第31話
朝餉を終えると、さっそく井戸端に長屋の連中が集まっていた。
「ああ、チカさん、ユキさん、おはよう。今日は頼んだよっ」
みちは
「うむ。親信殿がいれば百人力なのでな。何も心配は要らぬよ」
その場合、幸之進は何人力なのだろうか。親信が百人分だから、自分は一人分に満たなくてもいいだろうと思っていやしないかという気がした。しかし、そんな親信の眼差しを避け、幸之進はやってきた半治と和吉に挨拶する。
「半次殿、和吉殿、俺はこの長屋では新参者故、井戸浚えの作法もよく知らぬ。今年は教えてもらうつもりで来た。よろしく頼む」
今年は教えてもらうとは、来年もこの調子でここにいるつもりだろうか。実際はそんなことを言って手伝うのを避けているだけである。ものは言い様だ。
しかし、この二人は幸之進に甘い。
「へへ、そんな大層なもんじゃありやせんが」
「そうですよ。皆でちゃっちゃと済ませちまいやすので、幸之進様は見ていておくんなさい」
なんてことを言う。
「おお、ありがたい。なんとも頼もしい限りだ」
幸之進は笑顔を振りまいているが、親信としてはそこで幸之進が手伝わないというのは駄目だろうと思う。
「あまり甘やかさんでくれ。こやつも井戸水で煮炊きしたものを食べるのだ。手伝うのは当然だ」
親信が口を挟むと、幸之進はぐぅ、と小さく唸った。せっかく上手くいきそうだったのにとでも言いたげである。
ちらほらと、長屋の皆が集まってくる。大家の安兵衛と、それから多摩と、その
「皆さん、おはようございます」
多摩がぺこりと頭を下げた。その場の皆がフッと表情をゆるめる。
「おはよう。ええと、
ハハ、と半治が軽く笑う。多摩の父、卯吉は小柄で物静かな男だ。照れたように笑い、頭を掻いている。女房の
「去年はおとっつぁんも手に怪我をしていたし、わたしたちもあんまりお役に立てた気もしなくって、今年はちゃんとしたいねって話していたんです」
と、多摩が恥じ入りながら言う。小柄な女たちだから、やはり力も弱い。それは仕方のないことだろう。
そんなことを話しているうちに大家がまとめにかかった。
「さあさあ、そろそろ始めようか。今日ばかりは井戸職も忙しいからね、来た時に井戸水が抜けていないと後回しにされてしまうよ」
へぇい、と半治がおざなりな返事をした。
親信はキリリと襷がけをすると、率先して前に出る。幸之進は、職人だけあって腕を痛めたくないのかやや腰が引けている和吉のさらに後ろについた。
この場でやはり頼りになるのは親信と半治である。半治は濡れるのが嫌なのか、豪快に
幸之進は顔のわりに羞恥心がなく、褌一丁のところを誰に見られてもまるで無頓着だ。夜などは暑いからと言ってすぐ着物を脱ぐので、何度か真剣に外へ放り出そうかと思ったほどだ。加乃によくない影響がありそうで。
ただ、朝外に出て下帯しか着けていない男が転がっていたら、多摩が卒倒してしまう。やはり人目につかないところへ隠しておかねばならない。
――本当に厄介な男だ。それにしても莫迦らしい悩み事である。
ざばぁ、ざばぁ、と大きな水音が絶え間なくして、それに笑い声や掛け声が混ざる。
暑気と、体を動かして火照った肌に水飛沫が心地よかった。こんな日は、少々濡れてもすぐに乾く。
「いやぁ、いいねぇ、力仕事で頼りになると男っぷりが上がるもんさ。うちの長屋はいい男がいて助かるねぇ」
「本当だねぇ。まったく、うちの宿六はどこ行ったやら。こんないい男たちが亭主だったらいいのにサ」
みちと丹美がそんなことを言いながらはしゃいでいる。親信も半治も逆に力が抜けそうだったが、早く終わらせたい一心で水を汲み続けた。和吉は手伝うが、幸之進は手伝う素振りで水を汲み上げていたのに、さほど水が上がってこなかった。軽くしか汲まずに手を抜いている。
言いたいことは色々とあったが、とにかく親信はせっせと水を汲み続けた。急いでいるのだ。幸之進に構っていられない。
すると、ようやく熟練の井戸職人が来て、皆で井戸職人の腰につけた縄を引きながらゆっくりと下ろした。
