第32話

 茶漬けで昼餉を終え、茶碗を拭いて箱膳に片づけた頃になって多摩がやってきた。


「あの、支度ができましたが――」


 多摩は先ほど、どぶ板を外したみぞを浚ったりして汚れたと気づいたのか、いつもの味噌漉縞みそこしじまの着物から着換えていた。長屋暮らしでは着替えなど持っていないことがほとんどだ。実際に多摩がその着物を着ているのを初めて見た。


 新しくはなく、馴染んだつむぎのようだから、もしかすると母親のものを借りたのかもしれない。それでも、若い娘が着るとそれがまた似合って見える。慣れない恰好が照れ臭いのか、多摩は戸口でまっすぐ立たずに体を半分だけ見せるような形である。


「おや、お多摩殿。その着物もよく似合うておるな」


 幸之進はさらりと褒める。下心がないせいなのか、嫌味がない。

 親信が同じことを言おうと思ったら、何日もかけてどういう言い回しをすればいいのかと考えた末に言葉を絞り出すしかないのだが、幸之進は息をするほどに自然に吐き出す。どうしたらこんなふうに言えるのだろうか。


「あ、ありがとうございます。その、井戸浚えで汚れたので、あの、深い意味は――」


 もじもじとそんなことを言う。決して出かけるのが嬉しくてめかし込んだのではないと言いたいのだろうか。別にめかし込んでもいいと思うのだが。


「そうか、支度ができたのなら出かけようか」


 親信がそう言って立ち上がると、多摩の赤くなっていた顔から色が抜けた。


「はい、そうですね――」


 どこかしょんぼりとさえしている。これは親信が着物を褒めなかったからだろうか。幸之進の視線が刺さる。やはり、親信が悪いのだろうか。


 しかし、幸之進が褒めたのだからそれでいいのではないか。無骨な親信に褒められるよりは幸之進が褒めた方が、誰でも気分をよくするはずなのだから。

 親太郎を抱き上げ、親信は外へ出た。親太郎に歩かせるには少し遠い。


「楽しみだな。前評判を裏切らぬ出来であってほしいものだが」


 幸之進が加乃に笑いかける。加乃も大きく首を縦に振ってうなずいてみせた。


「はい、わたしもとっても楽しみです」


 加乃にしては感情を隠さずに表に出している。それが子供らしくて微笑ましかった。親太郎もきゃっきゃとはしゃぐ。多摩は先ほどの様子から立ち直り、そんな子供たちをにこやかに眺めていた。


 大人の足ならばそれほど遠くはないが、用がなければあまり行かない辺りである。田原町を通りかかると、医者の藤庵とうあんがどうしているものか気になった。もうすぐ亡くなったよねの新盆だから、軒下に白張提灯を吊るしてよねが来るのを待っているのかもしれない。



「おお、見えてきた見えてきた」


 幸之進の声に喜色が混じる。

 空に高く突き出す五重塔が見えた。その頃には道の人通りも増え、以前にはなかった賑わいがある。


 金竜山浅草寺は、吾妻橋の広小路を入り口に広い敷地を持つ。その入り口は『風雷神門』である。

 左右に風雷の二神を安置し、設置されたのは鎌倉時代のことという。この門は火事で何度か焼失し、再建されたもので、鎌倉時代から変わらずにそこにあるわけではない。それでも、明和四年(一六四二年)の火災の時には、風神雷神像と金竜山の額は燃えなかったとのことだ。


「あっ、大提灯ですっ」


 朱塗りの門の下、『志ん橋』と書かれた赤い大提灯が下がっている。あまりにも大きく、手で提げるような代物でもないため、しっかりと縄で下からも固定されていた。寺の梵鐘よりもずっと大きい。


 密集した人だかりの上にその大提灯がぶら提がっているのだ。落ちてきたら大変なことになるのだから、厳重にくくりつけるのも当然だろう。


「ここからはちゃんと手を繋いで行こう。な、加乃殿」

「はい」


 加乃がはぐれては困るから、誰かと手を繋ぐのはいいのだが、相手が幸之進だと嫌だと思ってしまう。娘を溺愛する親心からばかりではない。単に幸之進だと不安なだけだ。何かにつけて、一緒にいると厄介事に巻き込まれたりしないか、大丈夫かとかえって心配になる。

