第10話

 朝飯をかっ込んで、親信と幸之進は出かけた。道中、幸之進に貞市のことを話す。

 いつもの軽い調子で笑うかと思えば、そうか、と言って神妙な顔をした。あまり軽口も叩かず、大人しくついてくる。それが奇妙に感じられた。

 幸之進を伴い、王泉寺の才真にも挨拶した。


「幸之進と申します。先生には大変お世話になっておりまして、今日は手習所のお手伝いをさせて頂くことになりました」


 にこやかに愛嬌を振り撒く幸之進だった。才真も微笑んでうなずき返す。


「左様でございましたか。子供たちは宝ですから、皆で大事に育ててゆかねばなりません」

「ええ、少しでもお役に立てるとよいのですが」


 ――外面はよい。

 才真の印象も悪くはないようだ。表情を見ればわかる。

 その外面のままでいてくれたら、親信もそんなに邪険にはしないのだけれど、うちの中では素が出てしまうからいけない。人様の家なのだからもっと気を張るべきだろうに。

 なんてことを幸之進に言っても通じないけれど。


 そうして、親信は幸之進を連れていつもの日課である妻の墓参りをする。丁寧に手を合わせる親信に幸之進も続いた。


「親信殿の御新造は、加乃殿によく似た美人であったのだろうなぁ」


 親信は何も答えず、ただ瞑目して手を合わせ続けた。

 亡くして一年。まだ沙綾の顔をはっきりと思い出すことができる。

 けれどそのうちに薄れてしまうのかと思うと、やはりどうしようもなく寂しい。いつまでも、胸の中に大事にしまっているはずなのに、人というのは己の心ですら満足には扱えぬのだ。




 堂に入ると机を並べ、硯を用意する。そんな他愛のないことも幸之進は楽しげに手伝った。しかし、時折、体勢によっては腹の傷が痛むようである。口元は笑っているが、眉の辺りがそれを物語っていた。

 ああいう性格であるから、ついもう平気なのだと思ってしまうが、まだ無理をさせてはいけないのかもしれない。


「幸之進、そのうちに子供たちが来る。しばらく休んでいろ」

「うん? まあ休めというのなら休ませてもらおう」


 へら、と笑って壁際に座り込む。刀を帯から抜き、膝の上に下した。刀は手入れもしていないので刀身を見たことはないが、親信のものより業物だろう。剣術も苦手だというから、あまり大事にしているふうではないが。

 たまには見てやらねば、そのうちに錆だらけになるかもしれない。


「先生、おはようございます」


 いつも通り、梅が真っ先にやってきた。日の当たらないところで座り込んでいる幸之進に気づかず、ごく自然に堂へ上がった梅は、壁際の幸之進に気づいてキャッと声を上げた。


「だ、誰ですかっ」

「すまん、私が手伝いに連れてきた。うちの居候だ」


 梅は親信の方に首を向け、少々不安そうにしたものの、うなずいた。梅が驚いたのは、まず膝の上の刀を見たからかもしれない。

 幸之進はというと、立ち上がると梅に向かって微笑した。


「驚かせてすまぬな」

「い、いえ」


 驚いたのも最初だけだ。幸之進の整った顔立ちを改めて見ると、恥ずかしそうに目を逸らした。


 次に寛太がやってきた。小吉も、宇美も、千も次々と来て、貞市も姿を見せた。手を振る幸之進の顔を見るなり、貞市はパッと表情を明るくした。あんなにも嬉しそうな貞市を見たのは初めてかもしれない。

 皆を座らせると、親信は幸之進を紹介する。


「これは幸之進といって、今日は手伝いに呼んだのだ。大したことをするわけではないので、皆、あまり気にしないように」


 事実、特に何かをするわけではない。貞市が呼んでほしいというから呼んだだけだ。壁際にいればいい。

 子供たちは困惑気味に顔を見合わせている。


「幸之進と申す。まあ、そういうことだからよろしくな」


 当の本人は気にした様子もなく、にこりと笑ってみせる。

 そんな幸之進がいることで、教え子たちの気がそぞろになる。部外者がいるだけでも気が散るのに、様子のいい若侍が涼しい顔をして壁際から見守っているのだ。それも無理からぬことだろうか。

 といっても、やることはやらなければならない。


「ほら、皆、手元が疎かになっておるぞ」


 親信が注意すると、数人がハッとして手を動かし始めた。珍しいことに、貞市は懸命に筆を動かしている。あんなふうに真面目に座っているだけでも珍しいというのに。


 幸之進にはよいところを見せたいのだろうか。そんな普通の面も持ち合わせた子なのだな、と今さらながらに思う。

 幸之進はというと、そんな貞市に近づき、手を貞市の利き手に沿えた。


「筆先が寝ておるぞ。もう少し立てるともっとよくなる。――よしよし、そうだ。おぬしは呑み込みが早いな」


 貞市は、注意するとやらなくなる。すぐに筆を放り出す。だから、親信は細かいことは言わなくなっていた。けれど、貞市は幸之進の言うことには素直に従い、そうして褒めてもらえると目を潤ませて嬉しそうにしている。

