第51話

 その翌日も、幸之進は加乃たちとの留守番を選んだ。子供たちと親信を見送る。

 こんな毎日に慣れて、家族でもない若者が一人混ざっていることが不思議でなくなった頃、異変は起こった。


 親信が何気なく、通りかかった屋台で饅頭を買ったのがいけなかったのかもしれない。

 柄にもないことをするから、おかしなことが起こったのかと。


 最近、幸之進が甘味を要求してこないから買わなかったが、子供たちもきっと食べたくなった頃だろうと、饅頭を買って帰ったのだ。


「只今戻ったぞ」


 がらりと障子を開けると、そこにいたのは加乃と親太郎と多摩たまである。


「おや? お多摩殿か」


 何故か多摩がいて、幸之進がいない。親信が首を傾げると、多摩は慌てて立ち上がった。


「幸之進様が、少し用があるから子供たちを頼むと仰られまして」

「幸之進が?」


 用があるというが、幸之進に用などあるのだろうか。何をするでもなく家にいるだけの男だというのに。


「それはいつの話だ?」

「半時(約一時間)ほど前でしょうか」


 加乃と親太郎に目を向けると、二人はうなずいた。


「なんの用だかは聞いておらぬのか?」

「はい。御用があるというのもお多摩さんから聞いたほどで、『ちょっと出てくる』とだけ申されましたので、てっきり、その――」


 加乃が言いにくそうにする。厠に行ったのだと思ったのだろう。

 いつもならそうなのだ。しかし、半時も厠から戻らないということはまずないだろう。


 それでも親信は饅頭を棚に置くと、長屋の後架(厠)を見に行った。そこはやはり無人である。念のために半治と和吉、大家のところも覗いてみたが、幸之進はいなかった。


 こんなことは初めてである。

 幸之進が長屋から一人で出かけたことは今までに一度もない。

 一体、用とはなんなのだろうか。


 どことなく不穏なものを感じつつも、親信は部屋に戻った。いないやつが悪い、と饅頭を多摩に振る舞う。


「饅頭を買ってきたのだ。お多摩殿も食べていくといい」

「あ、ありがとうございます」


 多摩が気を聞かせて茶を淹れてくれた。しかし、子供たちはせっかく饅頭を買って帰ったというのに笑わない。幸之進のことが気になるのだろう。


「まったく、行先くらい告げてゆけばよいものを」


 と、親信もぼやいた。

 それでも、幸之進はなかなか戻らなかった。多摩も家に戻り、親信は子供たちと三人になった。



 あまりに帰らないので、親信は加乃と共に夕餉の支度を始める。そのうちに帰るだろうかと、椀を取り出すのに幸之進が使っている箱膳を開けた。


 すると、その箱膳の中に半紙で包んだ文のようなものが入っていた。こんなもの、いつ入れたのだろうか。


 妙な胸騒ぎと共に半紙をはぎ取ると、中に包まれていた文を開く。いい加減でふざけた性格に似つかわしくない流麗な文字は、確かに幸之進の手によるものだ。

 そこにはこうある。


 ――家に戻ることにした。

   世話になった。

   この恩は生涯忘れぬ。

   渡した金の残りは謝礼として受け取ってほしい。


 簡素なものだった。

 あれだけ居座った男の別れの挨拶にしては呆気ない。

 大体、これは置き文で済ませることではない。面と向かって頭を下げるくらいのことはしてもよいのではないのか。


 もしかして、これは再び身隠さねばならなくなったということだろうか。

 父親の家、それから、斬られた侍、半治の姉の兼。


 厄介事が多いのだ。まさか、親信と子供たちを巻き込まぬために出ていったというのだろうか。もしそうなら、もう少し詳細を書き残してもよさそうなものである。

 もやもやと、胸の奥からやり場のない感情が押し寄せてきた。


 いつでも帰ればいい、さっさと帰れと思ってきたのに、いざそうなると拍子抜けもいいところだった。幸之進に言ってやりたい言葉が多すぎて、呑み込むのに苦労する。


