伍❖賑わいの七月
第30話
七月七日。俗にいう七夕である。
七夕は、短冊に願い事を書いて竹に吊るすという風習があるのはもちろんのこと、手習所ではこの時に
それから、七夕にはもうひとつ大事な行事がある。それが長屋の
井戸の水を抜き、井戸職人を井戸の中に下して中を掃除する大事な行事なのだ。水を使わない店子はいないのだから、誰しも他人事ではない。井戸浚えに参加せねば長屋では爪弾きにされる。
江戸のどこでもこの井戸浚えは同日の朝に行われる。このきなこ長屋でも、毎年恒例の井戸浚えが行われようとしていた。
まず、井戸水をすっかり汲み出してしまうのだけれど、それも重労働だ。だからこそ、親信のような男の出番である。
親信は男やもめで二人の幼子を抱えている。それ故に、長屋の皆は菜の裾分けをくれたり、親信が働いている時には子供を見てくれたり――普段、何せ世話になっている。その恩返しができる日が、特にこの井戸浚えの七夕であるように思われる。
だから、前の晩は早めに眠り、今日に備えた。体力は十分である。朝餉の席で張りきる親信に対し、居候の若侍、幸之進は小首を傾げた。
「そんなに張りきって、親信殿が井戸の中に入るのか? それは迷惑だ。やめた方がよい。重たい」
いちいち腹の立つ男である。顔立ちは美しく整っているものの、口を開くと首を締めてやりたくなるような性格である。
「誰が井戸に入ると言ったっ。私は水を汲み上げたり、井戸職人を引き上げる縄を引いたり、力仕事で皆の役に立とうというだけだ」
井戸水を抜いた後に井戸の中に底に溜まった異物を掃除する井戸職人は、大抵が小柄なのだ。そうでなければ下ろすのも上げるのも大変なので、まずお呼びがかからないだろう。
間違っても親信のような大柄な男が井戸職人にいないことだけは確かである。
幸之進は、ぽん、と手を打った。
「おお、なるほどな。半治殿に和吉殿、この長屋は若い男が多いから楽なものだ」
「おぬし、だから己は手伝わずともよいなどとは言わぬだろうな?」
「俺は非力だ。ほら、見ろ、この細腕を」
などと言ってなまっちろい腕を二の腕まで捲って誇らしげに見せる。何故誇るのかがわからない。
親信は嘆息しながらぼやいた。
「非力なのは知っておるが、手伝え。
「おみち殿の方が俺よりもましやもしれんが」
「うう、嫌だ。面倒だ」
なんてことをつぶやきながら、幸之進は親太郎の小さな頭に顎を載せている。
そういうことは思っていても言わないのが大人だろう。いや、子供でも遠慮して言わない。
そばで加乃が苦笑していた。
「長屋の皆さんにはいつもお世話になっていますから、わたしがお手伝いできるとよいのですけど」
加乃があんまりにもすまなそうに言うから、親信の方が娘の性根の綺麗さに心打たれていた。そして、どうしようもない幸之進のような男でも、たった六つの健気な加乃に重労働をさせるくらいならば己がやろうと思えたらしい。
「ならば、加乃殿の代わりに俺がやるしかないな。うむ、うむ」
一人でうなずいている。
やる気になったのなら余計なことは言わないでおこう。
親太郎もきゃっきゃとはしゃいだ。
「ゆきし、やるの?」
「そうだ。嫌だが手伝おう」
そんなに嫌々なのを隠さないのもどうかと思う。自分に正直すぎる男だ。
幸之進は、呆れて冷たい目をしていた親信に顔を向けると、にっこりと微笑んだ。
「親信殿、終わったら褒美をくれぬか?」
褒美と来た。気が遠くなりそうな発言である。
親信はキッと幸之進を睨んだ。
「居候の分際で見返りを求めるな」
「よいではないか。ほら、最近評判の浅草奥山の見世物小屋へ行きたいのだ。井戸浚えが終わったら皆で行こう。な?」
浅草寺の奥に
高いには高いなりの理由があり、無駄金ではないはずだ。しかし――高い。
そんな親信の頭の中を覗いたかのようにして幸之進が言う。
「金の心配ならばせずとも俺が払うぞ」
あっけらかんと言うが、その金も無尽蔵ではない。そのうちになくなるというのに、幸之進はいつもこれだ。
「そう安くはないぞ」
「そうか。高いのか。それは素晴らしい見世物なのだろうなぁ。楽しみだ」
怯むどころか喜ばれた。ほくほくと楽しげな幸之進を見て、根っからものの考え方が違うのだと、親信は諦めた。
幸之進はというと――。
「親信殿、自分だけ留守番をして札銭を一人分浮かそうとするのはなしだ。皆で行こう。加乃殿も親太郎も、父上が留守番では心から楽しめんのでな」
幸之進は自分が見たいばかりではなく、もしかすると見たいと言い出せない加乃のためにこんなことを言い出すのだろうか。そわそわとしている加乃に気づいて親信はそんなことを思った。
親信だけでは多分、連れていってやらなかった。加乃が見世物小屋に行きたいなんて、気づきもしなかったかもしれない。
「――わかった。皆で行こう」
こういう時、ほんの少しだけ幸之進に感謝してもいいかという気になる。適当でいい加減な男だが、それでいて人の心の動きに敏感なところがあるように思うのだ。
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