第8話
その翌日も親信は、手習所で子供たちを相手に読み書きを教えていた。
厄介な幸之進だが、子供好きで加乃と親太郎が懐いていることだけは事実だ。家で子供たちの守りをしてくれたら、助かると言えなくはない。
いくら加乃がしっかりしていても、まだ六つなのだ。大人と同じほどに考えて負担をかけてはいけない。少々難はあるけれど、大人がいれば加乃も気が楽になるはずなのだ。
とはいえ、幸之進が居座るのもしばらくのこと。あまり当てにしすぎるのはよくない。
「せんせぇ、小吉が墨零しましたぁ」
「え? おいら? ほんとだ、零れてら」
ハハハ、と小吉は自分の額をぴしりと叩いて笑っている。
――なんだか、小吉の将来に不安を感じる。幸之進のようになってほしくはない。幸い、小吉はまだ子供だから、言い聞かせて育てればなんとかなると信じたい。
親信は小吉が零した板敷の上の墨に絞った雑巾を落とす。墨を拭こうとしたら、梅が代わりに拭いてくれた。
それでも、親信は膝を突き、小吉に向けて言った。
「小吉、少し落ち着いて動きなさい。お前もそのうちにどこかのお
小吉はきょとんとしていた。そんなに難しいことを言ったつもりはないのだが。
その時、背後に気配を感じ、親信はハッとして振り返る。貞市が後ろに手を回して立っている。目が泳いでいる辺り、手にはまた良からぬことを書いた紙を持っていて後ろに隠しているのだろう。
親信は背を貞市から庇うようにして体の向きを変えた。
「では、気をつけなさい」
「何に?」
と、小吉に返された。やはり何も伝わっていなかった。
親信はがっくりと疲れつつも他の子のところにも回って指導を続けた。手習いが終わるまでずっと、貞市は親信の背を狙っていた。
「せんせぇ、さよおなら」
叱られたことなどもう覚えていないのか、小吉は前歯の抜けた顔でにっこり笑って帰っていった。叱って落ち込まれると、親信も罪悪感でいっぱいになる。だがしかし、あそこまで気にされていないのも複雑である。可愛いことは可愛いのだが。
「――また、明日な」
結局、厳しいことは言えない親信であった。
「先生、今日はありがとうございました。また明日もよろしくお願いします」
梅は丁寧に頭を下げて帰った。寛太もだ。
この二人を見ているとほっとする。
そして――。
貞市は最後まで帰らない。今日、親信の背に悪口を書いて貼ることができなかったから、まだ隙を狙っているのだろう。
しかし、親信はこれでも剣の道を極めようと鍛錬してきた身である。気を抜いている時ならまだしも、気をつけていて子供に背後を取られることはない。
「貞市、もう帰りなさい。子供の帰りが遅いと心配するだろう」
その時、貞市は顔をしかめた。それは、悪戯が上手く行かなかった
そんな時、堂の手前で親信に向けて手を振る者がいた。
「親信殿、迎えに来たぞ」
耳を疑った。しかし、涼しげな顔をして手を振っているのは、間違いなく幸之進である。貞市も先ほどまでの気がかりな様子はなく、ただ唖然と幸之進を見ていた。
親信は怒鳴りたくなったが、貞市の手前である。堪えながら幸之進のそばに駆け寄って声を潜めた。
「お、おぬし、何故ここに――」
「うん? 長屋の皆に親信殿はどこで手習所を開いているのか
にこにことそんなことを言う。この笑顔がまた腹立たしい。
「子供たちはどうしている?」
「加乃殿はいつも二人だから平気だと言うが、念のためにお多摩殿に頼んで出てきた」
「それで、何をしに来たのだ?」
幸之進がここに用などあるわけがない。ただの興味本位だ。腹の怪我はまだ痛むだろうに、それすらおしてその興味を優先するのだから困った男だ。
しかし、幸之進はちゃんとした理由があるとでも言いたげであった。
「うむ。甘いものを
