いつまでもというわけにはいかないことくらい、誰だってわかっている。
それでも、心の準備というものがいるのだ。いきなり消えるのはひどい仕打ちでしかない。
あの男は適当に見えて、人の心の機微を読めると思っていたが、それは買いかぶりだったのだろうか。そうでないのなら、あの置き文ひとつで出ていった理由がわからない。
親信は、夕餉の菜のことも何も考えず、ただ急いで家に戻った。親太郎は夜具に包まって寝ていた。
加乃は親太郎を起こさないようにそっと戸口の親信の方に近づく。
「お多摩さんやおみちさんに頼ってばかりで申し訳ありませんが、親太郎をお願いして参ります」
幼い親太郎を連れていると、行けるところにも限りがある。家に置いてきた方がいいと加乃も考えるのだろう。
「うむ。捜すのは暮れ六つ(午後六時頃)の時の鐘が鳴るまでだ」
「はい」
見つかるはずがない、と親信は思っている。加乃の気が済むように、それに付き合うだけだ。
加乃はどうだろうか。諦めるために捜すのか、本気で見つけようとしているのか、どちらだろう。しっかりしていても、まだ子供だから。
「幸之進様が頼れる方というのは長屋の外におられるのでしょうか?」
木戸を抜けてすぐ、加乃がつぶやいた。
幸之進に少しばかり面立ちが似た、従兄の
浅霧の家にはまず頼らないとわかっている。幸之進にとって母の実家は大事な場所なのだ。己のせいで苦しい立場に追いやりたくないのだろう。
馬之介を訪ねることはできるが、しかしそれは最後の手段とも言うべきものだ。しかし、実際のところ、幸之進の家を知っても役には立たない。はっきりと聞いたわけではないが、格が違いすぎる幸之進の家に親信のような浪人が訪ねていけるはずもない。
やはり、本当に家に戻ったのなら、もう会うことはない。幸之進自身が会いに来てくれない限りは。
「いや、この辺りにはおらぬのではないか? 精々が藤庵先生だろう」
「それなら、一度藤庵先生のところを訪ねてみませんか?」
幸之進が藤庵を頼るとは考えにくかったが、加乃がそうしたいのならいい。
「わかった。そうしよう」
幸之進の家は、きっとこの浅草界隈から遠いのではないかと思う。ここへ来る前は馬喰町の旅籠で泊ったと言っていた。見つかりづらいように遠出をして、そこでいざこざに巻き込まれたのだ。
けれど、その場合、家に戻るまでに少々の銭が要るのではないかと思う。
紙入れをそっくりそのまま置いていった。手持ちはあるのだろうか。
親信に紙入れを渡した時、少しばかり中身を抜いて持っていたのかもしれないと思って確かめたが、
田原町へ向けて歩く時も、加乃は辺りをきょろきょろと見回していた。騒がしい雑踏の中に幸之進がいないか捜している。そこにいてくれたらいいが、そのような近場にはいなかった。
そして、藤庵の家に足を運んだが、藤庵は留守であった。藤庵は徒歩医者だから出歩いていることの方が多いのだ。玄関先もしんとしていて、中に誰かいそうな気配もない。
加乃はしょんぼりと肩を落とした。
そのまま浅草寺の中や通りを歩いた。しかし、幸之進らしき姿は見えない。やはり、すでに遠く離れてしまったに違いない。
もう無理だと、諦めろと加乃に声をかけたいが、あまりに必死だからそれを言えば傷つくのがわかる。
「わ、わたしが甘えすぎたから、幸之進様は嫌になったのでしょうか」
目にいっぱい涙を溜めながらそんなことを言う加乃に、親信も胸を締めつけられた。
「そんなことはあるはずがない。むしろ、加乃の方があやつの世話をしておったではないか。そういうことではない。きっと、あやつなりの事情があってのことなのだ」
川沿いを歩くと、川のせせらぎの音さえ物悲しく聞こえた。
それでも、沙綾を亡くした時の苦しさに比べればなんでもないことだ。親信はそう割りきれる。しかし、子供たちは、母を亡くした悲しみの後に再び楽しさを感じさせてくれた幸之進とは離れがたいのだろう。
これも、幸之進が家に帰ろうとしないからと、子供たちを任せすぎた親信のせいかもしれない。
日が傾き出したから、荷売屋で夕餉の菜を買い、親信は加乃と帰った。親太郎は起きていたけれど、今日は泣き喚くのではなく、信じられないくらい静かだった。
「親太郎、寂しいのも今だけだ。以前の暮らしに戻っただけなのだ」
膝に親太郎を載せて、親信はゆっくりと言って聞かせる。言い聞かせても心まで塗り替えられるわけではないから、親太郎の悲しみの深さは変わらない。それでも、せめて安心を与えてやりたいとばかりに、親信は親太郎をずっと膝に載せていた。
夜具に潜ると、啜り泣きが聞こえる。
しばらくはどうしようもないことなのだ。
悲しみは時が癒してくれるのを待つしかない。
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