 一体何が貞市を変えたのだろうか。


 落ち着かないまま昼を迎えた。皆が昼餉を食べに一度家に帰る。

 その時、貞市は最後まで残った。貞市の机の前に幸之進は腰を下ろし、目線を貞市に合わせて微笑む。


「何やら俺に話があるとのことだな? 俺が答えられることならばいいのだが」


 親信は、少し離れたところで様子を窺った。

 膝を合わせて行儀よく座ったかと思うと、貞市は静かにうなずいた。


「うん。聞いてほしいだけなんだ。おれの家のこと」


 黙って聞くつもりなのか、幸之進は目で先を促したように見えた。


「おれは、あの家の本当の子供じゃないんだ」


 これを語り始めた時、貞市の目から大粒の涙が零れた。子供ながらに秘めてきた思いの表れであったのかもしれない。

 貞市はやんちゃで悪戯好きで手に負えない子供であったが、それは貞市の持つ一面であり、それがすべてではないのだ。その裏の顔を親信は初めて目にした。


「あの家にもらわれてから三年経ったけど、でも、本当の家に帰りたいと思わなかった日はないんだ。何でも買ってくれるし、おじさんもおばさんも優しいけど、でも、おとっつぁんとおっかさんじゃない。そんなの、今さら思えるわけないんだ」


 貞市がこの手習所に通い始める前に、貞市はもらわれてきた。だから、親信はそのことを知らなかった。貞市も家のことを多くは語らなかった。

 何も知らない。例えば貞市の何を知っているのだと言われたら、本当に答えられないかもしれない。そのことに気づき、親信はどうしようもなく気が重たくなった。

 グス、と貞市は鼻を啜りながら続ける。


「貧乏でも、おとっつぁんとおっかさんと兄ちゃん、姉ちゃんのいる家に帰りてぇ。おれが丈夫そうだから、跡取りに丁度いいとか言うけど、おれはそんなのなりたくなかったんだ。だから、絶対におじさんとおばさんをおとっつぁん、おっかさんなんて呼ばなかったし、店の奉公人にも悪戯ばっかりした。なのに、皆、もらわれてきた子だから寂しいんだろうって大目に見てくれて――」


 そこで一度目を擦ると、貞市は親信の方をちらりと盗み見た。


「先生にもいっぱい悪戯した。こんな悪餓鬼は手に負えねぇってほっぽり出してくれたら、おじさんとおばさんも愛想を尽かしておれを返しに行くんじゃないかって思って。でも、誰も怒らねぇんだ。おれのことをただの悪戯好きで済ませるんだ」


 貞市の言葉が親信の胸を抉った。厄介な子だから、と深入りを避けて表面上しか見てこなかったのではないかと、親信は己に問いかける。苦手だから、上手くできないから、そう言い訳して踏み込まない。

 いつもいつも、後になって後悔することばかりを選んでいるのは、結局のところ己なのだ。


 親信は、妻の死からもそれを学べていなかったのか。

 己の愚かさ加減に反吐が出る。体がすうっと冷えていくのを感じた。


 その時、幸之進は机を跨いで貞市の横に膝を突くと、力いっぱい貞市を抱き締めた。見ると、一緒になって泣いている。


「その若さでつらい思いをしたのだな。俺もそうなのだ。実家から違う家に行くことになって、嫌で嫌で逃げ出した。俺の年になってもつらいというのに、貞市は三年もよく耐えたなぁ。偉いぞ」


 一緒にというよりも、貞市よりもよほど派手に泣いている。仮にも武士だろうに、そんなにも涙もろくてどうすると言いたいところだが、幸之進の涙に貞市は救われただろうか。


 きっと、実家には戻りたいとは言えず、養父母にも言えず、誰とも馴れ合わない孤独な日々を送っていた。荒っぽく、悪戯を好む貞市には誰も近づかなかった。寂しさを隠し、独りでいた。

 それが貞市の本当の顔であるのか。


 貞市は幸之進にすがりながら、声を上げて泣いていた。

 何故、貞市がこの話をする相手に幸之進を選んだのか――。

 それは、どこかで感じ取ったからだったのかもしれない。幸之進なら、己の痛みを自らのことのようにして受け止めてくれると。


 少なくとも、親信にはできない芸当である。

 親信には線引きがあった。大人と子供、師匠と教え子。その線を踏み越えることまではしなかっただろう。親信には解決する力もなければ、気休めになる言葉すら吐けないのだ。

 ――情けない。


 幸之進は肩口で涙を拭うと、貞市の頭を撫でながら言った。


「貞市がどうしても帰りたいのなら、いつでも一緒に頼みに行ってやる。約束だ」


 安請け合いをするのはいけない。できもしないことを口にするなと思う。

 けれど、幸之進は嘘をついたつもりもなく、貞市もまたその言葉を信じる。それならば、それでいいのだろうか。真面目に考えすぎて動けない親信の方がいけない。

 ただ、と幸之進は言った。


「そのおじさんとおばさんのことは嫌いではないのだな?」

「うん――。優しくしてくれるから」


 嫌いではないけれど、本当の親兄弟には勝てない。

 幸之進は何度も何度も貞市の頭を撫でる。その手は優しかった。


「そうか、それは何よりだ。その二人も、貞市が来てくれて嬉しかったはずなのだ。いつかは心を開いてくれると待っているのやもしれぬ。子を引き取って三年、懐いてもらえなかったとしたら、それも苦しい日々ではあっただろう。本当の親になれたのなら、どんなにか仕合せだろうと枕を濡らしているとも考えられる」