昨日、甘いものが食べたいとか言い出してはいたが、聞き流した。あれか。
「それなら勝手に買って食えばよいだろうが」
「紙入れを親信殿に渡したので、持ち合わせがなかったのだ」
へらへらとしながら言う。
それならば前もって言ってくれれば渡しておいたのに。こういう男は行き当たりばったりで、急に思い立つのだ。
「それに、俺が一人で食いたいのではない。加乃殿や親太郎と一緒に食いたいのだ。きっと喜ぶぞ」
それを言われると、親信は言葉に詰まった。
親信は毎日の
「今、甘味は飯の代わりにはならんと思うただろう?」
幸之進に言い当てられ、親信は顔に手を当てた。顔に書いておいたつもりはないのだが、そんなにもわかりやすかっただろうか。
にやにやと嫌な笑いを貼りつけ、幸之進は言う。
「腹はそれほど膨れぬやもしれぬが、心が満たされる。穏やかになる。甘味は偉大だ」
まるで甘味に高麗人参ほどの薬効があるかのような口ぶりである。
「心が、なぁ」
幸之進は大袈裟にうなずくと、親信を通り越して堂の中で呆然としていた貞市に呼びかける。
「そこの。親信殿の教え子のおぬしだ。どうだ、一緒に甘味を食わぬか?」
貞市は甘味など望めばいつでも食える。あの立派な体格を見ればわかるだろうに。
わざわざ親信たちと堅苦しく食べようとも思わないだろう。
それなのに、貞市は幸之進に圧倒されているように見えた。それは、幸之進の端整な顔立ちのためか。もしくは古着をまとっていても品があり、士分であることが窺えて恐縮しているのかもしれない。
「お、おれは、その――」
「甘いものは嫌いか?」
困惑する貞市に幸之進は親しげに笑いかける。あんなふうに戸惑う貞市を見たのは初めてだった。
「嫌いじゃない」
軽くかぶりを振った貞市を、幸之進は手招きする。
「よしよし。なぁに、団子か饅頭くらいのものだ。馳走するというほど大袈裟なものでもないからな」
貞市は幸之進には素直だった。素直にうなずく。
後ろ手に持っていた半紙が貞市の手から滑り落ち、スルリと床を滑って飛んでくる。そこに書かれていた文字は――。
[いぼ痔]
それを見た幸之進は、ブフゥッと噴き出した。
「い、いぼ痔とな。なんと難しい字を書けるのだろう。なぁ、親信殿」
あんな字は教えた覚えがない。褒める気にもなれない。
それこそ、あんなものを貼りつけられたら、いぼ痔ではないと釈明するにはどうしたらいいのだ。
怒りか呆れか、親信が長身をゆらゆらと揺らしていると、その背を幸之進が軽快に叩いた。
「まあよいではないか。さて、参ろう」
貞市は悪戯をする前に落書きを見られてしまい、少々怯えた目をした。疚しいと思うのなら、悪いことをしてるという認識はあるのだ。
ここでひとつ雷を落としてみたらどうだろうか。凝りる前に貞市は二度とこの手習所に来ないような気がする。匙加減がわからず、やはり叱れない親信であった。
幸之進も叱るどころか楽しげだ。
「ああ、そうだ。俺は親信殿のところの居候で幸之進と申す。おぬしの名は?」
「貞市」
「そうかそうか、貞市だな。よし、覚えたぞ」
貞市は、幸之進に興味を持ったようだ。嫌なら従わない子なのだ。自ら寄ってきて幸之進の隣に立った。それが親信には本当に意外だった。
「遅くならないように帰さねばならん。ほどほどにだ」
いつも帰ってくる頃合いになっても子が戻らねば親は心配する。あまり遅くなってはいけない。
しかし、貞市は釘を刺した親信には素直ではなかった。不満そうにぼそりと言う。
「手習所が終わってもまっすぐ帰ったことなんてねぇし。いつものことだよ」
「そうなのか? それはいかんぞ。家の手伝いもあるだろうし、なるべく早く帰るようにしなさい」