井戸職人は井戸の壁を洗い、底に溜まった落ち葉などの塵も拾い集めてくれる。井戸職人を引き上げると、井戸に戸板で蓋をして、その上に神酒と塩を供える。ここまでして井戸浚えがようやく終わるのだ。
ここで慰労の席が設けられるのだが、酒も飲めない親信は早々に切り上げるのみである。
「終わった。やぁっと終わったなぁ」
などと言って幸之進は伸びをしているが、一番疲れていないはずである。井戸端で皆が水神を祀りながら酒を酌み交わしている中、親信たちはそろりと抜け出したのだ。
その時、多摩が後ろに続くようにしてついてきた。多摩も酒が飲める口でもなく、居心地はよくないのだろう。
多摩は引っ込み思案で人見知りだから、半治のような男が苦手に見える。嫌いではなく、苦手なのだ。どう接していいのかわからないというところだろう。和吉にもよそよそしいのだが。
親信に対しては緊張しながらも声をかけてくる。子持ちのやもめは他の男とは違い、安心感があるのだろうか。
「お多摩殿ももう戻るのか?」
「ええ、お酒も飲めませんし、わたしはお喋りも得意じゃありませんから」
困惑気味に答えるが、思えば多摩は幸之進にも壁が薄いような気もする。こうして並べて見ると年頃も近く、似合わないこともない。ただし、それは見た目だけの話だ。中身が伴っていない幸之進だから、多摩にはもっとよい男を選んでもらいたい。
「聞き上手がいなければ喋る者だけでは成り立たんのだ。そんなことは気にせずともよいのに。お多摩殿はにっこり笑ってそこに座っておるだけで場が華やぐのだからな」
平然と言ってのけるが、その端整な顔でそういうことを口にすると、若い娘はころりと落ちるのではないのか。親信が横ではらはらしていても、多摩は特別な変化もなく、フフ、と笑っただけであった。
「ありがとうございます」
顔がよくて口が上手いだけの男にはなびかない。多摩は案外しっかりと芯のある娘らしい。親信は密かに感心していた。
親信が見ていたからか、多摩はふと親信の方に顔を向け、少し照れたようにしてうつむく。そんなに見ていたつもりはなかったが、気になったのだろうか。
そんな中、幸之進は不意に切り出す。
「お多摩殿は浅草奥山の見世物小屋へはもう行ったのかな? 今、話題になっておるだろう?」
すると、多摩は顔を上げてゆるくかぶりを振った。
「いいえ、すごい細工物だって噂には聞いたんですけど、その、ちょっと人混みが苦手なので――」
「人混みが苦手か? 俺もだ」
何か違う気がする。
幸之進が人混みを苦手とするのは、家の者に見つかるからなのと、斬った侍に出くわしたくないからだろうに。
何を奇遇だとでも言いたげにしているのやら。図々しいことこの上ない。
しかし、それでも多摩は気が楽になったのだろうか。目を瞬いている。
「そうなのですか?」
「うむ。人混みは苦手だが、見世物は見たいのだ。ほら、親信殿がおれば心強かろう?」
図体がでかいからといって、親信は人除けの盾ではないつもりだ。人混みに流されても、親信が頭ひとつ抜けているためにはぐれにくいというのはあるかもしれないが。
そこで幸之進はぽん、と手を打った。
「そうだ、お多摩殿も見世物小屋へ一緒に行かぬか? 加乃殿と親太郎も連れてゆくから、皆で行けば安心だろう?」
「わ、わたしまでお邪魔をしてもよいのでしょうか……」
幸之進の提案は唐突で、多摩の方が困っているように見えた。ちらちらと親信の様子を窺ってくる。
誘ったのは幸之進の勝手だが、多摩には日頃から世話になっている。こんな時にその恩が返せるのなら、と親信も考えた。そのための札銭一人分、三十二文は惜しくはない。
「うむ。お多摩殿が嫌でなければ一緒にどうだろうか?」
親信がやんわりと言うと、幸之進は、ほらと言って笑った。多摩は、顔を真っ赤にしているものの、嫌がってはいないように思えた。
「で、でしたら、その、お願い、したい、です」
