第29話
「
そう呼びかけられ、幸之進はぶんぶんと壁に向かってかぶりを振った。その途端に、馬之介は幸之進の両肩をつかんで壁から剥がした。細身の幸之進が勝てるわけもない。両耳の辺りを押さえつけられ、幸之進は成す術もなく馬之介に顔をさらした。
「幸丸――いや、幸之進。おぬし、ここで何をしておる?」
馬之介は、逃れようとする幸之進をさらに脚を使って絡めとる。
親信は、この成り行きにただただ目を瞬かせたばかりである。
「な、何とは、なんだ? 俺はただの通りすがりだ」
顔をつかまれながらも、絶対に目を合わせようとしない幸之進である。しかし、そうして顔を突き合わせていると、その横顔はどちらも鼻筋が通っていて似通って見えた。
「どうやったらここを通りすがるのだ? おぬしの屋敷はこちらの方面とはまるで――」
と、馬之介が言いかけたのを、幸之進がギャーッとわざとらしい悲鳴を上げて防いだ。
馬之介は顔をしかめ、あの楠城という熊に対していた時よりも苦り切った顔を見せた。親信はようやく我に返る。
「馬之介殿は幸之進をご存じだったのですか?」
すると、また騒ぎ出しそうな幸之進の口を手で塞ぎ、馬之介は嘆息した。
「ええ、よく存じ上げております。幸丸――いえ、幸之進は、弟にございます」
「お、弟?」
「正しくは
ああ、実家は微禄の旗本家だと言っていた。その実家の嫡男が馬之介か。
こんな優れた従兄がいて、どうして幸之進はああいうふざけた性質に育ったのかは謎だが、容姿だけ見れば似通ったところもあるのだ。嘘ではないだろう。
幸丸というのは幼名らしい。
「仔細あって、幸之進は家を出てとある御家の跡取りになりました。今は離れて暮らしていたのですが、真面目に立派な武士となるべく励んでいるのかと思えば、何故にここにおるのやら――」
それはそうだろう。なんでと問うのなら、親信が一番問いたい。
ただ、馬之介の様子から、幸之進が家を出てから実家に捜索の手が回っていないことを知った。置文をして出てきたというから、探されていないのだろうか。
勝手に出ていった軟弱者など、いかに血の繋がりがあろうとも、やはり跡取りには要らぬと思いきったのかもしれない。
もしくは、当家の恥だとばかりに、覚られないように探しているのか。
その辺りはわからないが、幸之進としては少々ほっとした部分もあるだろう。ただし、この従兄に連れ戻されてはそれまでなのだが。
「あ、あ、兄上、伯父上、伯母上、それから姉上はいかがお過ごしでしょうか?」
顔をつかまれたまま、幸之進は世間話を始めた。なんとかして話を逸らしたいのだろうが、そう容易くは行かないだろう。
馬之介は、焦る幸之進をじっと見つめ、軽く息をついた。
「ああ、皆壮健だ。なんの心配も要らぬよ。それよりも、おぬしだ。おぬしはここで何をしておる? どうやら向井殿と知り合いのようだが、どこで知り合ったのだ?」
どう知り合ったのか、それを語るためには家出をしていることを正直に言わねばならない。しかし、馬之介は頭ごなしに怒るような性質ではないように思われる。父上にあまりご心労をおかけするなと、こんこんと諭されはするかもしれないが。
幸之進は、手をひらひらと親信に向けて振った。
「ち、親信殿、親信殿、こちらへっ」
呼びつけるけれど、親信は庇ってやるつもりは毛頭なかった。馬之介が兄だというのなら、存分に叱ってほしい。
それを二人に近づいて告げようと思った。そうしたら、幸之進は意外なことを言い出した。
「親信殿、預けてある紙入れを出してくれ」
幸之進の紙入れには小判がまだ二枚と小粒が入っている。大金であるため、親信は長屋に隠しておくのも不用心だと持ち歩いているのだった。
幸之進のものなのだから、出せというのなら出すが。
懐から取り出した紙入れを幸之進は受け取ると、顔をつかまれながらもなんとかして紙入れを開いた。書付などは何も入っておらず、中には懐紙と金子くらいしか入っていなかったように思う。
幸之進の行動の意図がわからぬので、馬之介も力は緩めなかったが様子を窺っていた。そうして、幸之進が紙入れから取り出したのは、小判であった。
まさか、小遣いをやるから見逃してくれ、などと言うのではなかろうか。それはあまりにも
幸之進はその小判が馬之介からよく見えるように手を動かした。