それは正論で、師匠として当然のことを言ったまでである。けれど、その言動に面白みはなかっただろう。貞市はムッとしただけだった。
幸之進は貞市の肩を抱き、笑顔で歩き出す。親信は二人の後ろに続く形になった。
下谷を抜け、浅草へ。貞市の家は浅草田原町一丁目で、そう離れてはいない。
浅草の方が賑わいが感じられる。
「親信殿は何がよいのだ? 餅か、饅頭か、団子か。親太郎は小さいから餅で喉を詰めるといかん。饅頭にしておこう」
幸之進は振り返りながら言う。
それでも、貞市の肩に手を置き、道行く人とぶつからないように気を遣っているように見えた。貞市は幸之進を見上げながらつぶやく。
「親太郎って?」
「ああ、先生の息子だ。まだ三つでな、それは可愛いのだ」
息子を可愛いと言われて悪い気はしない。親信は黙って歩いた。
「ふぅん。先生の子は娘だと思ってた」
「おお、娘御もおるぞ。加乃殿といって、しっかりしておる。数年後には美しく育つだろうから、嫁にもらおうかと思っておるほどだ」
「加乃はまだ六つだ。それに、誰がおぬしにやると言った? 断じて許さんぞ」
「今、六つならば十年ほどかけて口説けばなんとかならぬか?」
「やめんか」
前を歩くその首を絞めてやりたい気分だった。もしくは、傷のある脇腹をつついてやりたい。
貞市はそんなやり取りを黙って聞いていたかと思うと、ちらりと親信の方を振り返った。何やらいつもとは違う目だ。
「先生もそんなふうに話すんだ?」
どういうことだろうかと首を傾げかけた親信に、幸之進は含み笑いをする。
「先生は堅物だからなぁ」
「おぬしに比べれば誰でも堅物だろうに」
目で威圧してみたが、幸之進には通じない。さらりと躱された。
「お、甘い匂いがする。こっちだな」
親信には何も匂わなかった。むしろ、荷馬の糞の匂いや飛脚の汗の臭い、色々と入り混じった臭いがする。そこから嗅ぎ分けているのなら犬のようだ。
しかし、その先には本当に屋台見世だが饅頭と餡を包んだ餅が売っていた。いつも通りかかる道なのに、目を留めたことがなかったかもしれない。幸之進は屋台の台上の菓子を繁々と見つめた。
「白、黒、草、豆、きな粉――ぬぬ、なんと悩ましい」
そんなに悩むところなのか。親信は嘆息しながら貞市に視線を落とす。
「貞市はどれがいい?」
「おれは黒饅頭がいいや」
黒糖を使った皮が薄茶色の饅頭だ。中には餡が詰まっている。
「なんと迷いのない――。貞市、なかなかやりおるな」
幸之進が大袈裟なほどに驚いてみせるから、貞市が照れた。なんだろうか、このやり取りは。
「親信殿はどうするのだ?」
「持ち帰りで白饅頭を三つ頼みたい。おぬしは今食べるのか?」
幸之進はぽん、と手を打った。
「よし。では持ち帰りは白饅頭四つだ。そして、今食うのに黒饅頭ときな粉餅ひとつずつくれ」
こうすれば二個食べられると考えたようだ。幸之進の家の金で買うのだから文句はない。
屋台で店番をしていた老婆は笑顔でうなずいた。
「はいよ。ありがとうございます」
屋台の隣に置かれた緋毛氈のかかった床几に座る。貞市を真ん中にして並んだ。親信も茶だけもらうことにした。
貞市はもぐもぐと、いい食べっぷりで饅頭にかぶりついている。幸之進もきな粉をまぶした餅を頬張り、仕合せそうに顔を綻ばせている。
なんとものどかだ。親信は茶を啜りながら思った。
いつもは悪戯ばかり仕掛けてきて、言うことをまるで聞かない貞市だが、こうしていると普通の子供である。
「喉を詰まらせんようにな」
幸之進は楽しげに言う。貞市は饅頭を頬張りながらうなずいた。それを妙に優しい目で見ながら幸之進は再び餅を食べる。
「美味い。やっぱり甘味を食うと生きていてよかったと思えるな」
斬られて死んでいたら食べられなかっただろうから、それはよかった。