急にうつむいてぼそぼそと話す。幸之進は親信に何か目配せをするが、その意味はまったくわからなかった。
「では、昼餉を済ませて支度ができたらうちに来てくれ。家で待っておるのでな」
「は、はいっ。急いで支度しますっ」
いつになく大きな声を出し、多摩は慌てて走っていった。あんなふうに走ることもあるのだなぁ、と親信は意外に思う。
立ち尽くす親信の腕を、何故だか幸之進が肘で突いた。
「親信殿は女子の気持ちがまるでわかっておらんな。それでよく所帯が持てたものだ」
――とても余計なことを言われた。
とても、とても余計なお世話である。
「いきなりなんだ?」
「いいや、それが親信殿のよいところでもあ――るわけないか」
などと言って幸之進に嘆息された。妙に腹立たしいが、幸之進のことは放っておくに限る。
親信はさっさと家に戻った。
「加乃、親太郎、井戸浚えは終わったぞ。それと、見世物小屋へはお多摩殿も一緒に行くことになったから、お多摩殿の支度が済んだら出かけよう。その前に昼餉だな」
飯は朝のうちに炊いたので、それを茶漬けにしてさらさらと流し込むだけである。向こうに行けばお祭り騒ぎで屋台も立ち並んでいるのだろうから、腹八分目にして何か買い食いするのもいいだろう。こんな時くらいは特別だ。
加乃は、パッと表情を明るくした。
「お多摩さんもですか。皆で行けるのは嬉しいです」
親太郎は、まだどこへ何をしに行くのかをよくわかっていないらしかった。しかし、加乃が喜ぶから一緒になって喜んでいるといった具合である。
子供たちの明るい顔が見られて、親信もまた嬉しかった。
――七月朔日には、軒先に供養の白張提灯を提げ、それから加乃と親太郎を連れて沙綾の墓参りをした。加乃と親太郎は普段、母のことをあまり口に出さない。しかし、それは一年経ったからである。それまでの一年は、親太郎は泣いてぐずると母を呼び続けた。どんなに泣いても現れてはくれない母を。
それを加乃がいつも根気よく諭した。そんなふうに泣いたら、母上が困ってしまうと。
親太郎はいつの間にか、母を恋しがって泣き喚くことをしなくなった。泣いても来ないのだと知ったからでもあるだろうし、それを言うと親信や加乃が悲しい顔をすると学んだからであるような気がした。
加乃は、母上はここにおらずとも、ずっと自分たちを見守ってくれているのだと親太郎に語った。けれど、それを語る時の加乃の背中は震えていて、親太郎もいつの間にか泣くのをやめたのだ。親太郎なりに加乃を悲しませてはいけないと我慢してくれている。
だから、二人はあまり母のことを言わない。語り出すとまた悲しくなってしまうから。
しかし、本当はそれではいけない。あんなにも家族に尽くしてくれた沙綾だから、本当は笑って思い出を語ってやるべきなのだ。こんなふうに口の端にも上らないなんて、本当は寂しいことだ。
それでも、そう思っていても、今はまだできない。けれどいつかは、笑って語ってやりたいと思う。
傷の痛みがもう少し引いた頃に――。
「お多摩殿は親信殿に任せるのでな、加乃殿は俺と手を繋いでいこう」
しんみりとしていた親信の思考に、幸之進の明朗な声が割り込む。
「何を言っておる――?」
青筋立てて親信が睨んでも、幸之進は飄々としているばかりである。
「何とは、人が多いのではぐれてはいかんだろう?」
「それはそうだが、おぬしがお多摩殿を誘ったのだから責を持つべきではないのか?」
「若い娘を伴っておる若者が
と、またなまっちろい腕をさらしてくる。それはもういい。
親信はどっと疲れた。
「その点、加乃殿と手を繋いで歩いていたところで兄妹に見えるだろうから、絡まれる心配は少ないぞ」
アハハ、と軽く笑っている幸之進の首をつかんでがくがくと揺さぶってやりたい衝動に駆られたけれど、親信は耐え抜いた。
「ちーうえ、だーじょーぶ?」
親太郎に心配されるほどには顔に出ていたかもしれないが。
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