「兄上、兄上、ほら、よく見てくれ」
「一体何を――」
眉を
親信は首を傾げるばかりである。
馬之介は、どうしたわけか、先ほどまでの非の打ちどころのない若者から、霊験あらたかな札に怯える悪霊のように縮こまってしまった。それを見た幸之進は、鬼の首を取ったようにして、にやりと意地悪く笑った。
「兄上は相変わらずだのぅ」
「お、おぬし、そのような大金をどこで――っ」
プルプルと震えている従兄に、幸之進は小判を指で弾きながら言った。
「小遣いだと。好きなものを買えとのことだ」
「こ、こ、小遣いだと――」
青ざめている。一体、この二人は何を遊んでいるのだろうか。形勢逆転した二人を眺めつつ、親信はどうしたものかと困惑していた。
そんな親信に、幸之進はにっこりと微笑む。こういう笑顔はろくなものではない。
「微禄というのは大変なものでな、貧乏も長いと
わかっているのならそう苛めてやるなと言いたいが。
そうした環境で育ったわりに、幸之進だけ何故にこう無頓着に育ったのかはよくわからない。金勘定とは無縁に、叔父たちの庇護の下、のんびりと過ごしていたということだろうか。嫡男である馬之介はしっかりと受け継いでいるようだが。
「質素倹約、無駄と贅沢は敵。しかしだ、姉上が嫁入りする時に支度金をたっぷりと頂いたではないか。それなのに、未だに慣れぬのだからなぁ」
この二人を見る限り、その姉とやらも相当な美人であっただろう。武家は町人とは違い、器量望みなどはしないが、そうは言いつつも麗しい容姿が悪く働くことはない。
「支度金は支度金であって、我らが使ってよいものではないっ。余った分は
絹代というのは馬之介の妹のことらしい。
なんとも生真面目な家族だ。その妹も仕合せだろう。
そこでなんとなく、小判を翳す幸之進から間を取り出した馬之介であった。
「それは黄金色が眩しくて直視できぬので、遠ざけたのではないのか?」
そんな莫迦なと言いたいが、その時に幸之進がわざとらしく小判を落とした。その途端、馬之介がギャッと飛び上らんばかりに驚く。
――ついさっきまで非の打ちどころのない若侍であったはずなのだが、何か妙なことになってきた。気の毒なような、しかし、もとはと言えば幼少期から幸之進と接してきたはずなのに、躾けられていない馬之介も悪いような気もする。
ゆっくりと小判を拾い上げる幸之進。それを緊張の面持ちで見つめる馬之介。
親信も貧乏だった。貧しかった。高級なものとは縁がなかった。
しかし、小判に気は張るけれど、こんなふうにはなっていない。馬之介は、親信以上に貧乏だったのだろうか。想像を絶するものがある。――やはり気の毒になった。
「幸之進。それくらいにしておけ。仮にも兄上だろうに」
ため息交じりに止めると、幸之進はうむと言ってうなずいた。
「勘違いしてもらっては困る。俺は姉上の次に兄上が好きだし、別れもつらかった。こうして顔を見られて嬉しいのだ。それは可愛がってくれておったからな」
そのわりにはひどい扱いである。
堂々と、面と向かって姉上の次にとか言っている時点ですでにひどいが。
「馬之介殿、随分と甘やかしたのではないかな?」
思わず言ってやりたくなった。馬之介は、額にじんわりと汗を掻いている。
「そ、そう、やもしれませぬが」
幸之進は甘え上手であったのだろう。それから、育ってもこの容姿なのだから、幼い頃などは本当に可愛らしかったと思われる。
家族は幸之進とその母を不憫だと言って優しくしてくれたとは言っていた。顔を合わせることはないと思っていたが、合わせたのだから色々と言ってやりたい気持ちはある。しかし、甘やかさずとも幸之進は曲がって育ったという気もした。
出生がどうとか、生い立ちが可哀想だとか、不遇だとか、そういうことではない。生まれ持った性質が人とはずれている。顔がいいからごまかされているが、歪んだ男だ。
「馬之介殿にここで会ったのも潮時だということだ。おぬしもそろそろ観念して家に戻ればよいのではないのか」
散々羽を伸ばしたのだから、そろそろ戻ればよいのだ。そうしなければ、それこそ戻る家がなくなってしまう。いつまでもこうしていられないことくらい、幸之進にも本当はわかっているだろうに。
すると、幸之進はブルル、と身震いした。何を思い出したのやら。
