第9話
「ただいま」
家の主よりも先に、幸之進は我が物顔で家に入った。
「おかえりなさいませ。父上、幸之進様」
加乃はそれでもちゃんと父を立ててくれる。親太郎はと言うと、上り框に腰かけた幸之進に飛びついた。
「ゆきしっ」
幸之進と呼びたいのだろうけれど、ゆきし、としか言えない。親太郎に飛びつかれて、多分腹の傷に響いたのだろう。幸之進は僅かに難しい顔つきになったが、すぐにまた笑顔を作り直す。
「よしよし、いい子にしていたな?」
本当に、誰の家だと言いたくなる。そんなことよりも、親信は座敷で硬くなっている多摩に目を向けた。
「今日は子供たちの相手をしてくれたそうで、助かった。いつもすまぬな」
「い、いえ、これくらい。同じ長屋ですから」
親信は手にしていた竹皮の包みを開き、不器用ながらになんとなく笑ってみせる。
「饅頭があるから、お多摩殿も食べていくといい。今日の礼と言ってはささやかだが」
加乃と親太郎は、目をキラキラと輝かせた。あまり食べさせたことなどないのだが、これが甘くて美味いということを知っているようだ。
「まんじゅうっ」
親太郎が手を伸ばすので、親信はその小さな手に饅頭を握らせた。それから、加乃にも手渡す。
「ほら、加乃の分だ」
「あ、ありがとうございます。半分に割りますね」
たった四文の饅頭ひとつが自分のものだとは思えなかったらしい。貧乏が申し訳なくなる。
「いや、それは加乃の分だ。一人で食べていいぞ。――これはお多摩殿に」
戸惑いながら饅頭を受け取ろうとした多摩だが、ふと思い立ったように言った。
「あ、あの、お茶を淹れましょうか」
「いや、気にせず食べてくれ」
親信がすぐさまそう言ったのは、茶葉を切らして買い足していないからである。最初は出がらしで飲んでいたが、そのうち白湯になった。
買いに行こうと思いながらすぐ忘れる。男には女の細やかさはないのだと、己に言い訳してばかりである。
「親信殿は白湯が好きなのだよ」
笑いを噛み殺しながら幸之進がそんなことを言う。嫌味なやつだ。
「そうなのですか?」
多摩が真に受けた。不思議そうに首を傾げている。親信は、ん、と曖昧に返事をしておいた。
最後のひとつの饅頭を幸之進に手渡すと、幸之進は何か考え事をしているような顔で、親信の肩に手を置き、耳元でつぶやいた。
「お多摩殿の分を忘れておったのだな? これでは親信殿の分がない」
多摩に子の面倒を見てもらっておきながら忘れていたわけではない。最初から親信は食べるつもりがなかったのだ。
「いや、私は要らぬので数に入れなかっただけだ。これで合っている」
「何故だ?」
眉根を寄せ、整った顔を近づけてくる。親信はその額を押して幸之進を遠ざけた。
何故も何も、余分な金は一文だろうと使うべきではないからだ。どうしても食べたいとは思わない。
「たった四文をけちったところでなんにも変わらんぞ。甘味は心を豊かにすると申しただろう? まったく、親信殿は困った御仁だな。――ほれ」
と、幸之進は饅頭をふたつに割った。その半分を差し出してくる。
「甘い菓子はそれほど好きではない」
断ってみても、幸之進は引かない。
「酒も
随分としつこい。
「甘味が嫌いできなこ長屋の
「
「大家殿に訊いたのだ。何故、きなこ長屋なのかと。そうしたら、ここが安倍川町だからだと言われたぞ」
浅草安倍川町。
確かにそうなのだが――安倍川餅に引っかけたのか。
たったそれだけで〈きなこ〉になったのか。
ある意味、衝撃であった。
そこでふと、子供たちと多摩の目が気になった。親信が食べないのに食べていいのかと、安心して食べられないのだ。気にせず食べればよいものを、多摩まではらはらしている。
仕方なく、親信は幸之進から饅頭を受け取り、ひと口で食べた。皮がもそもそするけれど、中の餡がしっとりしていて丁度いい。思った以上にしつこくなかった。小豆の味が後口に残る。
「どうだ? 美味かろう?」
満面の笑みで言うと、幸之進は残りの饅頭を頬張った。頬を膨らませて子供のようである。せっかくの容姿が台無しだったが、仕合せそうに見えた。
「美味いなぁ」
「はい、美味しいです」
加乃も嬉しそうにうなずいている。親太郎もうなずきながら無言で食べる。多摩は上品におちょぼ口で小さくちぎった饅頭を食む。
皆が、ひとつたった四文の饅頭を仕合せそうに食べる。先ほど幸之進が言ったように、皆で食することによって、美味さはより感じやすくなるものなのだろうか。親信は子供たちが食べられれば満足だったが、自分も味わったことによって感じることが増えた気がした。
「ほら、親太郎。餡が頬についておるぞ」
幸之進が手を伸ばして親太郎が顔につけていた餡を拭った。そんな様子を見て、多摩もフフ、と笑っている。他愛のないことではあるけれど、どうしたわけか今日はほんの少し心穏やかでいられたかもしれない。
――その晩、夜具に潜って横になってからようやく、今日の帰りに沙綾の墓に参ってこなかったことを思い出した。こんなことは初めてで、それも就寝前になるまで思い出さなかったことに親信は衝撃を受けた。沙綾を蔑ろにしたつもりはないのだが。