それにしても、たったそれだけのことに仕合せを感じられるとは楽なものだ。
それなら父の屋敷にいて毎日饅頭を食っていればいいものをと思わなくもないが、それでは太りそうだ。
「なあ、貞市、美味いなぁ」
いつもなら鼻で笑うだろう貞市が、うん、と笑って答えた。この気難しい子供が、たった小半時(約三十分)接しただけの幸之進に何故懐いたのか、親信にはさっぱりわからない。
大体、貞市はもっと上等の菓子を普段から与えられているはずなのだ。
しかし、美味いと答える貞市が気を遣っているようには見えなかった。幸之進はそんな貞市の頭を撫でる。
「そうだろうそうだろう。お天道様の下、誰かと並んで食う。美味くないわけがないな。一人で食えばどんなに
――店先で安物とか言ってはいかんだろうに。
幸之進は父の屋敷で贅沢をしても、分かち合える相手がおらずにつまらなかったと言うのだろう。狭い長屋で粗末な飯を食いながらも、幸之進は楽しげなのだ。そのうちに嫌気が差すかもしれないけれど。
幸之進が勝手に喋っているだけなのに、何故か貞市は涙目になっていた。本当に、今にも泣き出しそうに見えて驚く。
しかし、幸之進は何も言わず、ただ貞市の頭を撫でてつぶやいた。
「さて、食い終わったので帰ろうか。またいつでも来れる」
「うん――」
零れる涙を急いで拭った貞市だった。親信は、ここで一人取り残されたような気分になった。
貞市の涙の意味がわからない。幸之進がどんな術で貞市の心を開いたのかも。
親信は持ち帰り分の饅頭を竹皮で包んでもらった。幸之進の紙入れの中には小判が三枚と、小銭が少々入っている。小銭で足りた。
小判は両替商に換金してもらわねばと、見慣れぬ黄金色を目にするたびに思う。
貞市の家はこの近くの袋物屋だ。手前まで送っていくと、名残惜しそうに何度も振り返りながら帰っていった。親信は丸い背中を眺めながら幸之進に訊ねる。
「貞市は一体どうしたのだ?」
すると、幸之進は春風のようにふと柔らかく微笑む。
「悪戯を繰り返すには理由があるということだ」
「理由?」
幸之進はすでに勘づいているのだろうか。親信は自分の教え子であるというのに、まるで見当もつかない。
裕福な家で大事にされている子だ。悪戯好きではあるものの、取り分けて心配することはないように感じていた。
「私は――悪戯をもっと叱ってやらねばならなかったのか?」
叱るのは苦手だ。体も大きく、強面の部類である親信が本気で怒れば子供は泣くだけだ。
泣かれると胃の腑が縮む。手習所にはもう行きたくないと言って辞めるかもしれない。それが嫌で、つい叱責は軽くなってしまう。
ただしそれは親信の都合であり、子供たちと真剣に向き合った結果とは言えない。
自分は手習所の師匠になど向いていないのだと改めて思い、親信は気が滅入った。しかし、幸之進はかぶりを振る。
「いや、きつく叱ってはいかん。叱ったところで上手くは回らん。子供の心は柔らかいのだ」
叱ってもいけない。何故こんな悪戯を繰り返すのか、それを優しく聞き出せと言うのだろう。
親信が苦手とするところである。
「まあ、そのうちにわかるのではないかな」
そう言った時の幸之進は、いつもほどへらへらとはしていなかった。
「さて、加乃殿と親太郎が首を長くして待っておるな。帰ろう帰ろう」
当たり前のように帰ろうと言う。それは親信の家であって、幸之進のではない。それなのに、自然に帰ろうとする。図々しいやつだ。
宿代をもらっているようなものだから、文句は言えないだろうか。親信は手にした饅頭に一度目を落としながら思った。
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