「嫌だ。それだけはどうしても嫌なのだ。俺はもうあそこには戻らぬ」
幸之進が口を尖らせても、どこまで本気かは読めない。本当に、そんな地位を捨ててもよいものだろうか。
馬之介が口を開きかけると、幸之進は小判の光を馬之介に当てるようにして翳した。馬之介は目が眩んだのか、仰け反っている。
――二人して遊んでいるように見えてきたのだが、この状況はなんなのだろうか。
「なあ、兄上、俺は屋敷を出たのだ。戻るつもりはない故に、俺の居場所は何があっても知らせずにおいてほしい。伯父上や伯母上にも内緒だ」
「おぬしはまた、どうしてそうわがままを申すのだ? どれだけ望んでも得られぬ家柄なのだぞ。叔母上のことが不憫だから、父上を許す気になれぬのか?」
すると、幸之進は一度真面目な顔をした。どこか冷ややかでさえある目に、馬之介も己が口にした言葉を悔いたのかもしれない。
「母上の心は母上が決めることだ。俺がそれを理由にするわけではない。父上を許すも何も、それほど多く顔を合したこともないのでな、好きでも嫌いでもない」
互いに関心のない親子なのだ。
幸之進は、本心では行きたくなかった。しかし、断れるわけもなく、渋々赴いたということだ。父に会いたい気持ちもなかったのだろう。
それでも、少しくらいは何かを期待していたとも思う。それが失望に変わったということもある。
そこで幸之進は手に小判を持ったまま、またしてもにっこりとわざとらしいほどに笑った。
「あの屋敷は居心地が悪いのだ。俺が退屈を嫌うのを兄上も知っておろう?」
馬之介はげんなりとして見えた。
幼少期の幸之進――幸丸は、きっと無邪気な笑顔を振りまきながら色々な悪戯を仕掛けたのではないだろうか。しかも、その都度、もう次はやられないと心に誓うのに、毎回その笑顔に騙される形になってしまう。
成長した二人を見ていて、親信にはそんなふうに思えた。だとするなら、やはり馬之介はとても気の毒かもしれない。
「あそこにいたら、俺は早死にする。絶対にだ。兄上はそんなに俺が早死にすればいいと思っておるのか?」
退屈を感じていられるほど恵まれたこともない。貧乏人は稼がねばならないので、いくら時があっても足りないほどだ。その退屈が気鬱で早死にするなどとは贅沢が過ぎる。
しかし、幸之進はどこまでも本気で言っているようだった。馬之介は顔を押さえて深々と嘆息した。
「退屈だなどと言っておらずに、文武に励んで立派な男になれ。幸之進、おぬしはやればできる子なのだ。幼い頃は神童と称されたほどに出来がよかったではないか」
「そのような昔のことは忘れた。人生は短いのだ。嫌なことは嫌だ」
いい年をして駄々をこねる幸之進は、しかしただの子供よりもたちが悪いのである。小判でひらひらと顔を仰いでいたかと思うと、その縁を唇に当て、そうして微笑んだ。
「兄上、俺はあの屋敷には戻らぬ。だから、今日、ここで俺と会ったことは忘れてくれ。伯父上たちにも迷惑はかけたくないのでな、もし父上の使いから何か訊ねられたとしても、知らぬ存ぜぬを通してくれ。頼む」
「そういうわけには参らん。おぬしもいつまでも風来坊のようなことをしてはおれぬだろう。向井殿にもご迷惑だ」
小判の輝きに怯みながらも、馬之介は言い返した。『向井殿に迷惑』とは、もっと言ってやってほしい。
しかし、幸之進の方がいくらか上手なのであった。小判をまたヒラヒラと動かすと、意地の悪い笑みを浮かべた。
「兄上がそんなにも頑ななことを申されるのなら、致し方ない。この小判は神田川に流そう。いや、大川の方がいいか?」
「は?」
思わず親信の方が声を上げてしまった。
何故に自分の持ち金を川に流すのだ。
親信には意味がわからなかったが、馬之介には効果
「ななな、なっ、何をっ」
あたふたと取り乱す馬之介に、幸之進は満足げであった。
「ああ、勿体ない。川に流れていっては拾えまい。兄上のせいだ」
どこが馬之介のせいなのだか。呆れ果てて何も言えずにいる親信であったが、馬之介はすっかり冷静さを失っていた。
「わ、私のせいだとっ? や、やめないか。今日のことは誰にも言わん。言わんから、もうその小判はしまえっ」
捨てるくらいならくれと言ってもよさそうなのだが、そういうことではないらしい。むしろ、どうぞと言って手渡されたら卒倒しそうだ。
