第49話
気になることがあると、当たり前にいつもの日常を過ごしているつもりが、何かが抜けてしまう。自覚もないままにおかしなことをしてしまうのだ。
この日、親信は子供たちが帰った後、片づけをしているはずなのに、拾った半紙をまた落としてばら撒いてしまったり、机の角に足をぶつけたり、いつも以上に無駄な動きをしていた。
今日は幸之進も留守番をしており、誰も見ていなかったのが救いである。親信は、一度机の前で姿勢を正すと、文をしたため始めた。
それは、小次郎に宛てた文である。
今、どこでどうしているのかと。気落ちはしていないか、次のことは何か考えてあるのか――心配はしても、それを伝える術がない。
こんな文を書いたところで、どこにいるのかもわからないのだから渡せるはずがなかった。それでも文を書くのは、己の気持ちを落ち着けるために過ぎない。行き場のない言の葉が紙の上を滑るばかりである。
それでも、何か力になれるのなら、なりたい。
話を聞くことくらいしかできずとも――。
親信はその文を畳んで懐にしまう。
気分はずっと落ち着かなかった。
――長屋に帰ると、部屋の前に
半治の横顔は笑っていて、そのことに親信はほっとする。
先月、半治は長く仲違いをしていた父を亡くした。積年のわだかまりは解けぬままであった。
口では何も言わない半治だが、思うところが何もないわけではない。それなりに思い悩む日々を送っている。それがふと、こうして笑顔を見せるのは、幸之進が適当な軽口で半治を笑わせるからだ。
半治は、気楽な幸之進と話したかったのかもしれない。
「ああ、向井様、おけぇりなさい」
入り口を塞いでいることを気まずく思ったのか、半治は体をずらした。親信なりに気にするなと笑ってみせる。
「只今戻った。なんだ、中に入っておればいいものを、入り口で」
「いえ、てぇした用があったわけじゃねぇんで」
半治と顔を合わせると、姉の
弟の半治は、長じてからはあまりかかわりを持たず別々に暮らしてきたこともあり、姉のことをよく知らない。姉がどのような目に遭い、どのように生きているのかを詳しく知らないのだ。
しかし、それは知らぬ方がよいことである。
姉の兼は、強請りまがいのことをしているのではないかという節がある。
幸之進はそんな兼から目の敵にされてしまったのだが、あれからまるで気にした素振りを見せない。
親信などは気になることがあると、それを隠しておけないのだが、幸之進は表にまるで出ないので本当のところがよくわからなかった。
あれから、不審な男が長屋をうろつくといったことはない。兼の仲間が幸之進の身辺を探っているのかと思ったが、それらしい動きは見えなかった。素人の親信にさとられるような下手は打たないだけかもしれないが。
半治が隣の部屋に戻り、幸之進と顔を合わせるなり言われた。
「おかえり。親信殿、今日の夕餉の菜はなんだろうか?」
「あ――」
何も考えていなかった。親信はそれをごまかすようにして鉢をつかみ取ると、慌ただしく再び外へ出た。
「すまん、今から買ってくる。加乃、親太郎、もう少し待っておれ」
「はい、お気をつけて」
「はぁい」
子供たちも父の様子がおかしいと思っただろうか。
小次郎のことは、親信が気にしても仕方がないのに。
夕餉に荷売り屋の
ただ、それにしては何も訊ねてこない。それがかえって不気味であった。
しかし、訊ねてこないのは、幸之進がある程度事情を知ったからであるということがわかった。
夕餉の後、親信の懐にあったはずの小次郎宛ての文が幸之進の懐から出てきたからである。幸之進はその文をひらひらと振る。
「いっ」
「親信殿の落としものだが」
「よ、読んではおらぬだろうな?」
「いや、読んだぞ」
けろりと言われた。そこは読んでもとぼけるか、気を使って開かないべきだろうに。この男は、と親信は腹立たしさに震えた。
「勝手に読むなっ」
「読まれたくないのならば落としてはいかん」
それがもっともな意見であっても、好きで落としたわけではない。
親信は幸之進の手から文をもぎ取った。苛々しながら懐に戻すが、もともと手渡すことのできない無用の文である。最初から書かないか、いっそ捨ててしまえばよかったのだ。
また懐に入れたところでどうにもならない。そのことに思い当たると、勢いよく戻したのがかえって虚しくなった。
そんな親信の態度に、幸之進はあはは、と軽く笑った。
「まるで恋文が見つかった若者のようだな」
「うるさいっ」
いちいち腹が立つ。
どうしてこう茶化してくるのだろうか。文を読んだのなら、親信が友のことで悩んでいるのだと知ったはずなのに。
しかし、幸之進はふと真剣な顔つきになる。そのせいで親信の怒りも長くは続かなかった。
「やはり、親信殿は優しいな」
「は?」
いきなり何を言い出すのやら。それでも、幸之進は微笑した。
「いや、その友人とやらはもう付き合いの切れた相手なのだろう? それが、立ち行かなくなっているのではないかと案じておる。それが優しいと申したのだ」
「――いいや、真に心根が正しければ、どんな境遇であろうと付き合いは切れなかったはずだ。今、あやつとのやり取りがないのは、私にゆとりがなかったせいだ。己のことで手一杯、噂を聞くまで思い出すこともなかった。そんな私が優しいということはない」
むしろ、小次郎のことを妬んだ。その心が疚しい。
幸之進はそんな親信の心の奥底まで読んだわけではないはずだが、なんとも言えぬ複雑な笑みを見せ、軽くうなずいた。
その表情が幸之進らしくはなく、何がそんな顔をさせるのかという気になった。
おかしいのは親信ばかりではなく、幸之進もだったのかもしれない。
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