 血の繋がりだけがすべてではない。そもそも、夫婦は他人だ。それが家族になるのだ。他人同士が家族にはなれないなんてことはない。

 すべては心ひとつ。心が決めることだ。


 幸之進の言葉に、貞市はぐっと言葉に詰まっていた。養い親の心は、子供である貞市が思い遣れることではなかっただろう。


「貞市の気持ちはわかった。帰りたいとして、それが叶ったとしても、三年世話になった恩があるのだから不義理を承知の上で行うことだ。優しさには優しさで返さねばな」


 貞市は、うぅ、と小さく呻いた。

 そんなことはどうでもいいといった様子ではない。貞市なりに心を痛めてもいるのだろう。


「しかし、あまり独りで抱え込んで苦しくならぬように」


 適当な男ではあるけれど、多分優しい。

 幸之進は武士らしくもなく、糸の切れた凧、もしくは骨の抜けた魚だと思っていたが、人の痛みに寄り添える。

 もしかすると、こういう男がこれからの世には必要なのかもしれない。不思議とそんなふうにも思えてくる。剣術の腕前などは二の次だ。


「うん、ありがとう」


 貞市は涙を拭うと、それを最後に決めたのか、大きく息を吸ってそれ以上は泣かなかった。三年も独りで悩みを抱え込んできたのだ。強い子ではある。


 親信は師匠として、そんな貞市に何かを言うべきなのかと迷った。余計なことは言わない方がいいと思う半面、どうしても言いたいとも感じた。

 長身を折って貞市の前に座ると、貞市の目をちゃんと見て、それから言った。


「我が子を育てるのは難しいことだらけなのだ。貞市の養い親はたくさん悩んでおるだろう。何も言わないよりは、考えていることを話し合うのがよい。それが難しいのは承知しているが、それでも一度腹を割って話せたら、双方にとってよい道が見つかるやもしれぬ。貞市が一人で考えるのではなく、私も、手習所の皆も力になれることはあるはずだ」


 子が家のことで悩んでいるのなら、手習所の師匠としてというよりも、親信も子を持つ親として何かしてやりたいと思う。不器用で、気が利かない男ではあるけれど、できることを探してもよいだろうか。

 余計な世話だと思われても、何かの形で力になれたら。

 そんなふうに思ったのは初めてかもしれない。


 強がりも心を殺して耐えていたのだと知ったから。

 親信が自力では辿りつけなかったけれど、幸之進が筋道を作った。その道を見失わないようにしなくては。


「手習所でおれは嫌われている」


 貞市はしょんぼりとつぶやいた。

 手に負えないと家に帰されたくて、貞市は皆とも打ち解けず、嫌われるようなことばかりしていた。貞市を苦手とする子もいる。けれど、そればかりではない。


「寛太は、貞市の元気がないと気にしておったぞ」


 その途端、貞市はひどく驚いた顔をした。寛太とも喧嘩ばかりしていたのだから、無理もない。

 けれど、気にしていたと言われて嬉しくないわけではない。貞市は唇をぐっと噛み締めてうつむいた。それは照れているように見えた。


 貞市を養子に出したというのなら、それは口減らしであり、実家に戻る余地がないとも考えられる。寂しさはあれど、必要とされている場所で根を張って生きていけたらいい。

 親信はそう願いたくなった。


「泣き腫らした顔をしていては、昼餉を食いに家に戻ることもできまい。握り飯を分けてやろう。二人分しか持ってこなかったが、三人で分けて食うぞ」


 幸之進と貞市。二人分の握り飯をなんとか三人に分けた。ただの塩握りである。特別美味いということはなかったはずだ。

 それなのに、貞市は米を口いっぱいに頬張ると、しゃくり上げながらも呑み込んだ。


「先生、美味いよ。多分、今まで食べた中で一番美味い握り飯だ」

「そ、そうか?」


 今日の飯はそんなにも上手く炊けていたのだろうか。親信にはいつもとの差がわからなかったけれど。

 幸之進も握り飯を呑み込むと、笑った。


「ほら、皆で食うから美味いというやつだ。貞市、昼餉に戻らなくて家人が心配しているだろうから、帰ったら先生と握り飯を食ったとちゃんと言うのだぞ」

「うん」


 貞市は体格がいいから、子供とはいえよく食べる。親信はなるべく多くを貞市に分けてやった。


 手習所が終わるまでに腹が減ってきたけれど、心は満たされていたので、その空腹さえ親信には心地よく感じられた。

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