貧乏は確かにつらいが、馬之介はこんなふうになるほどにつらい目に遭ったのだろうか。
だとするなら、親信はまだまだましな方かもしれない。この程度で貧乏などとは笑止千万――だったりするのか。
「武士に二言はなかろうな?」
首を傾げてみせる幸之進に、馬之介はこくこくとうなずく。
「ない。だから、早く――」
「よし。わかってくれたのならばよいのだ」
幸之進が小判を紙入れに戻した途端、馬之介は胸元を押さえて大きく息をついた。あの黄金色の輝きを前にしては生きた心地がしなかったとでも言いたげだ。
馬之介はようやく我に返り、親信の視線に気づくと気まずそうにうつむいた。
「これはお見苦しいところをお見せ致しました」
恥じ入っている従兄の傍らで嫌な笑みを浮かべている幸之進は鬼かもしれない。
旗本の嫡男であり、見目よし、性根も清く、文武両道といった、非の打ちどころのない男であったはずの馬之介だが、どんな者にも欠点はあるのだとしみじみ思った。
欠点というのもおかしなものではあるけれど。
がっくりと項垂れている義兄の肩にそっと手を添え、幸之進はその耳元で優しくささやいた。
「兄上のような立派な武士ならば、そのうちに家格は上だが不器量で嫁の貰い手がなく、年を重ねた年増の嫁が、これでもかというほどの持参金を吊り上げて嫁いでくださるさ。そうしたら、浅霧家の懐もあたたまるのだから、もう少しの辛抱だ」
「おぬしは慰めるという言葉の意味を知っておるか?」
すかさず言った親信であったが、本当にそれが起こり得る気がして複雑であった。
馬之介は、はぁと息をつく。
「向井殿、幸之進がご迷惑をおかけして相すみませぬ。いつもこの調子なのでしょう? 本当に、なんとお詫び申し上げてよいやら――」
わがまま放題であるが。
身内がこんなにも詫びてくれているというのに、当の本人は何故詫びられているのかどうでもよさそうだった。
「兄上、俺は親信殿のお子たちの面倒も見ておるのだ。むしろ役に立っておる」
偉そうに言われた。実際に見てもらってはいるけれど。
しかし、幸之進が役に立っているということに馬之介は少しばかりは安堵したように見えた。
「左様でございますか? お役に立てているのならばよいのですが――」
「うむ。親信殿の娘の加乃殿は、それは愛らしい娘御なので嫁にもらいたいと思うておる。今から手懐ければ十年後には丁度よかろう?」
アハハ、と笑っているが、なんとなく幸之進の目が笑っていない。馬之介の方が目を白黒させた。
「お、おぬし、冗談も休み休み申せ」
「いやいや、親信殿のような父上ができたらよいと思うのだ。うちの父上は返上したいので、親信殿を父として慕うことにしたのだ」
ゾッとするようなことを言うが、やはり目が笑っていない。
「向井殿を父と――」
馬之介が疲れ果てた様子でつぶやいた。その時になって、幸之進は心底嬉しそうに微笑んだ。馬之介の手を取り、握り締める。
「そうしたら、兄上も向井殿と親類だ。いや、楽しいなぁ」
――幸之進は、久々に馬之介に再会してはしゃいでいる。親信はようやくそれに気づいた。
いつも、この心優しい従兄をからかっては遊んでいたのではないだろうか。自分の言動で従兄があれこれと困惑する様子が楽しくて仕方がないのだ。
父の屋敷を飛び出した以上、実家にも顔を出せないと考えていた。実家の馬之介たちにもなかなか会いにはいけないのだと諦めてもいただろうに、それが思いがけずに会えた。
居場所を知らせてほしくはないけれど、馬之介に会えて本心では嬉しいのだ。
これが愛情表現かと思うと、やはり懐かれたくはないのだが。
「そういうことなのでな、兄上。しばらくそっとしておいてもらいたい。何があっても父上のところに知らせぬように頼む。それから、俺の家を親信殿に教えるのもなしだ。もし知らせたら――」
と、幸之進は懐にしまった紙入れの縁を、まるで刀でも抜くかのような仕草でつまんでみせる。
馬之介はギクリと体を強張らせた。傍目には二人してふざけているようにしか見えないのだが、馬之介の方は真剣である。
「わ、わかった。今日、私はおぬしに会わなかった。これでよいのだろう?」
すると、幸之進はにっこりと満面の笑みを浮かべてみせた。