心のうちですまないと何度も謝って、そうして眠った。
夢に出てきた沙綾は、何故だかいつも以上ににこやかであった。よいのです、と口元が動いたように思えたのは、勝手な願いだろうか。
❖
今日こそは子供たちと大人しく家で待っていろと幸之進に言い残し、親信は王泉寺に向かった。すぐさま沙綾の墓に参り、昨日のことを念入りに詫びた。
墓石からはなんの返答もないのだから、こんなものは気休めである。それでも手を抜けないのが親信なのだ。
その日――。
「せんせぇ、さよおなら」
小吉はいつも通り屈託なく挨拶をして去った。しかし、いつもならば家の手伝いがあるので真っ先に帰る寛太がなかなか帰らない。何やら気がかりがあるように見えた。
「どうかしたのか?」
屈んでみると、寛太はこっそりと親信の耳元でつぶやいた。
「貞市の元気がないみたいです。どうかしたんでしょうか?」
昨日の帰りには楽しそうにしていたのに、確かに今日は大人しい。悪戯をやめて真面目に教えを乞う気になってくれたのかと解釈していたが、どうやらそうではなかったのかもしれない。
寛太は普段、貞市と仲がいいとは言えない。それでも気にする寛太は優しい子だと改めて思った。弟妹が多いからか、周囲のことをよく見ているのだ。
「うむ、後で話を聞いてみよう」
「はい、そうしてやってください」
壁際でうつむいている貞市を一度見遣ってから、寛太も帰っていった。皆が去って、昨日と同じように貞市が最後の一人となった。親信は貞市の前に立つと、そっと声をかけた。
「どうした? 何か気になることがあるのか?」
いつもの大人を食った貞市とも、昨日の子供らしい素直な貞市とも違う。憂いを含んだため息を漏らし、貞市は親信を見上げた。
「先生、今日は幸之進さんは来ねぇの?」
来ねぇの、ではなく、来ないのですか、だ。
しかし、話の腰を折っては貞市も話す気を失くしてしまうかもしれない。ここはさらりと流した。
「今日は留守番を頼んだ。なんだ、幸之進に会いたいのか?」
昨日会ったばかりだというのに、この懐き方はなんだろうか。師匠は親信の方だというのに、複雑である。
それでも貞市は縋るような目をして親信に言った。
「話を聞いてほしくて」
「幸之進にか?」
こくり、とうなずく。
親信が聞いてやると言うところだが、貞市は幸之進に話したいのだ。それならば、好きにさせてやるべきだろうか。
「――明日でもいいか?」
「うん。先生、連れてきてくれるのかい?」
「ああ。会いたいなら連れてこよう」
そう答えた途端、貞市はほっと力を抜いた。それが泣き出しそうに見えて驚いた。
これは必ず連れてこなければならないと、親信も真剣に受け止める。
今日の貞市は、悪戯をしなかったのだから。
家に戻ってすぐ、夕餉のために煮売屋で煮豆を買ってきた。
「親信殿、買い出しくらいは俺が行ってもよいのだが」
幸之進はそんなことを言うけれど、それを素直に受けられないのは、幸之進の金銭感覚が信用ならないからである。余計なものをあれこれと買い、無駄に散財してへらへらしていそうで嫌だ。
「おぬしは一体いつまでおるつもりだ? 長屋には倒れていた怪我人の世話を焼く決まりはあっても、怪我が癒えてまで居座る者の面倒をみろとは言わぬぞ」
行倒れた病人や捨て子を見つければ、世話をするのも長屋の役割である。もし放り出したりすれば、あの長屋の店子は血も涙もない連中だと吹聴される。
すると、幸之進は急に腹を押さえ、イタタタ、と言い出す。わざとらしい。
「まあ、今すぐにとは言わん。明日、少しだけ手習所の手伝いをしてもらいたいのだが、構わんな?」
どうせ暇なのだから。
幸之進は意外そうに目を瞬かせた。いつもならば来るなと言う親信が珍しいことを言うと驚いたのだろう。
「うむ。何をすればよいのか知らぬが、手伝おう」
それを聞き、ほっとした。しかし、親太郎が不満顔になる。
「ゆきし、出かけるの? やだぁ」
「そうかそうか、一緒に行くか?」
親太郎は幸之進にべったり張りついた。親信にもあんなふうにはならないのに。妬心が湧いてしまう。
加乃がそんな親太朗に少し厳しい表情を見せた。
「駄目よ。親太郎はわたしとお留守番」
「加乃殿も一緒に出掛ければいいのではないか? ――と言いたいところではあるが、江戸の町は物騒だからな。子供を連れて歩くのには覚悟がいる。特に加乃殿のように見目のよい娘は攫われたら大変だ」
本当に、十年かけて幸之進が加乃を口説くつもりだったらどうしようかと不安になる父であった。幸之進がいつになく真面目な顔をして言ったので、加乃も少し照れている。
「わ、わたしと親太郎は留守番をしております。長屋の皆さんがいてくれるので平気です。どうぞ気兼ねなくお出かけください」
「加乃、いつもすまぬな」
加乃が年よりもしっかりしたのは、親信が不甲斐ないからではないかという気になる。そう考えると切ないが、娘がどこに出しても恥ずかしくないように育ってくれているのは嬉しいことなのだ。
こんな時、加乃はいつも笑顔を向けてくれる。心優しい娘であった。
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