「父上?」


 加乃が親信の様子がおかしいことに気づき、躊躇いがちに声をかけてきた。親信はハッとして文を握りつぶす。

 加乃も親太郎も、まだこんなものは読めない。隠す必要もないのだが、とっさに取った行動だった。


「いや――」


 なんでもないと言おうとして、やめた。

 加乃も親太郎も、幸之進がもう帰ってこないことを認めるしかないのだ。ごまかしても仕方がない。


 ただ、親信でさえ納得が行かないのだ。二人にしてもそれは同じだろう。

 これは幸之進のせいだ。ちゃんとした別れをしないままで去るから。


 あれだけ帰りたがらなかったくせに、急に何がきっかけで帰ることにしたのかもわからない。そもそも、幸之進がどこの誰なのかも謎のままだ。それがわからないから、もう会うことはない。

 幸之進が向こうから会いに来ない限りは。


 ごまかしても、この事実は覆せない。

 親信は、幸之進の箱膳の蓋をそっと閉めた。そして、夕餉の支度を中断する。


「加乃、親太郎、少しここに座りなさい」


 急に父が真剣な顔をして切り出すから、子供たちにも緊張が走った。

 それでも素直に二人は膝をそろえて親信と向き合う。幼い二人に告げたくはないが、隠さずに言うしかない。

 親信は、まるで剣術の試合に挑むような息遣いで力を抜き、口を開く。


「幸之進は己の家に帰ったようだ。急なことだが、もうこの家には戻らぬ」


 え、と加乃が小さく零した。親太郎はただ目を見開いている。

 そんな子供たちを見ているのが、親信もつらかった。


「これからはまた三人暮らしだ。もともと、あやつは居候、いつかは帰るつもりをしておったのだろう」


 加乃は、わかったとばかりにうなずいた。しかし、顔は上げなかった。

 けれど、親太郎にはまだそこまでの分別はない。途端に火がついたように声を張り上げて泣き出した。


「嫌だぁっ」


 うわあぁ、と今まで聞いたこともないような大音を轟かせる。耳を塞ぎたいほどの声で、長屋の連中には筒抜けだった。

 親信が親太郎を抱き留めても、親太郎は泣きやまなかった。


「親太郎、落ち着け」


 そんな声は、泣き声にかき消される。


「どうしたんだい、チカさん? 親坊っ」


 みちが障子の縁を外からどんどん、と叩く。親信が手を離せないでいると、加乃が障子を開けた。


「な、なんでもありませ――」

「なんでもないって? 加乃ちゃん、あんたも泣いてるじゃないか」


 みちが加乃の頬をすくい上げる。みちの後ろには多摩や半治といった長屋の皆の顔が見えた。

 親信は、泣き叫ぶ親太郎を抱えながら皆にも告げるしかなかった。


「幸之進が己の家に帰った。ここにはもう戻らぬ。それが子供たちには悲しかったようなのだ」


 皆がざわ、と騒いだ。


「え? ユキさんが? あたしらになんの挨拶もなく行っちまったのかい? 水臭いじゃないかっ」

「向井様といつもの調子で、出ていけ、出ていく、なんてやり取りをしただけじゃねぇんですか?」


 和吉かずきちも愕然とつぶやいていた。

 そんなことはない。

 本当に急なのだ。親信にも心当たりがない。


 昨日まで変わりなくへらへらして過ごしていたのだ。きっかけがどこにあったのか、それすらわからない。

 もともと、幸之進の中でいつまでにしようという区切りがあって、その時が訪れただけなのではないだろうか。そうとしか思えなかった。


「私にもわからん。いつもなら出ていけと言っても構わずに居座った男が、出ていけと言われてもいない時にいきなり出ていったのだ」


 思えば、やってきた時も突然だった。

 いなくなる時もこんなに呆気ないものなのだ。


 最後の最後まで腹立たしいことこの上ない――。

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