「さすが兄上だ。またいつか、落ち着いたら伯父上たちにもお会いしたいとは思っておる。けれど今はまだ無理なのだ。兄上もあまり会いに来てくれるな」
会いに来てくれるなと言う。会えて嬉しいくせに、そこから足がつくといけないからか。
馬之介は納得しきれていない様子だったが、幼い頃から幸之進を知るだけあり、下手を打つと何をするかわからないとも思っているのだろう。嘆息すると、言った。
「あまり向井殿にご心労をおかけせぬようにな」
「そんなものはかけたことがない」
「ほう?」
なかったのかと、親信は今までのあれこれを思った。
いつまでも気が気ではなさそうな馬之介と別れ、親信と幸之進は家路を急ぐ。あのまま馬之介に引き渡してやった方がよさそうなものだが、それをしなかったのは、子供たちのためかもしれない。
ちゃんとした別れもしないままに幸之進が去ったら、加乃や親太郎、手習所の子供たちが寂しい思いをするから。だから、親信は今日もこのまま幸之進を連れて帰るのだ。
「俺は何も覚えておらんということにしてあるのだから、長屋に兄上が来ては厄介だ。親信殿、住まいは教えておらぬのだろうな?」
歩きながら幸之進はそんなことを気にしていたけれど、親信が教えずとも兵衛が教えたかもしれない。ただ、馬之介は脅されながら渋々にしても約束は守ってくれそうではある。
「教えてはおらぬが――」
それだけ答えておいた。
すると、幸之進は振り返って力の抜けた笑みを見せた。
「それと、兄上に、俺が斬られたことを話さずにいてくれて助かった。あの話を出していたら、兄上は危なっかしいとばかりになんとかして俺を家に戻そうとしただろうからな」
「そう思うのなら、追々戻ればいいのだ」
いつまでもこのままというわけには行かない。そのうちに収まるべきところに収まるしかないのだ。
父と顔を合わせたくない、あの家は窮屈だと逃げ回ってばかりいたのではなんの解決にもならないのだから。
それでも、幸之進はへらへらと笑うだけだった。
「そうだなぁ。まあ、気が向いたらということにしておこう。今生では向かぬやもしれぬがな」
それならば、今生は親信の家に居座るつもりなのか。
さすがにゾッとする。このままずっとこの男に振り回され続けるのかと思うと気が遠くなる。
「まあ、よいではないか。楽しく過ごすのが一番だ」
「私には先のことを何も考えずに生きられるおぬしがわからぬがな」
「親信殿はなんでも難しく考えすぎなのだ」
「おぬしが考えなさすぎなのだろう?」
そんな小言も、幸之進には通じない。尻尾をピンと伸ばして歩く猫のように上機嫌で、そのうち鼻歌でも歌いそうな勢いだった。
「――馬之介殿に会えてよかったな」
上機嫌の理由がそれなのだろう。だから口に出して言ってやった。
すると、幸之進は、うむ、と答えて笑った。そこでやめておけばいいのに、ひと言が多い。
「しかし、兄上よりも姉上にお会いしたかったな。姉上の方が好きなのだ。嫁いだ時は寂しかった」
「せっかく会えたのに可哀想なことを言ってやるな」
薄情な従弟である。
幸之進はそれでもお構いなしに、親信よりも先になって家の戸を開け、子供たちを一度に抱き締める。
「ただいま、加乃殿、親太郎」
「ゆきし、おかえりなさぁっ」
「お、おかえりなさいませ」
「やめんか」
親太郎はともかく、加乃にまで抱きつくので、親信は幸之進から加乃を引き剥がした。ただ、加乃はそんなに嫌がってもいなかったのかもしれない。ほんのりと頬が赤いだけで、顔色に嫌悪感はない。
親信にはそれがまた複雑である。
今に、幸之進様のところに嫁ぎたく思いますと言われた日には立ち直れないかもしれない。大事な娘なのだ。立派な男に嫁がせてやりたい。沙綾も草葉の陰ではらはらしているはずだ。
この調子では、盆に帰ってくる沙綾に大丈夫だとは言えない。親信は頭が痛くなった。
「時に、親信殿。今日の夕餉はなんだろうか? 騒いだら腹が減ってきた」
いつでも細かいことは気にしない幸之進だが、今頃馬之介はやきもきしていることだろう。そのことも含め、改めて馬之介が気の毒になった親信であった。
【肆❖剣と小判の六月 ―了―】
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