 はらはらする親信に、加乃と手を繋いだ幸之進は平然と言う。


「親信殿は上背があるから、俺たちが前を歩こう。その方が親信殿も俺たちが見えて安心だろう?」


 確かに、後ろを歩かれて振り返ったらいないのでは恐ろしい。


「ああ、そうしてくれ」


 それから、親信は大人しくついてきている多摩に顔を向けた。


「お多摩殿、私は親太郎を抱えているので、袖をつかんでいてくれないか。そうしたらはぐれずにいられるだろう」


 まさか幸之進たちのように手を繋ぐわけにもいかない。誰かに見られたら誤解されるだろうし、多摩もそれは嫌に違いない。親太郎を抱えながら手が塞がるのも危ないことだから、それでいいと思う。

 多摩はほっとしたのだろうか、パッと顔を上げる。それがどこか嬉しそうに見えた。


「よいのですか? ご迷惑ではございませんか?」


 そんな念を押してくる。どこまでも控えめだ。


「いや、迷惑など何もない。こう混んでいては危ないだろう?」


 なるべく多摩が気にせずにいられるように柔らかく言ったつもりだ。


「では、行こう」


 幸之進はさっさと背を向けて歩き出す。加乃も幸之進に手を引かれながら進んだ。二人を見失ってはいけない。親信は目で多摩を促した。最初こそ躊躇っていたものの、親信が歩き出したために多摩は慌てて親信の袖をやんわりとつかみ、ついてきた。


「もっとしっかりとつかんでおらんと、はぐれてしまうぞ?」


 多摩があまりにもおずおずと指先だけでつかんでいるので、人に揉まれたら容易く解けてしまいそうだった。


「は、はいっ」

「はは、もし袖が千切れてもお多摩殿が縫ってくれたらよい」


 親信にしては珍しく冗談を言ったのは、多摩の緊張をほぐしてやりたかったからだ。


「ち、ちーうえっ」


 抱き上げている親太郎が騒いだ。手足をばたばたと動かす。何を興奮しているのかと思えば、門の上に安置されている風神雷神像に驚いたようだ。睨みを利かせている像は、腕や脚にも躍動感があり、今にも動き出しそうである。


「ああ、風神様と雷神様だ。親太郎はいい子にしておるから、なんにも怖がることはない。親太郎や加乃を守ってくださる神様だ」

「ほんとぉ?」

「ああ、本当だ」


 よかったぁ、と親太郎は力を抜いて笑う。可愛い笑顔だ。多摩もフフ、と小さく笑っていた。そんな多摩を見ていて、親信はふと思い出した。


「そういえば、もうすぐ吟太ぎんたも藪入りで帰ってくるだろう?」


 弟の吟太の奉公先は谷中の料亭らしい。吟太はあの大人しい一家の中では一人だけ元気な子だった。今も根性を見せて丁稚から気張っていることだろう。


「ええ、あの子がいないと寂しくって。皆、藪入りを楽しみにしています」


 弟を可愛がっていたから、この話題に多摩は穏やかに笑った。親信もうなずいてみせる。


「ああ、うちもな、盆には妻が戻ってくるので楽しみだ。加乃はいくつも料理を覚えたし、親太郎も言葉が増えたから、子供たちの成長をきっと喜んでくれるだろう。しかしまあ、今年は余計な者がおるので戸惑うやもしれんがな」


 触れることも叶わない、目で捉えることもできない。それでも、沙綾の魂だけでも帰ってきてくれていると思うだけで心が慰められる。

 生きている時のようにぬくもりを感じたいには違いないけれど、それでも贅沢は言えない。


 親信が遠い目をして語ったからかもしれない。多摩は戸惑ったような目をしていた。


「向井様は本当に御新造様のことを大切に想われていたのですね。わたしはお会いしたことはございませんけれど、きっと素晴らしい方だったんでしょうね――」


 沙綾は誰が見ても素晴らしい女人であったと思う。親信にとって自慢の妻であった。本当ならばそれを語り尽くしたいけれど、沙綾を知らぬ多摩に延々とそれを語ってはいけないという分別はあった。


「苦労をかけてばかりだった。妻には感謝しかないのでな」


 それだけを短く言った。すると、多摩はくしゃりと表情を歪めるような笑い方をした。それが笑顔と呼べるのかもわかりづらいような表情だ。


「ずっとそんなふうに想ってくださるのなら、御新造様はお仕合せだったでしょうね」

「――そうだといいがな」


 沙綾は仕合せだと言った。

 それが本心であってほしい。


 見世物小屋の賑わいとは逆に、なんとなくしんみりしてしまった。騒がしさの中、独り取り残されたような気分である。

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