第28話

 この日も親信は子供たちを見送り、手習所の片づけをしてからいつも通り沙綾の墓前に手を合わせて帰るつもりをしていた。


 皆の描いた文字を眺め、上達したことを感じるのは親信としても嬉しかった。小吉の文字はどうしても半紙に収まりきれなくて、いつもどこかが切れているのだが、それも小吉らしい気がする。


 逆に手習所で一番小さく大人しい女の子のせんが書く文字は細筆で書いたのかと思うほどに小さい。字は整っているのだから、もっと堂々と書けばよいのだが、自信がないのだろう。

 それぞれのよさが字には表れている。それがまたよいと思う。

 幸之進も親信の手元を覗きながらうなずいていた。


「ふむ。半紙に何度も字を重ねるからわかりづらいが、一番墨の濃いここが今日の筆によるところだな? それぞれの癖が面白いではないか」


 幸之進が見ていたのは寛太の字である。寛太は太くてしっかりとした字を書く。

 ちなみに幸之進は案外字が上手かった。試しに書かせてみたら、危なげのない筆運びで書をしたためた。なるほど、剣はからっきしかもしれないが、できることはあるらしい。


 正直に言うと親信よりも整った文字を書いたので、教え子たちにはあまり見せたくないのだが。

 加乃に教えてもらおうと少しだけ考えたが、どのみち手習所へ通わせるのならば下手な癖はつけない方がいいとも思い、やめた。


 そうしていると、寺男が一人の侍を案内してこの堂へやってきた。とっさに幸之進はまた隅に隠れる。死角となる場所はそうない開けっ広げな堂なので、幸之進はほとんど壁に張りついていた。

 本当に、金輪際侍とは関わり合いになりたくないらしい。


 しかし、案内されてやってきた侍は、昨日の他流試合で出会った馬之介であったのだ。馬之介は寺男にも丁寧に礼を言って、寺男は親信にも軽く会釈をするとそのまま去った。

 その場に爽やかに立っている馬之介は、親信に微笑を向け、そうして頭を下げた。


「昨日の非礼を詫びたく思い、青木道場であなたのお住まいを問うて参りました。この時分なら家ではなく、手習所の方にいるだろうと青木先生がここを教えてくださいましたので、ご迷惑かとも思いつつも参った次第でございます」


 親信は驚いて堂の縁に出て、そこに座した。そうすると二人の目線は近くなる。


「非礼とは? あなたに非礼を働かれた覚えなどございませんが」


 とぼけてみせると、馬之介は困ったように笑った。


「大将を務めた楠城殿ですが、少々気性が荒く、うちの先生からも揉め事を起こさせぬように気をつけてくれと頼まれておりました。父親は町方与力、付け届けも多く、不自由なく暮らしております故にいざという時に辛抱ができないこともままありまして」


 罪人を扱う与力は御目見え以下ではあるものの、付け届けも多く、俸禄も権力もそこそこにはある。息子が調子に乗ってしまうのもわからなくはないが、町の治安を守るべき役職なのだから、跡を継ぐ気ならばそれではいけない。一代限りの抱席といいつつも世襲がまかり通るのだ。


 そんな男の目付け役にされた馬之介だ。馬之介を見習えと、道場主は常に思っているのではないだろうか。


「私は微禄とはいえうちは旗本ですので、それ故に楠城殿も少々は気を遣ってくれます。それで先生は何かあるとは私についてゆくようにと仰るのですが、それでもああした諍いはよくあることなのです。あなたの腕前は素晴らしかった。それを身分や立場を嘲って貶めるようなことは武士としてあまりに情けない。あの場でそれを申し上げたかったのですが、それをすれば余計にご迷惑になりかねず、改めてお話をさせて頂きたいと思い、こうして参りました次第にございます」


 親信が仕官も叶わない浪人であることは間違いない。それでも、禄高までは知らぬが旗本の子息がわざわざ敬ってくれるとは思わなかった。清廉な、あまりに潔い人柄に親信も心を打たれた。


「いえ、そのように仰って頂けるほどのことはございませぬ。しかし、わざわざご足労頂けたお心遣い、誠に痛み入ります」


 昨日の試合とはまるで違う、穏やかな気が二人の間に流れた。馬之介は、フッと柔らかく微笑む。


「私は長男で兄はおりませぬが、兄がいたら向井殿のような御仁であればよいと思えます。どうぞ馬之介とお呼びください」


 殺し文句だと、親信は妙に照れ臭くなった。


「いや、旗本家のご嫡男をそのように気安くは――」

「せっかくこうして知り合うことができたのですから、私がそうして頂けたら嬉しいというだけの話です」


 本当に、見目だけでなく内面までよい男だ。

 心の底では見下しているということはない。本心から言ってくれていると伝わる。


「では、馬之介殿と」

「はい、ではまた近くまで来ることがあれば寄らせて頂いてもよろしいでしょうか?」

「もちろんです。――ああ」


 そこで親信は、幸之進が壁に張りついたままなのをすっかり忘れていた。あれは新手のヤモリだと思って放っておいてよかった気もする。


 この時、親信は少し浮かれていたのかもしれない。馬之介はできた男だから、幸之進を斬りつけた侍とは違う。挨拶くらいはさせようと考えた。

 上体を捻って堂の中を覗き込み、壁際の幸之進に声をかける。


「幸之進、おぬしも挨拶せぬか」


 すると、幸之進は壁に張りついたまま首を振った。嫌だということらしい。

 しかも、その首の振り方が尋常ではなかった。そんなに何度も振らずとも伝わる。侍だからという理由でそこまで毛嫌いせずともよいと思うのだが。


「馬之介殿は立派な御仁だ。そう怯えずともだな――」


 それでも、幸之進は壁から剥がれようとしない。なんとも滑稽な絵面なのだが、どうしても嫌なようだ。

 呼んだ手前、やっぱりなんでもないと馬之介に言うのも気まずかった。


 親信はそうっと首を馬之介の方に戻すと、馬之介は怪訝そうな顔をしていた。誰かがいるようなのに、何故出てこないのかと思ったのだろう。それも当然である。

 馬之介は、ぼそりとつぶやく。


「幸之進――と?」


 やはり気になったのだろう。そこから身を乗り出し、堂の中を覗き込んだ。その動きは、先ほどまでの落ち着きとは打って変わった素早さだった。親信も驚いたが、不審に思った故のことだろうか。


 幸之進はつかみどころのない男だが、楠城よりは幾分ましかと思われる。何故隠れるのだと馬之介が問い質す前に、親信もやんわりと取りなそうと思った。


 しかし、それでも幸之進は壁に張りついている。そういう変わった動きをするから、すでに変わり者だと語ったようなものである。


 馬之介は親信に、御免、と短く断ると堂の中へ踏み入った。あ、と親信が間の抜けた声を出した声を出してしまったほど素早い。馬之介は厳しい顔をして、壁に張りついた幸之進の肩をむんずとつかんだ。


幸丸さちまる?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る