第50話
翌日、幸之進は朝から悩んでいた。
「ああ、今日はどうしようか。留守番をして加乃殿と親太郎と遊びたい。しかし、たまには手習所の子らとも会いたい。うぅむ、どうしようか」
そんなに悩むことではない。面倒くさい男だ。
「それなら今日は手習所に行って、明日は留守番をすればよいだけではないのか?」
白けた目をして親信が言うと、幸之進はぽん、と手を打った。
「おお、本当だ。親信殿は冴えておるな」
褒められても嬉しくない。莫迦にされているような気分になるだけである。
「今日はお出かけですね。いってらっしゃいませ」
加乃は行儀よく幸之進を見送る。親太郎は幼いから、もう少し聞き分けがない。
「ゆきし、行くの? むぅ」
親太郎はふくれっ面も可愛いが、父のことはあっさりと見送ってくれるのに、幸之進がいないと拗ねるのが寂しい。幸之進はそんな親太朗の頭を撫でた。
「よしよし、明日はたっくさん遊ぼうな」
それで親太郎はひとまず納得したのであった。
男二人で連れ立って歩く。道中、幸之進はぽつりと切り出した。
「親信殿は、その上田
「まあ、そうだな」
それにしては親信は長屋暮らし。雲泥の差だと言いたいのか。
ひねたことを思った親信ではあったけれど、幸之進はそんなことを言いたいわけではなかったらしい。
「それならば、親信殿の方がその剣術指南役に抜擢されていたのやもしれぬな」
もし、そうなっていたら、今頃路頭に迷っていたのは親信の方かもしれない。それがまた皮肉だ。
「妻の実家の道場で二人、剣の腕を磨いていた。だが、私は夫婦になる許しが得られず、妻と家を出て破門された。だから、そうはならなかっただろう」
その代わり、親信は沙綾を得た。小次郎もまた、居場所を得て失った。親信も沙綾を喪った。似ているのだろうか、二人は。
一度は手に入れ、至福を味わいながらもそこから突き落とされた。似た者同士なのかもしれない。
違いがあるとすれば、親信には加乃と親太郎がいるということ。忘れ形見がいるから、すべてを失くしたのとは違う。あの時選び取った道には意味があったはずなのだ。
「それならば、御新造に感謝だな。その御家に抜擢されていたら親信殿も大変なことになっていたやもしれぬし、二人で出ていって親信殿は救われたのだ。あんな可愛い子供たちもできたことだしな」
偉そうに言われた。そんなことは幸之進に言われるまでもない。
沙綾といられたことが、親信にとっては何よりの宝なのだから。
ふん、と親信はそっぽを向いて早足で進んだ。どう答えていいのか、口下手な親信には言葉が見当たらなかった。
その日、幸之進が手習所に来たのは数日振りで、子供たちは喜んだ。
「あ、幸之進さんっ」
貞市も相変わらず、幸之進には安心しきった笑みを見せる。
他の子供たちにもじゃれつかれ、幸之進はにこやかに相手をするのだった。
「よしよし、皆いい子にしておったか?」
適当な男だが、その適当さが子供にはいいらしい。手習師匠として影が薄い親信は複雑ではあるものの、子供たちが嬉しいのならいいかと思い直した。
「ほら、皆そろそろ支度をしなさい。始めるぞ」
「はぁい」
幸之進も、子供たちが書く字を見て、癖を直したりと親信を手伝う。この時、久しぶりであるせいか、幸之進の教え方は丁寧であった。妙に優しい目をして、一人一人のところへ回る。
「うむ、そうだ。上手いぞ。その調子で、ここは――」
指導をする幸之進を見ていると、親信以上に手習師匠に向いているのかもしれないと思えた。このままずっと家に帰る気がないのなら、いつまでも親信の家の居候でいるわけにはいかない。そろそろ職を見つけて己で食っていかねばならないところだ。
腕力はないし、やる気も薄い。そんな幸之進にできることがあるのならば、なんでもいいからやらせるべきだろう。
部屋も、きなこ長屋に空きができたらそこでもいいし、近くの長屋に移ってもいい。加乃もそのうち年頃になるのだから、狭いひと間でいつまでも一緒にはいられないのだ。
❖
――翌日。
親太郎と約束した通り、幸之進は留守番を選んだ。子供たちと共に親信を見送る。
親信が勤めを終えて帰ると、たっぷり遊んでもらえた今日、親太郎はご機嫌だった。本当に、親太郎は幸之進のことが好きらしい。このままだと幸之進の肩を持って、加乃と夫婦になって義兄になってほしいと言い出さないか不安になる。
根っから悪い男だとまでは思わないが、それでも加乃を託すのは嫌だ。
何故嫌かというと、何故だろうか。
やはり、得体が知れないからだ。相変わらず家も明かさないし、のらりくらりとごまかすばかりである。大体、息が詰まるからといって家出するような男では、大事な娘をやれない。そういうことだ。
ではもし、幸之進が家に戻り、ちゃんとした身の上であることを明かして加乃を嫁にもらい受けたいと言い出したならどうか。加乃当人がそれを望むのでない限り、それでも嫌かもしれない。
それは要するに、どうあっても加乃を嫁に出すのが嫌だというだけの話なのか。
「どうした、親信殿? 何を唸っておるのだ?」
などと言って、幸之進は親信の顔を覗き込んでいた。顔だけは無駄に整っている。間近で見るとそれを痛感するが、顔がよいからといってほだされる気はない。
親信は幸之進の顔を押しのけた。
「なんでもない」
「また例の御仁のことか」
「そればかりでもないがな」
「ほぅ」
そんなやり取りはいつものこと。
幸之進が長く居ついてしまったから、いつものことになってしまったのだ。
「父上、おみちさんが瓜の味噌漬けをお裾分けしてくだすったものがあります」
「おみち殿の漬物は美味い。また礼を言わねばな」
男やもめにとって、裾分けはやはりありがたい。
茶粥を炊き、瓜の味噌漬けで食べると何杯でも食べられそうだった。瓜を漬け込んだ味噌の加減が絶妙だ。この味は若い娘では出せない、などと言ったら、褒めているふうには聞こえないだろうか。
「美味いな」
幸之進も嬉しそうに茶粥を啜っている。
「美味しいです」
加乃もうなずいている。ささやかな食事だが、それでも皆で食べていられればそれで嬉しい。沙綾がいた時もそうだ。決して贅沢ではなかったが、沙綾が用意してくれるものはどれも美味しかった。親信の少ない稼ぎからやりくりして作ってくれているかと思うと、感謝しかなかった。
沙綾がいなくなって、親信と加乃、親太郎の三人だけで食べていた時より、何をするでもないが幸之進が加わって食べているだけで口数が増え、笑い声が零れるようにはなった。
出ていけと思うし、狭くて迷惑ではあるから、それは皮肉なことだというのに。
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